第百十話:寝耳に水素水
会話が進む中で場の緊張感がだんだん薄れてきたせいか、アントニオは料理に手を付け始めた。それを見て俺達も目の前に置かれた、豪華な見た目の料理に手を伸ばしたのだが……。
うん、料理長のジャンって人はアントニオの好みを理解しているらしく、アントニオは本当に満足そうに料理と酒を楽しんでいる。今日は長年探していた「シプリアーノの再臨」も見つかったことだし、満願成就の美酒と言ったところなのだろう。
……しかし、この味がアントニオの好みだとすると……。
「っ!?」
俺達の中で最初に料理に口をつけたのは貴子さんだ。一口食べただけで彼女の顔は見る見るうちに青くなっていった。
「ん”ん”っ!」
次に市川さん。綺麗な顔が一瞬で歪み、大量の冷や汗が吹き出ている。
「ひっ?」
相田はテーブルマナーに自信がないらしく、まだ料理を口にをつけていなかったが、貴子さんの脂汗滴る顔を見て慌ててフォークを手放した。
「かはあっ」
市川さんがスパークリングウォーターのグラスを何度もあおり、口の中のものを消えされとばかりに流し込む。貴子さんは涙目でナプキンの中に食べたものを戻した。
俺?俺は寸前で難を免れたよ。それにしたって空きっ腹にメシマズは拷問だ。料理を食べてしまった二人には心から同情する他ない。
「ん、どうした? 料理がお気に召さなかったかね?」
「……」
「……」
「……」
その沈黙は味覚障害者への配慮か、それとも拷問の加害者に対する抗議か――。
俺達の態度を見たアントニオは不服そうに自分の皿の料理を平らげ、次の料理をもってこいと給仕に言いつけた。
なるほど、オズワルドが「うちのシェフの料理をいきなり空腹に流し込んでは体に障る」と言っていたのは脂っこいとか塩分が多めとかそういう意味じゃなかったのね……。しかし、ここまで味覚に差異があると、たとえ貴子さんがアントニオに気があったとしても結婚生活の破綻は目に見えてるよな。うん。
ああ、貴子さん怒ってるわ。
「さて、ミズ・ミブ。君はまごうことなき『シプリアーノの再臨』だ。是非、私の伴侶となって曽祖父の意思を継いで欲しい。君には2兆ドルの資産を自由に使う権利と、我らの組織を使って世界人口を減らす義務が与えられる。それは君の本懐でもある筈だ」
「冗談じゃありませんわ。お金も義務も興味ございません。ついでに言うなら、あなたと結婚してこのような料理を毎日食べさせられるのもお断りです」
「なっ」
確かに結婚を断るにはいい理由だよな。生活習慣の決定的な違いによる結婚生活の破綻。うん。裁判所も認めると思う。
「何よりアントニオ、あなたは肝心なことを見落としていますわ。私がもし『シプリアーノの再臨』であるなら、時代背景や社会構造が違っていても似たような事ができる筈ですわね。巨万の富を得、それを背景にじわじわと人口を減らす……それは今、この影山物産のメンバー達が当たり前のようにやっている日常でしてよ。同じ日常を与えてやると言われて私が喜ぶとでも?」
「貴ちゃん、なんかえらい攻撃的やなあ……」
「まあ、分からんでもないけどな。言ってることもだいたい正しいし」
「ゲホッ……カハッ……私も、この料理毎日出されたらさすがにね……う~」
市川さんは満身創痍のようだ。
「あなたが感じている歴史的、組織的な必然性はあなただけのものよ。私にとっては幸せでも必然でもない、一方的な期待の押し付けだわ」
貴子さんが憤慨極まってアントニオに抗議をしている間、俺は市川さんとアイコンタクトを取り、細かいジェスチャーを交えて意思疎通をしていた。付き合いが長いだけのことはあって市川さんの言いたいことが良く分かる。よしよしなるほどうん解った。
だいたいの筋書きができたところで行動開始だ。
「ドン・アントニオ、市川さんの方をご覧いただきたい。彼女がこれから面白いことをするそうです」
「なんだ? 何があると言うんだね……?」
市川さんの方を見たアントニオは次の瞬間短いうめき声をあげた。市川さんが持っていたナイフとフォークがみるみるうちに金色に輝き出したのだ。先程まで銀色に光っていた筈の物がである。
「ふん。一本3300ドルってとこね。細工の分を入れたらもうちょっと行くかしら」
市川さんはさも自分が銀のナイフを金に変えてみせたようにプラプラとナイフをつまんで振ってみせた。もちろん物質変換をやったのは俺だが、アントニオにはそんな事が分かる筈もない。
それを見た相田は俺達が何をやろうとしているのか理解したらしく、ワインの入ったグラスを持ってアントニオの方を向き、手を上に掲げた。
「はいはいはーい。私もやりまーす。アントニオさん、カンパーイ」
「?」
