第十話:当たり屋兄妹
ドスン!
赴任4日目の帰り道、ヤバ地区の会社からほど近い交差点で俺と市川さんを乗せた通勤用の自動車は鈍い音を立てて何かにぶつかり止まった。
ボンネットに乗り上げた「何か」がズルズルと落ちて行く。
運転手のおっちゃんが少し困った顔をし、チッと舌打ちをして、俺達に外に出ないよう注意を促してからその「何か」を確認しに出て行った。
「み……みた?」
「う……うん。見たわよ。なんというか、その……」
「うん……なんというか」
俺と市川さんは一瞬、顔を見合わせ、それからしばらく我慢したが、ついに声を上げて笑い始めた。
「必死だったね?」
「必死だったね!」
「あは……あははは……!」
「あははははははははは!」
車に当たったのは当たり屋の青年だった。ただ、その当たる瞬間の表情は完全にビビっており、それをなんとか克服して涙目でぶつかってきているのが下手なコメディみたいになってしまったのだ。
その表情を目の当たりにした俺達は腹を抱えて笑ってしまった。
当たり屋ってのは比較的スピードの出ていない交差点や信号の前後、駐車場などでやるものと相場が決まっている。
俺達の場合も御多分に漏れず、十分スピードの落ちた場所での話だった。怪我人など出るわけがない。
車の中で笑い転げる俺達を見ながら胸を抱えてうずくまる青年に一人の女が駆け寄り声を上げた。
「兄さん! ひどい! 兄さんが! 私のルーカス兄さんが車に轢かれて酷いことに!」
「あああ痛い! 骨が折れたかもしれない! くっそー。この間やっと仕事が見つかったばかりなのに、クビになっちまうよこれじゃあ! グスッ……シャーロット、ごめんなぁ」
「ああ、可哀想な兄さん! 私達これからどうやって暮らしていけばいいの⁉」
「痛え! 痛えよー!」
「ああ兄さん! 誰か! 誰か! 兄さんを助けてください! お願い!」
見事な演技だ。これは台本があるのだろうか。2人の呼吸が実にぴったりで感心してしまう。さっきの慣れない飛び込みが嘘のようだ。
ルーカス兄さんと言われた方が運転手のおっちゃんと何か話し始めたようだが、おっちゃんは頑としてルーカス兄さんとやらに金を渡す気配はない。当たり前だ。当たり屋にホイホイ金を払っていたら3日で破産するわ。
「んー。ルーカス兄さん、頑張りますね」
粘るルーカスを見て、市川さんが退屈そうに呟いた。
ルーカスは年の頃は日本人感覚なら27,8歳くらい。白人のようだがいくらか有色人種の血が入ってるようだ。頭髪は栗色で身長は180㎝。背は高いがヒョロヒョロで、頭脳労働者っぽいイメージだ。当たり屋をやる感じではない。
「シャーロットさんもいい演技ですねえ……」
俺も興味なさげに返す。シャーロットは見た目も完全に白人だ。赤道直下の太陽に焼かれて褐色になっているが、彫りが深い顔や薄い瞳は白人にしか見えない。身長は市川さんと同じか少し高いようだが、こちらもヒョロヒョロしている。栄養状態が良くないのだろうか。
年齢は……ルーカスより上ということはないだろう。
「おや影山さん、ああいう娘が好みですか?」
退屈に耐えかねた市川さんが俺をいじりに来た。
「いやいやいや。さすがに。磨けば光るかもしれませんが磨く布も皮も持っておりませんので。市川さんこそどうなんです?」
「あー。あれでメガネかけてたらちょっとポイント高かったかもしれませんねえ。当たり屋やってますけどちょっと育ち良さそうな感じしません?」
市川さんのこのセリフを、彼女が日本にいるうちに聞けたら出向元のメガネ男子共は狂喜乱舞したことだろう。俺もメガネかけようかな。
しばらくの押し問答の後、おっちゃんが困った顔をして戻ってきて、車の後部座席に座っている俺の側の窓ガラスをコンコンと叩いた。
どうしたのだろう。何か難しい話だろうか。
「どうしたんだい?」
俺は窓から顔を出しておっちゃんに聞いた。
