第百三十六話:青天の霹靂
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出入国の記録の帳尻を合わせるため影山は貴子のテレポートで一旦東京に戻り、改めて治療のために米国へ飛んだ。影山の渡米は意外なほどスムーズに行った。移動や入国に際して、アントニオがプライベートジェットを出すだけでなく、想定された様々な問題を率先してクリアしたためだ。
アントニオは自分が橋渡しをした筈の「羊飼い」との休戦交渉の場で影山が拉致監禁され、廃人同様になったことにかなり責任を感じていた。そのため彼は影山の米国での滞在費用から介護費用、警備費用の一切を負担すると影山物産首脳に対して申し出ていたのだ。
実際、アントニオによるこれらの力添えが市川達には望外に有り難いものであったのは言うまでもない。影山の米国入国はかなり難しいと思われていたからだ。
米国ビザ免除プログラム(ESTA)に申請する際の申請者への質問の1番目は
『身体的あるいは精神的な障害があるか、薬物乱用者あるいは中毒者であるか、現在以下に挙げる疾病のいずれかに罹患していますか? ―― 軟性下疳、りん病、鼠径部肉芽腫、ハンセン病、性病性リンパ肉芽腫、感染性梅毒、活動性結核症染病』
となっている。影山は渡航の時には解離性昏迷を始めとした精神障害を患っていたし、ヘロインによる薬物依存症状が精神、身体ともにある状態だった。両手両足も動かせない。したがってこの質問には「はい」と答えるしかないが、そうすると米国入国は「ちょっとねー……」ということになるだろう。
同じ意図の質問が米国の入出国カードの裏面の一番最初にも書かれている。
つまり米国は、薬物乱用による患者はそれが被害者だろうが経験者だろうが入国に難を示す国なのだ。これはこれまでいかにヤク中が米国で善良な市民に迷惑をかけてきたかの現れだろう。
ちなみにESTA申請者への4番目の質問には以下の文がある。『テロ行為、スパイ活動、破壊工作、大量虐殺に関与するつもりですか? あるいはこれまでに関与したことがありますか? 』
……影山に、米国の入国管理に対して何か偉そうに言う資格はないようだ……。と言っても当の影山は言葉を発することさえ難しい状況なのだが……。
だがアントニオの財力と影響力があれば、そんなことはさして難しい問題でもなかったようだ。超一流の弁護士をダースで雇ったのか、入国管理官の頬を分厚い札束で張り倒したのかは市川達には最後まで教えられなかったが、影山は無事にシャーロットのいるルーカス邸へと送り届けられたのだった。
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影山の肉体的な損傷は、治療費さえ惜しまなければそう深刻なものではなかった。腱の断裂や関節部の破壊については現代医学の範囲で治療可能であり、損傷した神経の修復についても先端医療を用いれば十分に治療可能な範囲だったのだ。
問題があるとすれば影山の薬物依存の治療スケジュールがなかなか外科手術のスケジュールと合わないことだった。
特に麻酔薬の選択と注入には担当医が及び腰になり、外科手術の施行の是非が常に問われた。
これは影山がベルンハルトに投入されていた薬物がヘロインのみと確定されていたわけではなかったためだ。何がきっかけで離脱症状や薬物効果の増幅が起こるかわからない以上、その懸念は当然といえば当然だった。
影山は未だ昏迷状態からは脱していない。それゆえ外科手術がうまく行ってもその後のリハビリテーションに期待できないと判断した医療スタッフ達は麻酔薬の試験投入などの努力はしたものの、外科手術に対する積極性は若干薄れていた。そこに手を挙げたのがルーカスだった。
ルーカスは米国医師免許を持つ立派な米国市民だ。と同時に今やサンフランシスコのベイエリアのバイオベンチャー界隈では知らぬ者のないネオイリアの代表取締役会長でもある。
ベイエリアではひょうきんなビジネス成功者としか見られていなかったルーカスが久しぶりに白衣に袖を通すことが知れ渡ると、周囲は好奇の目でルーカスを追った。