相田につられてグラスを持ち上げたアントニオのグラスが一瞬で割れた。だがワインは流れ出さない。グラスとワインは薄い氷煙を纏いながら完全に凍っていたのだ。
給仕が慌ててアントニオに駆け寄り割れたグラスの始末をする中、アントニオは呆然として市川さん、相田、貴子さんの顔を交互に見回していた。
「こ、こんな……ミズ・ミブ、これは君がやっているのか?」
「御冗談を。私、そんなに器用じゃありませんわ」
アントニオには3人の「再臨」の出現に我を忘れて完全にうろたえている。よし、これでこの晩餐の場は完全に俺達が飲んだも同然だ。
俺はオズワルドを呼び寄せ、彼の耳元で俺達に今、一番必要な事を伝えた。
「すまんが、ドン以外の料理は一般人向けの味付けで頼む。これ以上お嬢様達の気分を害するとドンが危ない」
オズワルトは真剣な表情でしっかり頷くと自ら厨房の方へと駆け出していった。
◆◆◆◆◆
俺達はジャンが作った絶品のオマール海老のフリカッセを食べながら晩餐を続けた。
晩餐が始まった直後とは彼我の立場が完全に逆転している。アントニオは借りてきた猫のようにしおらしくなってしまったが、これは相手が悪かったと言う他ない。
加えて、アントニオはオズワルトから自分の味覚は通常とかなり異なることを告げられ、そのことにも多少ショックを受けているようだった。
「2兆ドルの資産を自由に使える」
「組織の力を使って今まで以上に人口に関与できる」
の二大目玉商品に価値がないと断じられたアントニオに、貴子さんと婚姻を結ぶための交渉材料はもう残されていない。「ここから生きて帰りたかったら嫁になれ」といった恫喝もテレポーター相手には無意味だ。
残りの晩餐の時間はアントニオにとって完全に敗戦処理みたいなものだった。
「ドン・アントニオ、あなた、年齢おいくつ?」
さすが貴子さんだ。水に落ちた犬に石を投げたりしないんだな。ホストの顔を立て、普通に世間話を振って会食を楽しいものにしようとしている。そういう心配りはさすが上流階級の人間と言ったところか。
「君達よりはかなり年上だよ」
「俺も聞きたいな。いくつなんだ?」
相手も尻尾を巻いていることだし、俺も少しフランクに行くとしよう。いい雰囲気づくりは情報収集の基本だ。
「28だよ。こんな年齢で秘密組織の首領なんてやっていても良いことなんて何も無いんだ……。古株の老人達に顔を合わせる度に責め立てられるんだぞ。『再臨』はいつ見つかるんだ?さっさと見つけて楽になれ、とね。これがずっと続くんだからストレスで味覚もおかしくなるってものさ……そうだろう?」
「に……」
「にじゅうはちぃ?」
全員、アントニオは30代後半だと思っていたので今度は俺達がうろたえた。というか、こいつ、俺達の事を年下だと思い込んでいるようだが、影山物産を調べたとか言っておいて構成員の年齢すら調べていなかったのか?
そういえば外国では求職のときに提出する履歴書にも性別や年齢は書かないのが普通らしいから、報告書に書かれていたとしてもそこには注目しなかったのかもしれないな……。
「どうだ? 君達よりは結構上だと思うが?」
「うーん……お嬢様がたの年齢は俺の口からは言えないが、俺の年齢は今、35歳だな」
年齢暴露タイムの流れを作る気か? と市川さんから殺人光線のような眼光が俺に向けられたが、これはもうしょうがないだろう。
一方、アントニオは俺の年齢を聞いてかなり仰天していたようだった。
「日本人は実年齢より若く見えるとよく聞くが、私も日本人と会うのはこれが初めてではない。ミスタ・影山……君は日本人の中でも群を抜いて若作りなのかな?」
「そういうことになるかな。見た目が若すぎるのも大変だけどね」
ふむ。シプリアーノの時代には分子生物学は未発達な分野だったからな。彼は若返りには手を出せなかったらしい。
「私は……34ですわ」
貴子さんが恥ずかしそうに下を向きながら小さな声で言った。しょうがない。最初にアントニオに年齢を聞いたのは貴子さんなんだから自分も答えないわけには行かないだろう。
ただ、それを聞いたアントニオは妙に納得したサバサバした顔をしていた。目に光が戻っているようにも見える。
「それを知って多少溜飲が下がりましたよ。ミズ・ミブ、実は私は年下が好みでね、貴女もてっきり年下なのかと思っていました。いやあ相手のことをよく知りもしないで求婚なんかするものではありませんね! ははははは」
あ、今度は市川さんが怒ってる。年齢を理由に好き嫌いを決める男が許せないスイッチが入ったみたい。うん。そこのお酒ぐーっと飲んでちょっと落ち着いてね。
◆◆◆◆◆
それから俺達は、同じ系列の組織でありながら人口を増やす方、というか、アントニオ達が減らした人口を補填して回る方の組織についての情報も聞き出した。