「旦那、こいつらただの当たり屋なんですがね、旦那と話をさせろって動かないんですよ。殴ってどかせていいですかね?」
俺はおっちゃんの指差す方に目をやった。シャーロットの演技が功を奏したのか、周囲には野次馬が集まってきている。
「なんだなんだ、どうした」
「助けて! うちの兄が車に轢かれて」
「何だって、そりゃ大変だ」
まずい。野次馬達はあのコミカルで出来の悪い衝突の瞬間を見ていない。このままでは日本人の車が人を轢いて、笑い転げた後に被害者を殴って逃げた、と話が独り歩きしてしまう。
というか、野次馬達は諸々判っていながら当たり屋側の肩を持つだろう。連中にしてみたら自分達も一口乗れるチャンスがあった方が良いに違いないからだ。
「わかった。殴るな。俺が話をしよう」
「すいません。適当に受け流して下さい。こんな連中に金なんか渡すもんじゃありませんよ」
「わかってる。ちゃんと危機管理の講習は受けてるから」
「じゃ、頼みます」
おっちゃんはルーカスを手招きし、俺を指さした。ルーカスは近くで見るとなかなかの美青年だ。先程までのチンピラっぽさが消え、理知的な影が見える。
俺が感心していると、彼はすっと胸に手をあててお辞儀をして車の中にいる俺にドア越しに話し始めた。
「感谢您有机会与您交谈」
ぬお。中国語。
このあたりでは黄色人種はだいたい中国人だ。俺達を中国人だと思ったんだろう。
「俺は日本人だ。中国語はわからん。ルーカスと言ったな。英語は話せるか?」
「なんだ、あんた日本人か。オーケー。あなたが英語がいいなら私は英語で話すでしょう」
なれなれしいな、こいつ……。
俺が訝しむ一方でルーカスは千載一遇のチャンスに少し浮かれているようだ。
「ニホンゴでもいいけど」
少し苦手だけど、と言いながらルーカスが日本語を口にした。ツンデレ娘みたいだが俺にツンデレ属性はない。
「あなた、日本語が話せるの!?」
市川さんがびっくりして奥の席から窓ににじり寄って来た。市川さんの体が近い。ちょっと市川さん! 近い!
「前のママが日本人だったから、日常会話なら。痛い思いをしたんだ。おカネくださいよ」
なるほど。有色人種の血は同胞のものだったか。何か事情でもあるのだろうか。
「金は払わない。理由はわかってるだろ。ここじゃ日本語が話せりゃ日本企業の引く手あまただろうに、なんで当たり屋なんかやってるんだ?」
普通の疑問だ。俺は悪くない。
「日本企業は金儲けが下手だ。来てもしばらくすると帰ってしまう。それに僕はまだ学生なんだ。フルタイムじゃ働けないんだよ」
ルーカスの日本語はどこか子供っぽい。大人になってから日本語の会話を日本人とはしていないのだろう。
しかし学生……? とてもそうは見えないが……。
「どこの学生だ。学部は?」
「ナイジェリア大学エヌグキャンパス。学部は医学部。今はそこのNIMR(注)で博士課程の研究をしているんだ」
ルーカスは学生証とNIMRの構内に入るためのIDを俺に見えるように掲げた。スマホを取り出しウィキペディアで検索してみたが、ナイジェリア大というのは国内随一の優秀な学生が集まるところらしい。そこの医学部。大学院。優秀。日本語も話せる。
うん、これは掘り出し物かもしれない。
「君の大学のモットーは『人間の尊厳の回復』だそうだが、今やってる当たり屋は少なくともそこから逸脱してるな」
俺は少しイヤミを言ってやった。イヤミが解るくらいの日本語能力があるかどうかを試すためだ。尊厳だの逸脱だのという少し難し目の単語についてもな。
「……難しい言葉を使わないでくれ。日本語は久しぶりなんだ」
残念。でも、基礎があれば上に建てる建物には期待が持てる。今のところはできるだけ平易な日本語を使わないと意思疎通は難しいかもしれない。
ま、俺も難しい英語は使えないしな……。
「で、どうして君は当たり屋をしているんだ?」
「今すぐ使えるお金が欲しかったんだ」