「びっくりしたよ。この間ルーカスさんの部屋に行ったら彼、エクセルの画面じゃなくてCTの画像見てるんだよ」
「ああ、影山って患者を診てるらしいよ」
「影山? 誰それ?」
サンフランシスコでランチが人気のチキンカレー屋では、毎日のように誰かがルーカスの医業復帰について噂していた。
ルーカスは影山の治療にすでに米国でFDAに認可されたiPS細胞や骨髄由来間葉系幹細胞による治療を提唱し、大学病院と結託してこれを実行した。事業を拡大し多岐にわたる先端医療器具と薬品の開発を行うルーカスとネオイリアにとって、影山の手足や内臓の修復は容易とまではいかなくとも、社内にある器具とスタッフ、それに病院の協力があればなんとかなるレベルだったのだ。
ちなみに、治療に必要な影山のiPS細胞と骨髄由来間葉系幹細胞の培養にはクロエが手を挙げ、チームを率いて24時間体制で行った。彼女もまた、影山の治療にはどんな形でもいいから関わりたいと思っていた一人だ。
ルーカスは更に、ネオイリアが多く雇った医療行政や新薬認可制度に関するスペシャリストを動員した。FDAに認可されていない治療法に関してもなんとか理由をつけて書類を作成し、先駆け審査指定制度を使って影山への適用を認可させようとしたのだ。
最終的にはルーカスが主張する「当面の命の危険はないが、時間がかかると深刻な状況を招くおそれがある」という意見が当局に認められ、影山には最先端の再生医療が施されていった。
妹の悲しむ顔を見たくなかったのか、もう一度影山と心を削りあういじましいやりとりをしたかったのか、はたまた返せないほどの恩を影山に売りつけたかったのか……ルーカスの影山治療に対する執念は後に語り草になるほどだったという。
「目を覚ましてもらわないと、ラゴスに残してきたIT企業の株主総会が出来ないからな」
熱心さの理由を聞かれるとルーカスはいつもそう言って、ぎこちない笑顔を作っていた。
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ベルンハルト亡き後の「羊飼い」は大揺れに揺れた。
もともと「羊飼い」は統率が緩く、各自が勝手に自分のミッションを決めて報告し合うような疎結合組織だった。そのような組織運営がこれまでまかり通ってきたのは強力な統率が無くても各メンバーがきちんと組織目標に対してコミットできていたからだ。
しかし、ベルンハルトの勝手な行動が原因で影山陣営との休戦協定がお蔵入りになり、ベルンハルト自身が影山陣営の報復で亡き者にされたとなると話は根底から違ってくる。
互いが信用できなくなるというのは秘密組織にとって崩壊の序章でしかない。
「羊飼い」の名目上の指導層にあたる評議会はこの状況を重く見て、強い統率を実施することで事態の収拾を図ろうとした。
しかし、もともと緩い統率の下、うまい話に乗ったつもりでやってきた構成員達は態度を急変させた。
すでに26名中8名が死んだこと、1名の勝手な行動で全員が影山陣営の敵に回ってしまっていること、影山以外にも影山級の戦力が居ることが今回拉致した影山が奪還されたことで証明されたこと。マイナスの材料は会議を開くたびにいくらでも出てきた。
これらのマイナス材料を無視して今までどおりのほほんと暮らしていると自分達に命の危険が迫ってくるのだから多少は真剣になろうというものだ。
こんな状況になってしまった今となっては呑気に白人による新世代の統治などという絵空事を夢見て人口を増やし、闇ビジネスで小遣いを稼ぐよりも表のビジネスをうまく回してのし上がるほうが遥かに健全で、安全だ。そう思う者達が「羊飼い」と離別した。
一方「羊飼い」の組織目標に沿ったビジネス、例えば安価な食糧の大量生産・加工やその輸送をしている者達や、国連等の組織に入り込んで工作を行っているような者達はそう簡単に脱会など出来ない。そんな居残り組の間でも意見は真っ2つに別れた。
