番外編 不思議の国のミシェル 3
「それより、チケットは三十日からだから、明日の午前九時にはここを出ようと思ってるんだけど」
クラウドは一度、言葉を切った。
「言っておかなきゃならないことがある」
クラウドは、長い話をするとき、必ずそう言う。
あたしはうなずいた。そうしたら、彼はあたしの右手をふんわりにぎってきた。
「や、あのね。話をするのに手つなぐ必要、ないよね?」
「俺は、ずっとミシェルに触っていたいから」
あたしは悪くない。
こんなキレイな男に、一日中こんなこと言われ続けてたら、どんな鉄のパンツ履いた女でも落ちるわ。
「ミシェルが、ルナちゃんを心配なのはよくわかる」
クラウドは、あたしが心配していることも、具体的にお見通しだった。
「アズが、信用できないんだろ」
あんたもだけど。
かろうじてその言葉を飲み込んだ。
「“俺たち”は、君から見たらアヤシイことこの上ないかもしれないが、本当に好きなんだ」
どうやらクラウドは分かっていたみたいだ。あたしはすこし気まずい気持ちになった。
(あたしも悪い)
――ほんとうにイヤなら、「ごめん、つきあえない」とはっきり言えばいい。
最初のうちに――いまだって。
それをしていないのは、あたしだ。
「どうしたらわかってもらえるかは、時間をかけるしか、ないと思う」
あたしはうなずいた。それが分からないほど、子どもではない。
「ルナちゃんにはボディガードも着いたそうだし、もうアンジェラはここにはいない。それに、ルナちゃんにはいつ来てもいいと言ってある。だから、ミシェルには笑顔でいてほしい。俺、ミシェルのためだったらなんでもするから……」
そっと、クラウドの、キレイな大きい手が頬を撫でていって、あたしより綺麗な唇が、あたしの唇を一瞬だけ盗んでいく。……この、天性のタラシめ。
「……わ、分かった」
「それから、言いたいことは、それだけじゃないんだ」
「え?」
クラウドの顔が、いつも以上に真剣みを帯びていた。迷っているような、困っているような――あたしをガン見したら、ぜったい目を離さないこのヤバいやつが、何度かあたしから目をそらした。
それから、すっくと立って、リビングをうろつきだした。
「あのさ」
もったいつけるなとあたしは言いたかったけれど、クラウドは慎重に言葉を選んでいたのだ。
あたしを、動揺させないために。
「あの――ミシェルが好きな、ガラス工芸の作家――アンジェラ・D・ヒースなんだけど――」
「アンジーがどうかしたの!!」
あたしの顔は、百八十度変わって輝いた。それがクラウドにもわかったと思う。彼はますます苦い顔をした。
「――同一人物なんだよ」
「え?」
「君の言う“アンジー”は、アズがもと愛人だった“アンジェラ”だ」
「へっ……」
あたしがどれだけショックだったか、だれか分かってくれる?
あたしたちがこの宇宙船に乗ってまもなくのころ。
船内のイベントを放映しているニュースで、K08区のスクナノ湖のそばでクラフトフェアが開かれるということを知った。
K23区の芸術家たちの作品が一堂に会するイベントだ。陶器に木工作品、ガラス作品、アクセサリー、服、絵画――カフェやケーキ店、ベーカリーも出店した、三日間のマーケット。
ルナと、行ってみようかと話した刹那、あたしの目を奪ったのは、クラフトフェアの目玉となる出店者だった。
アンジェラ・D・ヒース。
初日の午前十時から、アンジェラの作品が並ぶ店舗が出店する。
ウソでしょ。
アンジーの作品が、クラフトフェアに出展?