もともと貴子さんが彼等の情報網に引っかかったのは、19世紀から20世紀にかけての会計資料をあちこちで入手していた行動をその「補填側」の組織に不審に思われ、自分達を探る不審人物としてターゲットされたかららしい。以来影山物産と壬生商事は企業活動をつぶさに調べられ、アントニオ側にも補填側にも俺達の活動の実態は把握されていたのだそうだ。
「どうして減らす側と補填する側に別れたりしたの?」
「それぞれの目的に必要な機能が全く異なるので、同じ組織で2つの事業を取り回すより2つに分けた方が効率的だったのだ。それに、私達シプリアーノ直系は幼い頃から『減らせ』と『見つけろ』ばかり言われていたからな、堪らず実家を飛び出した連中とそのシンパが古株のご老人達に叛旗を翻してもおかしくないだろう? 組織のカネを大量に持ち出した彼等は本流の邪魔をする組織を起ち上げたんだが、すぐに和解して組織は二つで一つになった、というのが本当のところだ。まあ本家と分家で違う事業をやっていると考えてもらえればいい」
「なるほど、始祖が偉大だと直系にかかるストレスは大きいですね」
「君達のうち誰が本当の『再臨』かは分からんが、古株の老人達には『見つけたが取り込みには失敗した』と言っておくよ。諦めきれない何人かからは君達に直接連絡が行くかもしれないが適当にあしらってくれて構わない。
我々の組織はこれからも、従来の方針を踏襲していくが、君達が減らした分に関しては補填はしないように補填側にも働きかけることを約束する。調整に時間はかかるかもしれないがな」
「助かります」
話が解るヤツで良かった。終わってみれば大団円じゃないか。
「最後に、これだけは忠告させてくれ。『羊飼い』の連中には気をつけろ」
アントニオの表情がそれまでより緊張感のあるものに変わる。
「パスター?」
彼がさっと右手を上げると、それまで忙しそうにテーブルの周りを動いていた給仕が一斉に消えた。これから話される内容は相当ヤバいということなのだろう。
パスター……たしか、瞳が持って来た教団の資料の中にもその名前はあった気がするが、記述が薄くてあまり印象に残っていない……どんな組織だったっけ?
「世界人口をやみくもに増やしたがる連中だ。本当の組織名は我々も知らないが、人間を家畜のように増やしたがるので、我々は皮肉を込めて彼等を『羊飼い』と呼んでいる。彼等の人口増加に対する熱意はそれこそ妄執だ。
彼等の基本的な教義として『人口を増やす』というのがあるのだが、そこに利益が絡む連中がいくつも群がって止まれなくなった暴走列車のようになっているというのが今の奴らの現状でな。
例えばいくつかの国の軍産複合体にも彼等のスポンサーになっている企業がいるのだが『殺せる人間がいなくなると武器が売れなくなってしまう』というとんでもない理由でカネを出し続けている。
笑えることにな、彼等は『人類を増やすためなら人殺しも厭わない』んだそうだ」
そう言ってアントニオは苦笑いをしていた。聞けば、アントニオ達の補填側の組織も一度は彼等と協働戦線を張ったが、あまりの狂信者ぶりに付き合いきれなくなり、今では敵対関係にあるのだという。
お互い表立って事務所に爆弾を仕掛けたり銃撃をぶち込んだりはしないものの、嫌がらせの応酬は日常茶飯事なのだそうだ。
「じゃあ、影山物産の妨害をしたり、瞳を襲ったりしたのは……」
「私達が君達にちょっかいを出したのは今回が最初だ。それ以外に既に被害があるのならパスターを疑ったほうが良いな」
「ドン、あなたを信じますよ?」
「ああ、私も腹を割って話をしているつもりだ。パスターの存在を誰かに話すなんて、それだけでも本当は結構なリスクなんだからね」
確かに、相田と貴子さんの分析でも「増やす組織」は最低あと一つあった。それがそのパスターなのか。
しかし、影も形も居場所も何もわからない。分かるのは名前だけ。それはそれで心理的な脅威度が上がるだけだ。
アントニオにしても、自分や先代がパスターの名代という人間と何度か話し合いを持っては決裂した時の、断片的な情報しかないらしい。
アントニオをつついてもこれ以上は何も出てこないなと思った俺達は、黒毛和牛のステーキやフォアグラ大根に舌鼓を打ち、お土産を貰って帰ることになった。
下田沖を航行していたアルティミシア号は転進。北上して熱海に向かう。真っ黒な海面を切り裂いて進むアルティミシア号の行き先を花火が鮮やかに照らしていた。
「ああ、ところでシニョール。シプリアーノさんは彼が出会った『神』のことをなんて呼んでたかご存知ですか?」
「ん……確か、Esehombreと呼んでいたと父に聞いた。なぜ神に向かってそんな呼び方をしていたのかは私には分からないがね」




