第百五話:弱り目に祟り目
市川さんからのメールにあった瞳の住所は、清洲橋通りから少し離れて清澄公園の方に向かったところにある小さくて年数の行ったワンルームマンションだった。
「場所はここですよ。わからないんですか?」
「いやあ……この辺は一方通行が多いので」
高速道路を降りた途端、ノロノロと走るタクシーに俺は苛立ちを隠せなかった。やっとそれらしき建物の前に辿り着いた時には瞳が電話をよこしてから、実に30分以上が経過してしまっていのだ。
「くそっこれなら地下鉄のほうが早かったか……?」
俺は八つ当たり気味に千円札を重ねて運転手に渡すと、釣銭も貰わず車から飛び出し、瞳の部屋があるという2階へと急いだ。
「う……?」
血痕が2階の廊下に散乱していた。瞳の部屋のドアノブにも血が付着している。少なくともこの部屋の中で流血を伴う戦闘行為が行われたのは間違いなさそうだ。
近くの学校から聞こえてくる学生達の平和な声と赤黒い血の跡の対比が、その光景を妙に生々しいものに感じさせる。
「瞳、俺だ。入るぞ」
俺は瞳の許可を待たずにドアを開けた。狭く薄暗い1K。案の定、室内では瞳が虫の息になって転がっていた。もう意識が薄れているのか、俺が呼びかけても声も出せないようだ。
大量の流血が室内に見られないところを見ると、毒にやられたのかも知れない。生きてはいるようなので、おそらく木更津でやったのと同じように拮抗状態を作ったのだろう。
「ガハッ……カッ……カッ……」
レグエディットを使ってアコニチンとテトロドトキシンを身体から除去してやると、瞳は意識を取り戻した。少しばかり顔色も良くなったように見える。やはり拮抗状態だったのだ。
瞳は「ありがとうございます」と俺に言った後ヨロヨロと台所に向かい大量の水を飲み、そしてトイレに行って喉の奥に指を突っ込みその水を吐き出した。
「おい、起きるなり何をやっているんだ?」
「何か……何か飲まされました。胃を洗浄しないと」
体内にアコニチンとテトロドトキシンがあったところを見ると、瞳はテトロドトキシンを使う毒使いに襲われたのだろう。なんとか敵を撃退したか、または敵が目的を果たせたと思い込んで瞳を置いて逃げ出した後で、瞳は自分の身体にアコニチンを塗った串を打って時間を稼いだ。そして敵が引き返して来ないようにできるだけ小さな声で俺に電話をかけた後、代謝を抑えるために寝ていたと言うわけだ。
瞳にとっても俺にとっても不気味なのは、敵が瞳の口に入れていった液体だ。瞳はその液体を胃から洗い流すべく、何回も水を飲んでは無理やり吐き出していた。
「影山さん、影山さんの能力で私の胃液の中に硫黄分を含む分子が見えるでしょうか? その中で、分子量が1000くらいでイオウがたった一つしか入っていない分子を私の身体からざっと抜き出して下さい。間違っても気にしないで! 一刻を争います」
「わかった……分子量1000くらいだな」
俺はトイレで吐かれた瞳の吐瀉物を一旦凍らせ、氷のレジストリの中から瞳の言うような分子を探し出し、瞳の言う物質を特定した。次に、同じ物質がまだ瞳の体内にかなり残っていることを確認するとそれを水へと置き換えた。さらに経年劣化や不完全な精製、体内ですでに何かと結合して変質している可能性も考え、似たような構造を持ったアミノ酸を50種類程も取り除いてやった。
この複雑な作業を行いながら、俺は静かに瞳の能力の高さに驚嘆していた。毒に対する知識、レグエディットの理解、そして木更津でやりあった時の毒の拮抗状態をすぐに思い出して実行できる学習能力と実行力。その全てが出色の才能だと俺には思えたのだ。
「アミノ基が8つくらいあるヤバそうなのがお前の吐瀉物の中にあった。とりあえずお前の体内にあった似たような感じの物質を片っ端から取り除いておいたが、専門の治療を受けたほうが良いだろう。今から病院に行くか?」
それを聞いた瞳は顔色を変え、俺と一緒に病院に行くことを迷わず選択した。何か心当たりのある毒が盛られていて、それは自分ひとりでは対処が不可能だということなのだろう。
幸いなことにここからすぐ近くの大通りを車でわずか数分行ったところに俺の行きつけの病院がある。胃腸内科が専門なので今の瞳を連れて行くにはうってつけの筈だ。何よりそこの勤務医は中学・高校と俺の同級生だった男だからこちらの無茶な要求が他の医者よりは通りやすいかもしれない。
