第百二十六話:愛してその悪を知り、憎みてその善を知る
梅雨も明けて日増しに気温が高くなっていく7月の半ば、俺は秋葉原に来ていた。
「いつまで待たせるんだあいつら……っと」
「羊飼い」から休戦の条件について具体的な会談を求められたが、その後会談の日程や場所についての連絡が全く来ないまま数週間が経った。
俺としては暗殺者を差し向けられたりしなければ何かしら気ままに過ごせるわけなので会談がいつ行われようと全く問題はないのだが、やると言った事をやらないのは実に気持ちが悪いものだ。
明日やれることは今日やらないのは俺のポリシーだが、イベントに参加することだけが確定していて、それがいつ開催されるのかは相手次第などという中途半端な状況は正直かなりフラストレーションが溜まってしまう。
そんなフラストレーションを少しでも解消すべく、俺は大手家電量販店の店舗の上層階にあるバッティングセンターに来てバットを振っていたのだ。
「ふんっ!」
怒りや不満を金属バットに乗せて力いっぱい振り回すものの、時速150kmのレーンではなかなかバットは球に当たらない。たまにバットに当たっても掠って後ろに飛ぶばかりだ。
普段使わない筋肉をかなり使っているので明日か明後日には全身筋肉痛でベッドから起き上がれなくなるだろうことはとっくに織り込み済みだ。せめてその激痛と引き換えに何発かはいい音を聞きたい。そう思って俺は止め時を見失った博打狂いのように何時間もバットを振り回していた。
「おーい、言われた通り迎えに来たわよ。それにしてもどうしたの? 血湧き肉躍るような高校野球漫画でも読んだの?」
市川さんだ。
軽やかな毒舌とともに現れた彼女は、たちまち周囲のバッター達の視線を集めた。求道者達が白球を相手に己を磨いていた辛気臭い空間が途端に華やかになる。
だが俺にしてみれば、定例の会議に遅れないように電話かメッセージでお知らせしてくれとは言っておいたけど、まさか市川さんが直々に俺をバッティングセンターまで迎えに来るとは想定外の事だった。
あ……そうか。市川さんからすれば俺がまた何か企んでいるとでも勘繰って様子を見に来たんだな。相変わらずカンが鋭いなこの女性は……。
「あ、いや、せっかく若返ってるわけだし体を鍛えておいたほうが良いかなと思ってさ。これから先、ストレスフルな抗争が続くかも知れないわけだから体にストレス耐性を叩き込んでおきたいじゃないか。なんてのかな、耐乳酸トレーニング?」
「心理的なストレスでも乳酸って出るものなのかしら。だったら精神的にもキッついトレーニングで有名なマンツーマンのジムとかでも良いんじゃないの? 先週はサーキット走行会とかにも行ってたみたいだし、急にアウトドア志向になったみたいで胡散臭いわ」
うん。何かを疑われているな。でも市川さんには俺が何を考えているかはわからないだろう。市川さんは俺が何かを考えているということに気がつくまでは鋭いが、具体的に何を考えているかについては上手く言い当てられない人のようだ。
ちなみに、心理的なストレスでは乳酸は出ないよ。あれは筋グリコーゲンが運動時に分解されて出来るものだからね。
「胡散臭いとは人聞きが悪いな。でもそうだな、リア充ついでにテニスとかもやっておきたいね」
「私の感覚では家電量販店併設のバッティングセンターに開店から4時間も入り浸ってるの人のことをリア充とは呼ばないのよねえ……」
「ま、何事も練習あるのみさ。市川さんこそ、物理の勉強はどうなってるんだよ?」
普段弱音を吐かない市川さんがはっきり口に出して言うくらい市川さんは物理が苦手なのだ。だが先日のスウェーデンでの戦闘で、物理の基本的な理解のあるなしが能力利用の際の選択肢の幅と効果双方に大きく関わってくることが彼女にも実感できたらしい。今ではブルーバックスや科学雑誌を読み漁るようになり、大学に聴講に行くかどうかまで考えているのだとか。
「うん、まあ空き時間にちょこちょこね。受験科目ってわけじゃなくて自分の教養として勉強するわけだからそこそこ楽しいわよ。行列の偏微分の式とか出てくるとまだまだお手上げだけど」