何十年か先の人類支配を夢見ている点では双方とも立場が同じだが、影山に対して徹底抗戦をするか、影山勢とは表立って対立しないで日々の活動を粛々とやるか、といった部分では根深い対立を呼んでいたのだ。
しばらくすると、そんな居残り組の中で共通した危機意識が囁かれはじめた。
「メンバーの情報が影山に漏れると、殲滅される恐れがある」
これを恐れた両陣営はまず、脱会したメンバーを粛清の名の下に一掃しようと試みた。事故を装った暗殺だったり、スキャンダルを流しての社会的抹殺だったり、商売敵を支援して相手の経済的基盤を根こそぎ壊滅させたりと、脱会したメンバーはじわじわと追い詰められていった。
残ってはいるが、意見が対立している陣営同士もまた、同じような潰し合いを始めた。
親戚を殺された恨みを原動力に徹底抗戦を提唱する感情派と、そんな事は知ったことではない論理派。2つの陣営の対立は数の上でこそ互角だったが、論理派の方が財力や社会的影響力は大きかったため勝負はあっという間についた。論理派が感情派の所有する企業に対し経済戦争を始めると、感情派はあっさり敗北してしまったのだ。
既得権益の上に胡座をかいて資産規模だけは大きくなった企業のぼんくら世襲オーナー達と、生き馬の目を抜くような環境で己の才覚だけを頼りに生き抜いてきたサバイバルオーナー達の対立。同じ貴族出身者でも場数を踏んだ方が勝つのが自然の理だ。
やおら欧州で沸き起こった経済戦争はマスコミを大いに潤わせたが、その実態は「羊飼い」達の主導権争いであり、感情派に与した者達は最終的には脱会したものと同じ末路を歩むことになったのである。
「なあ……なんか最近『羊飼い』どうしでモメてんのとちゃう? 欧州の株価がドッタンバッタンしててえらいことになってるんやけど……」
「そうね。あれから何の音沙汰もないと思ったら……内紛でもしてるのかしらね?」
影山物産の社内でもそんな会話がされていたが、市川も相田も、まさか「羊飼い」が半壊どころかほとんど組織の体を成さないほどの壊滅をしているとは気が付かなかった。
「もし内紛してるんだとしたら、今年のビルダーバーグ会議の出席者のメンバーはかなり入れ替わりますわね。なんとかして出席者リストが手に入らないものかしら?」
「お父さんに頼めないの?」
「あ、そうですわね!」
これよりしばらくの間、「羊飼い」ウォッチングは3人の共通の娯楽となった。他人の火事は近くで見るに限る。
そういう意味では「羊飼い」の内紛はそれなりにスリリングな見世物だったのだ。
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現地の医療スタッフ、瞳、それにルーカスの最大限の努力が実を結び、影山の身体的なダメージは8ヶ月を経てほぼ癒えたと言って良いほど回復した。
薬物に対する依存症状については精神的なものなので、発作的に「薬を射ちたい」と湧き上がる欲求とは一生付き合うしかない。影山の依存症状が「手の届くところに薬を置かなければ大丈夫」というところまで回復したのは瞳の知識があればこそだった。
「いやあ……まあ教団でも『地獄を体験させる』とか言って信者さんを薬漬けにして集金装置にしていた時期がありましたからね…… そのまま依存症で死なれると公安に睨まれるから、それ系の回復手法ってのが代々受け継がれてたんですよ。
あとは米国の凄さですね。ベトナム戦争帰還兵へのケアの手法やデータはたくさんあるし、ブプレノルフィンなんかの除法注射剤が手に入るのにはホント助けられました」
「さらっと怖いことを言うなあ、瞳さんは……」
シャーロット自身も影山の身体の治療のために論文や先行事例を調べまくっては兄に報告するのを繰り返していたので影山の治療にはそれなりに貢献している自覚はある。しかし、どう転んでも瞳には敵わない。豊富な人体実験と経験に裏打ちされた薬物中毒治療法は専門の医師すら舌を巻くほどのものだったのだ。
良い話ばかりではない。影山の身体は確かに快癒に向かっていたが、彼の心神は未だに解離性昏迷を脱していなかった。目は中空を見つめ、ブツブツと何かを言ってはいるがまともな受け答えは出来ない状態だ。