俺は大通りに行ってタクシーを捕まえ、瞳を乗せて病院に向かった。午後の診察を開始した直後で外来患者は少ない。俺は受付に「急性の毒物中毒だ。一刻を争う」と事情を話し、医師を指名して瞳を診察室にぶち込んだ。
「影山ぁ……どうしたんだこれ」
俺の旧友、高市が息も絶え絶えになっている瞳を見て怪訝そうに付き添いの俺に話しかけた。
「うん……なんかヤバイ奴に襲われて毒を打たれたり飲まされたりしたらしい。打たれたほうの毒は俺がなんとか解毒したんだが飲まされたほうが分からん……相当ヤバそうな感じがするんで連れてきた」
ここで、診察するのが普通の医者で、俺が解毒した毒が何だったのかを聞かれたらそれだけで何分かをロスするような面倒くさいことになっていただろう。それをしなくて良いのが俺と高市の阿吽の呼吸というやつなのだ。
「胃洗浄か……何かを食ったんなら毒の種類もわかるが……それよりお前、そんな毒を盛ったり打たれたりするような世界で生きてて大丈夫なのか?」
「ああ、金持ちになったんでいろいろ狙われてるんだ。こいつはそんな俺の数少ないボディガードでな、死なれちゃ困るんだよ。何とかしてくれ。何とかしてくれたら最新のCT機器を1セット、この病院に寄付してやる」
「……アマトキシン類……たぶんアマニチンだと思います……」
俺と高市が話し合っているのを遮るように瞳が割り込んだ。
「あいつ……『念には念を入れる」って……『これで肝臓と腎臓はもう使い物にならねえ』って……そう言ってました……たぶんアマニチンだと思います」
「アマニチン……?」
調べてみるとアマニチンはタマゴテングタケの毒の主成分で遅効性の猛毒だった。対処が遅れたら徐々に肝臓と腎臓が破壊され、10日程で多臓器不全を起こして死ぬような毒らしい。化学式は俺がさっき瞳の部屋でターゲットし、除去したものに酷似していたからおそらくは体内に残る毒素は少ない筈だ。問題は既に体内の酵素と結合してしまっているヤツだ。抗生物質の投薬でなんとかなるなら良いのだが……。
それにしても、俺は世の中に「遅効性の猛毒」などというものが存在し、しかもそれにお目にかかれるとは思ってもいなかった。毒は即効性があってこそで、遅効性の毒など漫画でしか登場しないものだと思っていたのだ。
「よし、胃洗浄、その後抗生物質の点滴投与を継続的に行おう。影山、彼女はしばらく入院だ。この後下痢と痙攣がどれだけ出るかで様子を見る。あと、お前の会社の警備会社に連絡しろ。うちの病院に追手が来ないとも限らんからな。なんとかして警備員を派遣してもらってくれ」
「すみません……すみません……」と言いながら胃洗浄を続ける瞳を横目に、俺は市川さんに事の成り行きを報告し、警備会社の手配を依頼した。
気になるのは瞳が戦った敵だ。毒を使うところを見ると瞳と同じ教団の暗殺者かも知れないが、瞳の肝臓と腎臓を破壊しようとしたところが気になる。単純に毒の重ねがけをしようとしたのか、それともレグエディットによるテロメア修復には腎臓が健康であることが条件だと知っていてそれを妨げようとしたのか……。
「同じ教団の……エイギスの訓練を同じ時期に受けていた人でした。確かアメリカ東海岸支部に行ってた筈の人です。見たこともない体術を使って来て……随分頑張ったんですがやられてしまいました……」
瞳に、誰にやられたかを聞いてみたが聞いても俺にはなかなかわからない。瞳が見れば街中ですれ違ってもわかるレベルの知り合いらしいが俺には誰が誰やらだ。
これでは誰彼無く警戒しなくてはならないので警備側も疲弊する。敵の性別と背格好くらいはなんとか瞳から聞き出せたが、それ以上聞き出すのは今の瞳には無理のようだ。
「すいません……不甲斐なくて……」
「いいさ、今は身体を治してくれ。ゆっくりでいいぞ」
俺は高市に警察を呼ぶのは勘弁してくれと懇願し、院長とも交渉してなんとか希望を聞き入れてもらえた。最新のCT機器を寄付すると言ったのが効いたらしい。
「うちは闇医者じゃないんですよ……まったく……」
院長は最初渋い顔をしていたが、彼も医者。CTの魅力には勝てなかったようだ。
さて、瞳だ。毒の対処が早かったか遅かったか、それによってその後の瞳の生死と後遺症の具合が左右されるのはもう覚悟しなくてはならない。レグエディットによる毒の除去が有効だったことを祈るのみだ。