「そのへんの物理になると俺もお手上げだ。というか行列の偏微分が出てくるような領域まで勉強してるのか、凄いな。俺もニューラルネットの損失関数でなら行列の偏微分は使うんだが、物理となるとなあ……おっと、定例会議だったな。上がっとくか」
俺は週末に御茶ノ水で買ったバットケースにマイ金属バットをしまい込み、市川さんの背中を軽く叩いてバッティングセンターを出た。まだ日は高く、アスファルトからは目玉焼きが焼けそうな熱気が立ち上ってくる。
「ああ、そういえばもう7月か……」
「7月がどうしたの?」
「ここ数年、7月はあまり気分良く過ごせてないからさ……」
「ああ……そういえば」
俺がナイジェリアに行くと決めたのも、オスーン川でゴールドラッシュが巻き起こり激化したのも、救世聖杯信教と戦ったのも7月だ。去年の7月は瞳が襲撃されて……
「どうしたの?」
「いや、ふと気になったんだ。瞳を襲撃した奴って結局誰の手先で何が目的だったんだろう……?」
「そういえば去年の今頃だったわね。そうね、あれから何もなかったからあまり意識してなかったけど……山中さんや私達の周りに、影山さんの能力をもってしても治療困難な毒を持った人が迫り得るってことよねぇ?」
まさか瞳個人への怨恨で襲ったとか……いや、顔見知りだったみたいだからその線も考えられなくもないが。今度そのへんの心当たりを瞳に聞いておかなければ。
「それより、相変わらず厳し目に問い詰めないと何を考えてるか教えてくれないのね。今度ちゃんと教えてもらうからね?」
市川さんはむくれるが、まあ別に話して面白い話じゃないしな。
◆◆◆◆◆
「重工の方達に聞きました。影山さん、先日のミーティングではエンジンや制御システムよりも居住ブロックへの質問ばかりだったとか。技術の皆さんもあれはどうしてなんだろうって言ってましたわ」
先日俺は貴子さんに紹介してもらった壬生重工の航空宇宙部門の人達と、ネットで拾った有人宇宙船の設計図を題材に何度めかのミーティングをしたのだ。俺はその場で重工の技術者とあれこれと議論を交わしたのだが、その中でも俺が細部まで拘って彼等に質問を繰り返したのは居住ブロックを支える生命維持装置や水のリサイクルシステム、二酸化炭素の処理などについてだった。
その後、紹介者の貴子さんのところに「いかがでしょうか。壬生重工はあの件で何かお仕事いただけそうでしょうか?」という営業的なアプローチが当日のフィードバックとともに来たらしい。まあ、タダで専門家がおしゃべりしにやってくるわけはないからこの流れは当然だ。
そんなわけで壬生重工もそうだが彼女自身も俺が宇宙船で何をするつもりなのかをいろいろ聞きたがっていたのだ。
「以前ならともかく今なら包み隠さず貴子さんとこの話が出来るね。ちゃんと話すからまあ座ってよ」
「あら、長くなるならお茶でもいかが?」
「いいね。頼むよ」
役員室のソファに深く腰掛けると貴子さんが冷えた麦茶を江戸切子のグラスに入れて出してくれた。貴子さんが執務フロアの調理室で毎朝煮出しているのだそうだが、2リットル入りのペットボトルのものとは明らかに香りが違う。氷を浮かべて少し口に含むと、なんともいい香りがした。
「美味いな」
美味い煎茶を飲むときは緊張感が走るが、美味い麦茶は飲むとほっとする。
「実家でもこれだけは私が毎日作ってますからね。ところで宇宙船の話なんですが……」
「そうだったね。何から話そうかな……えっと、俺や貴子さんのように移動系の能力者がいると、宇宙船を作るにしても地球の引力から脱出するための巨大な燃料タンクと使い捨てのロケットエンジンが必要ないのは解るよね?」
「あ……」
俺は貴子さんに、外宇宙航行が俺達2人にかかれば如何に簡単に成し遂げられるかを説明した。極端な話、必要なものは生命維持のためのシステムと、何かがぶつかってきてもとりあえず壊れない丈夫な外殻だけだ。
一旦宇宙に出てしまえば移動はテレポートでいい。今なら貴子さんのディファレンス・メーカーを上手く使えば重力カタパルトの原理を使ってそこそこゆっくり進む事も出来る筈だ。