ルーカスは愛想笑いをやめ、真剣な顔でそう言った。
「その説明では足りない。もう少しバックグラウンドを話してくれ」
「パパが死んで、パパのやっていたお店が中国人に乗っ取られたんだ。
それから悪い奴らがパパの借金の取り立てだと言って何もかも持って行った。アパートも追い出された。住むところがない。
大学は国からお金が出ているので僕一人ならなんとかなるんだけど、シャーロットもいるし……」
ああ、こういう話は世界のあちこちであるんだなあ……。
シャーロットは特にこの国では目立つだろうし「悪い奴ら」には目を付けられるだろう。彼女はかなりの美人だ。栄養状態が良ければより美しくなる可能性がある。もしかしたら乗っ取りだのなんだのも、シャーロット目当てだったのかもしれない。
いや…… それはさすがに考えすぎか。
で、世間の荒波をそれまで知らなかったルーカス坊ちゃんは晴れて当たり屋になった……と。
「よく解った。ではルーカス、君と、そしてシャーロットを我が家の夕食にお招きしよう。詳しい事情はそこでゆっくり聞くよ。ここが住所だ。今からここまで来れるか?」
俺はこの数日、各種の登録・申請のために何度も書かされ覚えてしまった自分の家の住所をポストイットに書いてルーカスに渡した。
「うん。大丈夫。今の時間ならバスもあるしね。バス代くらいならあるよ」
ルーカス、安堵の笑顔。後ろでシャーロットがガッツポーズ。それを見た周囲の野次馬が色めき立った。
「おお、あいつらうまくやりやがったみたいだ!」
「あの車だな。俺も明日飛び込もう!」
「まてまて、ここは俺が」
「いや、俺が」
……おいおい、物騒だな。
「旦那、日本語で話してたようですが、あいつらに金を渡す約束をしたんですかい?」
おっちゃんは明日からの業務に差し支えが出ることが明白なのですごく嫌そうな顔をしている。
「いいや、おっちゃん。金を渡すとは言ってないよ。安心して。今から小芝居を打ってほしいんだ。ルーカスも、シャーロットも、いいね?」
俺は3人に即興で考えたセリフを伝えて、そして中指を立てながら窓を締めた。窓が締まりきったら開始の合図だ。
窓が閉まったのを見て、ルーカスとシャーロットがノリノリで、そしておっちゃんが嫌そうに小芝居を打ち始めた。
「なんだよあんた! 結局金は払えねえってのか! ヘコヘコして損したぜこのドケチ野郎!」
ルーカスが俺に吠え、タイヤを蹴飛ばしてファックファックと叫ぶ。タイヤが蹴られるたびにおっちゃんのこめかみがピクピクと動く。
「ああぁなんてこと! うまく行ったと思ったのに! なんでよ! 畜生!」
シャーロットが頭を抱えて天を仰ぎ、半べそで崩れ落ちた。演技が上手だ。
「いつまでもうちの旦那に絡んでんじゃねえ! さあさっさと行った行った!」
おっちゃんはセリフ棒読み……だけどOK。決まり文句ってのは棒読みでもなんとかなるからこそ決まり文句なのだ。
この光景を見た野次馬達は、結局失敗かよ、とルーカス兄妹を口汚く罵りながらぞろぞろと解散していった。よし、小芝居は成功だ。
「勘弁して下さいよ。旦那……」
「すまんすまん。野次馬達をなんとかしないといけなかったんだよ」
俺は愚痴るおっちゃんに軽く謝りながら、流れる光景を見ていた。ルーカスとシャーロットがバス停の方へ歩いて行くのが見える。
「本気?」
市川さんは戸惑いながら「ねえ大丈夫なの? 危なくないの? 軽率すぎない? 私の家はあんたんちの隣なのよ?」と残りの道中を不安の言葉で埋め尽くすが如く俺に詰め寄った。
いつもの自信に満ちた市川さんとは少し違う。やはり異国で勝手が違うとここまで人間不安になるものなのだろうか。
「考えがあるんだ」
俺は市川さんにぶっきらぼうに答えた。
(注)Nigerian Institute of Medical Research 、ナイジェリア大学医科学研究所の略称