この状態ではリハビリが出来ない。加えて影山は車椅子生活が長く、筋肉をやせ細らせていたのも大きな課題だった。
「シャーロットさーん、今日で影山さん固形物食べても誤嚥しない日がついに10日続きましたよ!」
瞳が嬉しそうにシャーロットに報告しに来た。
シャーロットが大学に行っている間、献身的に影山の面倒を見ていたのは多くの場合、瞳だ。
瞳がどうしても都合がつかない時はアントニオから介護技術を持った者が派遣されてきていたが、その技術者とて影山の状況を把握して事故が起きないようにするのがせいぜいで、とても瞳のようにかゆいところに手の届く介護は出来なかった。
「悪いわねえ……いつも。今日はそんな瞳さんに朗報。私が日本食を作ってあげるよ!」
「えー? ニジヤでお惣菜を買ってきたのをお皿に乗せるヤツじゃなくってですかぁ?」
「ふふん、私にだって得意料理はあるんだぞ」
シャーロットが作っていたのは影山から教わった日本風カレーだ。
オスーン川流域にゴールドラッシュが起こった時、影山がしばらくラゴスに帰って来れなくなったことがあった。当時一人で影山の家の留守番をしていたシャーロットはどうしてもカレーを食べたくなり電話で影山に作り方を聞いたのだが、その時のレシピは今も彼女の大事な生活の知恵の一部となっている。
「結局、家の中の材料全部カレーに使ったんだっけなあ……」
あの時と逆だ。あの時影山は側にいてくれなかったが電話さえすればいつでも話せた。今、影山は家の中にいて手を伸ばせばいつでも触れることが出来るのに、話も出来ない。
「シャーロットさん、泣いてるんですか?」
「ああ、さっき切った玉ねぎがね……。包丁ちゃんと研いでなかったのかしら。えらく効くわねえ」
瞳はシャーロットが包丁をちゃんと研いでいたのを知っていたが、敢えて突っ込まなかった。
「うん、できたぞ! 瞳さん、お皿並べて! シャーロット特製カレー! 影山さんも連れてきて!」
シャーロットが炊きたての御飯にカレーのルウをかけて食卓に置いていき、瞳は並べた皿にサラダを盛って、野菜ジュースをグラスに注いでいく。いつもの夕食風景だ。
やっと誤嚥をしなくなった影山にカレーなんて大丈夫だろうか、と瞳は不安になった。だが、シャーロットは医学生なのだしそれくらい判っているだろう。何かあったら対処できる筈だと思い直し、瞳はスプーンとフォークを食卓に並べていった。
「いただきます」
シャーロットと瞳がカチャカチャとカレーを食べ進める無言の食卓。ふと瞳が影山の方を見ると影山が口を開けていた。
「影山さん、カレー食べたいのかな? シャーロットさん、影山さんに食べさせていい?」
「私がやるわ。火傷しないように、ちゃんと冷ましてからじゃないと駄目よね」
シャーロットがスプーンに一匙、カレーをすくってふぅふぅと冷まし、影山が迎える口にとろりと流し入れた。
ごくん
影山がうまくカレーを飲み込んだ。固唾を飲んで見守っていた二人はホッと胸を撫で下ろした。
「ああ! 食べれましたね!」
「うん!」
「おいシャーロット、あれほど蜂蜜は入れるなと言ったのにまた入れたのか?」
「…」
「……?」
「………!」
何かの聞き違いか? シャーロットはそう思った。瞳もおそらくそう思っているに違いない。ガンザー症候群か何かの症状が出て、適当な妄言でも……いや、それにしても今まで妄言すら話すことはなかったのに……?
「とはいえ、お前にしちゃ上出来だ。なんだ俺のスプーン、ここにあるじゃないか」
スプーンに手を伸ばした影山は、残念なことにうまくスプーンを握れず床に落としてしまった。しかしそんな事は今のシャーロットと瞳にとって問題ではない。
「あ、その、なんだ。スプーン落としちまった……」
影山のかすれた声、すまなさそうな顔。その目には今までと違い光が戻っていた。
「影山さん!! !」
「何だ? 何泣いてるんだ。瞳もシャーロットも?」
「ふふふ。カレー作るのに玉ねぎ切ったんですよ。でもうまく出来てるでしょ? ちゃあんと教わったとおりに作ってるんですから……」