「なるほど、だから居住ブロックの話を……でも外宇宙航行なんて、そんなことしたら『あいつ』さんがやってきて怒るんじゃありませんか?」
「そうだね。だからこれは『あいつ』を呼び出すための策というか、方便みたいなものさ。外宇宙に出ようとしたらいくら『あいつ』でも俺達を止めに出てくるだろう。そこでうまく交渉をすれば前回みたいにこちらに有利な何かを引き出すことが出来るかもしれない」
それを聞いた貴子さんは急に、少し怒ったような顔をして俺の顔を見据えた。
「影山さん、それは策と言うには下品です。やっていることが『羊飼い』と同じじゃありませんか?」
「え……?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。きっと今、俺は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているに違いない。貴子さんの反論は俺にとってはそれほどに想定外だった。
「『あいつ』さんを挑発してこちらの思う通りに事を運ぶというのはあまり感心出来ません。少なくともあの方は『運営』とやらの、考えなしのやっつけ仕事から地球人類を守ってくれようとはしているのでしょう?
影山さんからするととんでもない仕事を押し付けてきた嫌な相手なのかも知れませんが、少なくともあの方はそんなふうに挑発され、譲歩を引き出されてもしょうがないような事はしていないと思います」
言われてみれば反論できるところが一箇所も見つからない。最初のチュートリアルの不親切さとかノルマのきつさとかはともかく、巨視的な目で見れば「あいつ」は人類を救ってくれようとしていることに間違いはない。
その人類存続のために「あいつ」が提示したコストは同じ人間の、総人口の半分以上の命だった。それが俺の心を消耗させたこともまた事実だ。
しかしあれから数年、ただ心を消耗させていたあの頃とは状況が違う。穏便な人口抑制を長い間続けていればいつかは達成できる目標だということが分かってきたからだ。
確かに「40億人くらい人間を減らしてくれ」と言われたら心が病むほど毎日毎晩人を殺しまくったとしても到底足りない。しかし、減らせと言われたのは人口だ。100億を超えないようにしてる限りは年に1万人の削減で良いという条件まで付いている。等比級数的な人口抑制をしていればそのうち人口が35億になる日は来るかもしれない。いや、35億に減りはしなくても、100億を越える日は永遠に来ないということも有り得る。
「あれ……?」
俺は「あいつ」がそんなに無茶ぶりをしていたわけではないことに今更ながら気が付いた。じゃあ、どうしてこんなに俺は「あいつ」にムカついているんだろう? 単純に性格の不一致だったのか? それとも会う度に手酷くからかわれていたからだろうか? ……違うな。たぶん、俺達にとって唯一無二の「世界」と言うやつがあいつにとってはただの「ゲーム」であることが俺の理性の抑えを越えるほど忌々しいからだ。
「それでですね、影山さん。外宇宙航行は別にして、この宇宙船を実際に作ってみて、セーフハウスとして使えないでしょうか?」
「ん? どういうこと?」
「壬生重工に話をして、推進装置なしの居住スペースだけの宇宙船を作るんですよ。それを月の裏側でもガニメデでもエウロパでもいいので、そういうところに置いておくんです。抗争が激化したり、しつこい暗殺者にずっと追いかけられたりした時に手っ取り早く逃げるのに使えますよ」
なるほど、面白い。今度の「羊飼い」との抗争が物別れに終わる可能性を考えれば決して無駄ではない考えだ。さすがに平均気温マイナス170℃の木星の衛星に置いておくとどんな故障をするか分からないからそこまで遠くってのは無しにしても、この間行った南極の、人目につかない穴の中とかなら行けるかもしれない。
「貴子さん、それいいね。重工の人ともう一度話できるかな? 詳しい話がしたい」
貴子さんはニコリと笑って頷いた。
「羊飼い」からの瀟洒な封筒が届いたのはその次の日だった。
「ずいぶん待たせてくれたな。場所は……へえ、東京だって」