アンジェラは、ロビン先生の永遠の憧れで、目標である作家だ。ロビン先生の影響で、あたしも彼女が好きになった。
本格的にハマってしまったのは、一度だけ、先生に連れて行ってもらった彼女の作品展のせい――あたしは、生で見る彼女の作品群に圧倒された。
それ以来、先生を越えるファンなのだ。
あたしは、「本人がこの宇宙船に乗っている」なんて、思いもしなかった。
ただ、彼女の作品が売りに出されている――本物が。しかも、正規の販売店だということで、大興奮だった。
だって、大都会のデパートや専門店でしか、アンジーの作品は購入することができない。
ブランドの中でも、最高級品とはいわないまでも、けっこうな高級品に位置するんじゃないかな。
二度目の衝撃は、あたしが着いた午前十時半にはすっかり品物が売り切れ、撤収してしまっていたことだった。半泣きで運営テントに向かったら、あたし以外にもアンジェラの店舗の問い合わせをしているひとがいた。
アンジェラの店舗はたしかにあった。本人はいなかったけれど。
グラスと器のどれもが百万を超える品物なのに、開始三十分程度で売り切れてしまったのだ。
あたしはローンをしてでも買う気で来たのに。
どれだけがっかりしたか――つまり、あたしにとってアンジーは、究極の憧れのひとなのだ。
「アズラエルの、愛人……!」
「君が信じられないのはよくわかる」
クラウドはあたしをなだめようと、抱きしめたり撫でたりしてきたが、あたしはそれどころではなかった。
「そんなに――アンジーが――近くにいたの」
「近く?」
「アズラエルと! 知り合いだったのってことよ!!」
「しりあ……」
クラウドは、あたしの口から想像外の言葉が出てきて驚いていた。
「ごめんちがうわ! どっちかというと――恋人同士?」
「……」
クラウドがあたしに関することになると判断が狂うように、あたしもアンジーのことになると、正常な判断ができなくなるみたい。
少なくとも、金銭感覚は崩壊する。
「ね、あの、あの、どうにか、どうにかして、アンジーに、ひとめ、あったりなんて……」
クラウドは絶句して、おおげさに首を振った。
「君をあの女に? 無茶だ」
「無理なのはわかるわ。偉大な芸術家だもの……」
「そうじゃない」
久しぶりにクラウドがまともそうに見えた。あたしがおかしかったからだ。
「あの女はメチャクチャだ。君の想像以上に――」
「あ、そうか」
アンジーは、もとカレ(?)のアズラエルにもどってきてほしくて、自分の取り巻きをつかって、ルナを宇宙船から降ろそうとしたのだ。
あたしは混乱してきた。
あたしのあこがれの人が、アンジーが、ルナを?
「アンジーが? アズラエルと寝てた?」
スタートにもどった。あたしの思考回路は堂々巡り。
アンジーに会ってみたい、アンジーは偉大だ。アンジーはメチャクチャ。アンジーはエキセントリック。芸術家なんだから、そんなところがあっても不思議はない。
アンジーがイケメンの取り巻きをそろえているのは、あたしも知っていた。
セックスにも奔放で、自由な性格。そして芸術家で資産家。
スキャンダルには事欠かない。
美貌と繊細なセンスと、色気を備えた最高の女性、アンジー。
「すまないミシェル。やっぱり衝撃だったよな」
クラウドが嘆息気味に言ったけれど、あたしはやっぱり信じなかった。
「アズラエルが!? アンジーの取り巻きにいたの!!」
どう想像しても、しっくりきた。雑誌で見る華やかなアンジーのそばにたたずむ、渋いイケメン、アズラエル。
あたしは顔を覆った。
「ごめんルナ! どうひいき目に見ても、アンジーとアズラエルのほうがお似合い!!」
ルナには心底申し訳ないと思った。
「ミシェル、」
「アズラエル、アンジーと別れなくてよかったんじゃないの!?」
「ミシェ、」
「今からアズラエルに連絡して、別れなくてもよくって、ルナには多分セルゲイさんとかいうひとのほうが、お似合――」
「ミシェル、落ち着くんだ」
あたしはだいぶひどいことを言っていた自覚は――なかった。そのときは。頭が真っ白だった。
「アズは、ルナちゃんが好きなんだ」
クラウドはもっとひどいことを言った。
「たぶんアズは、アンジェラの顔も半分しか覚えてないと思う。特徴だけとか」
わし鼻気味の鼻とか、青い髪とか。
「すなわち、もとカレって自覚すらない」
「信じられない! あたしアンジェラの顔なら、百キロ先からでも見分けられるわ!」
大げさなのはわかっている。
「なんて贅沢なヤツなの……!」
アズラエルに憎しみさえ湧いてきた。あたしが一生に一度でもいいから、生身のアンジェラを見てみたいと思っているのに、その彼女をどうでもいい感じで抱いていた。
「嫌がらせされるのはあたりまえよ!!」
「ミシェル、嫌がらせを受けたのは、ルナちゃんやキマだ」
「でも――ええと――アンジーが怒るのは、もっともだって気がしてきた」
「ミシェル」
クラウドはびっくりして目を見開いた。
「だって、アズラエルがいいかげんな男でありすぎるもの!」
「それは、否定できないが……」
「どうしよう――あたし、アンジェラに会いたい」
あきらかに、彼は詰まった。困ったのだ。でもあたしは止まらなかった。
「話せなくてもいいの。この宇宙船にいるのよね? 遠目からでも――百キロは困るけど、その、数メートル先でもいい。見たい」
「……」
「お願い、クラウド」
「ミシェル……」
拝み倒すあたしを、クラウドがどんな表情で見ていたかなんて、覚えていない。
――クラウドが、あたしのお願いは、なんでも聞いてくれると知っていて。
あたしは、正常な判断を失っていた。それが分かったのは――ぜんぶ終わってからだ。
ルナと一緒に、リリザの遊園地の観覧車で、遠くの景色を見渡していたとき。
リリザでアンジーの個展が開かれているはずだった。あたりまえだけど、百キロ先のアンジーなんて、見えやしなかった。
でも、これはこれでよかったんだと思う。
なぜなら、結果。
クラウドとの距離が――あたしが感じていた、とてつもなく遠い距離が、ぐっと縮まったから。