その後俺は入院窓口で瞳の入院準備と同意書の説明を受け、瞳の入院に必要なものを買い揃えるために近くのホームセンターに行った。「入院の手引」という半ペラ2枚のプリントを頼りに、あたふたしながら棚を渡り歩いていると不思議と気も紛れる。下着や寝間着も必要みたいだが、女物は良くわからん。後で市川さんにでも相談すればいいか。
「瞳、戻ったぞ」
俺が病院に戻ってきた時には瞳は病室に移されており、ベッドですうすうと寝息を立てて寝ていた。安心したのか疲れたのか……たぶん両方だ。
夕方になって警備会社から制服を着た警備員が2人やって来たので、俺はこの2人をナースステーションに連れて行き、瞳の病室を警備させたい旨を当番看護師と現場責任者に説明をした。「目立たない格好で警備するなら」ということで看護の人達とは話をつけたが、聞けば高市と院長から事前に連絡があったらしい。そんなこんなで警備員の配備に関しては特にもめずにスムーズに事が進み、俺は安心して帰路についた。
瞳の入院期間は10日かそこらは必要だという。それにしても気になるのは敵が瞳の腎臓と肝臓を破壊しに来たことだ。杞憂であれば良いのだが。
◆◆◆◆◆
「なんだって? またか? なんだってうちの船ばかりやられるんだ!」
ここのところ、投資先で順調に成長を続けている性具メーカー「タルタルーガ」の製品を積み込んだ貨物船が2回続けてシンガポール沖で海賊にあい、積荷を強奪されていた。一応保険はかけてあるとのことだったが、こうも約束どおりに現地に商品が届かなければタルタルーガの商売上の信用にも傷がついてしまう。
瞳の負傷に続いて次は海賊か。泣面に蜂とはこのことだ。たった3件の事件なのに世界中が自分の敵にまわったような錯覚に陥る辺り、俺は被害妄想気味なんだろうか。
「瞳さんはえらい目に合うし、海賊には合うし、散々ですねえ……」
相田が心配そうに、だが少しだけ他人事のように俺に話しかけた。
「ああ、物騒だな。お前らも休暇取るって言ってたけど気をつけろよ」
「ええ、そう思って遠くへ行ったりせず近場で済ませようかと言うことになって、貴子さんと2人で葉山にある壬生家の別荘にでも行こうって話になってます。オーシャンビューの温泉があるんだそうで、さすが桁の違う上流階級は雅な別荘お持ちですよね」
相田と貴子さんは随分仲が良くなったんだな……いいことだ。仲良きことは美しきかな。オーシャンビューの温泉もこれまた羨ましい。最後に温泉に行ったのは市川さんと一緒に行った美作下湯原だったか。またああいうところでのんびりとしたいものだ。
「葉山か。壬生さん家のクルーザーが停泊してるんだよな。見せてもらうと良いよ」
「はは。クルーザーか……楽しみですね。ところでですね……休む前にあんまり言いたくないんですが……」
「何だ。お前も悪い知らせを持ってきたのか」
相田があまり気がすすまないという顔をしながら、俺にタブレットPCの画面を見せた。ブラウザに表示されているのはネットワークセキュリティの管理画面のようだ。
「セキュリティか……」
「ええ、その……最近、うちのシステムへ侵入を試みようとした痕跡が多く見つかるようになりました。今までも無かったわけではないんですが、7月に入ってから数が多くなってますね。今はもう、iptablesの設定で国内からのアクセスしか許可してないんですが、国内からでも入ってこようとするんですよ。中堅どころの私立大学の研究室からとか、洒落になってないケースもあります」
相田の株の自動売買システムは影山物産の稼ぎ頭だ。今は先物取引も少しはじめていて、順当に毎期の利益を叩き出している。もしその稼ぎ頭にちょっかいを出されてデータを破壊されたり変な売買をされでもしたら大損害だ。
「相田、多少の損は出るかも知れないが休暇の間、システムの電源を落としてしまっても良いぞ。可能な限りで現金化してしまっても構わん。
あと、裏の社会に詳しそうなセキュリティコンサルを呼んで、お前が休暇から帰ってきたら話を聞いてもらおう」
「わかりました……そうしましょう。私もそれが一番だと思います」
それにしても何かこう……四面楚歌のような状況に追い込まれているような気がしないでもない。瞳の件以外はまだまだ対処可能な小さなコトに過ぎないのに、妙に心に引っかかる。
いかん。ストレスが溜まりそうだ。スマホ、新しいのに換えたばかりなのに。お……温泉に行きたい……。




