番外編 不思議の国のミシェル 2
11月29日、午前8時。
――あたしは汗びっしょりになって目が覚めた。
なにがアリスよ。あんなむっさいアリスってないでしょふつう。
突っ込むことを忘れてないみたいで助かった。
あんな大男をアリスにするなんて、あたしの夢のセンスってどうなってんだろう。
だるい体を起こして時計を見る。まだ八時だった。それは、いつも起きる時間より遅いことには違いなかったけど、十時過ぎまで寝ていたような目覚めの悪さだった。
アリスがあたしで、チェシャネコにいじめられる夢は、クラウドにあってから見なくなった。
そのかわり、アズラエルがアリスで、ルナウサギを追っかけ回してる夢をたまに見る。
追っかけまわしてるっていうか、野ウサギをつかまえようとしてるかんじ? 振り回されてるかんじ。
ヘンな夢。
「おはよう、ごはん、できてるよ」
クラウドの声。
あたしはパジャマのままベッドから起きて、ダイニングに向かった。
ここはK36区の、アズラエルとクラウドが住んでいた部屋。
彼らとマタドール・カフェで会ってから、もう二週間も経ったなんて。
あれからずっと、ここに泊まりっぱなしだったし、はっきり言えばヤリまくっていた。
言葉にすると、とたんにヘンな感じ。
アズラエルがこぼしたことがほんとうなら、クラウドはあたしより七つも年上なのに、女の人と付き合うのは、あたしで二度目。
でもまぁ上手だったし、触れ方もやさしいし、髪の毛まで乾かしてくれるし、朝ごはんつくってくれるし、家事はほとんど彼がやってくれる。気持ち悪いくらい完璧なパートナーだった。
正体不明だってことを、のぞけば。
あたしは、クリーニング・サービスによって非の打ちどころなく清潔にされた洗面所で、歯ブラシを口に突っ込んだ。
クラウドと一緒に暮らし始めてから、あたしが自分ですることは、トイレに行くことと食事を口に運ぶことと、歯を磨くことくらいじゃないだろうか。
あたしのツメまで整えようと、ネイルセットを持ち出してきたクラウドにはさすがにやりすぎだと思って遠慮した。
クラウドの前の彼女は、そこまで要求したんだろうか。
こんなに至れり尽くせりを?
あたしだってそんなに経験があるわけじゃないけど、ここまでマメなやつも見たことがない。
タブレットを口に放り込んで嚙み砕いてうがいをする。鏡に映るのは、代わり映えのしない、地味なあたしの顔のはずだけど、クラウドの「ミシェルは綺麗、美人、カワイイ」攻撃で、すこしは上等になってきてる気がした。
寝起きの、ボサボサ頭の、まぶたも厚ぼったい顔だけど。
クラウドは、「ある意味」完璧だ。
顔も身体も、完璧な美形で――そう、かっこいいというより、キレイ、美しい。そっちの形容のほうが似合う。あたしはいまだに、どうしてクラウドがあたしにひとめぼれなんてしたのか――理解できてない。
理解できない。
そう、納得したわけじゃない。
クラウドがあたしを好きだなんて、まだ信じていない。
こんなキレイで特別そうに見える人が、あたしを好きだなんて、なにか裏があるんじゃないかと疑ってしまう。
「どうしたの。食べてミシェル」
今日の朝ごはんは、まっしろでふわふわの食パンに、生クリームとイチゴがたっぷり乗っている、オープンサンドっていうやつ? まるでカフェの商品みたいに、ミントまで飾ってある。粉砂糖をふりかけたイチゴも周囲に飾られて。
多分、あたしが、このあいだテレビに映っていたイチゴトーストを「おいしそう」といったせいだ。
それから、あたしが好きな味のコーヒー。あたしがロビン先生の影響で、コーヒーにうるさいのはクラウドも知っている。あたしはペーパードリップしか知らなかったけど、クラウドはネルドリップで淹れる。
それが、おいしいのなんのって。
さらに、木の皿のワンプレートに目玉焼きとベーコン、サラダ、ドライフルーツの入ったヨーグルト。
完璧。
味も見かけもカンペキ。
SNSに投降したほうがいいと思う。この朝食。
マジでおいしそうだった。
「すごおい……」
ホントに、ホントにすごいと思ったんだよ?
でも口から出たのは気が抜けた声。
あたしの食欲は急に減退した。
(ルナの朝ごはんが食べたい)
たきたてのほかほかごはんに、豆腐とわかめのお味噌汁。ルナのお味噌汁はバラエティ豊富。白みそだったり赤だしだったり、あわせみそだったり。飲んだ翌日のシジミかアサリのお味噌汁を思い出すとよだれがでる。
あと、キュウリとカブのぬか漬けと納豆。目玉焼きにベーコンとサラダ。食後のデザートはフルーツヨーグルト。
小さなおにぎりが並ぶときもある。大きめのお椀にたっぷり豚汁もよそわれて。
あたしはおいしそうな朝食を見ながら、ためいきをついた。
無意識だったんだ。失敗したとは思った。
それを見逃さないクラウドではない。
「どうしたの。食べたいものがあったら言って。作りなおすよ」
「えっ!? い、いやいや、いいよ、作りなおすとか――」
あたしはあわてて、生クリームいちごパンを口に運んだ。
しんじられない。でも、たぶんクラウドは、あたしが「つくりなおして」っていえば、たぶん本当につくりなおしちゃうと思う。
「おいしいよ! ホントに!!」
「……よかった」
クラウドがほっとした顔を見せる。あたしも、だいぶほっとした。
なぜならクラウドは、あたしの顔色ひとつで、あたしの考えていることが六割――いやいや、七割くらい、分かってしまうんじゃないかって思っているから。
クラウドは、頭がすごく良い。
良いだけじゃなくって、うまくいえないけど、なにか特別な脳みそを持っているんだ。
スーパーに買い物に行くと、カートに入れた品物を、かたっぱしから計算しちゃうの。レジに着くころには、ぜんぶでいくらかわかっちゃって、あたしに税込みの合計を耳打ちしてくれる。無意識にやっているのが怖い。
あと、記憶力がすごくいい。本を読むスピードが尋常じゃない。分厚い本や、レポートみたいのを、パラパラパラーってめくって、「全部読んだ」。
内容をぜんぶ暗記しているんだから、あたしはほんとうにびっくりした。
口調はロビン先生みたく柔らかいけど、でも、ロビン先生みたいに根っこの優しさが表れた声じゃない。ときに、ものすごく機械的に感じることがあるんだ。
ルナも宇宙にぶっ飛んだ思考回路をしてるけど、クラウドはもっとそんな感じ。でも、ルナみたいにふわふわした感じじゃない。すごく機械的――ロボットみたいなの。
最初は、顔が整い過ぎているっていうか、キレイすぎるせいだと思った。
でも違う。あんまり、人間味を感じさせない。
すごく考えかたも割り切っていて、あたしに対する接し方も、バランスが取れ過ぎていて――コンピュータみたいなのに。
そう――なんだか、AIみたい。高性能なpi=poってかんじ。
その彼が、あたしにひとめぼれしたっていうの。
ギャップといえばギャップ。でも、理解不能な人間であることはたしか。
軍事惑星の、心理作戦部の副隊長だったなんていわれても、あたしにはちっともわからない。ただ、心理作戦部、なんてすごく頭のいい人が入る部署であろうことは、想像できる。
正直にいうと、クラウドはタイプではない。
あたしが好きなのは、別にそんな頭も顔もよくなくてもいいから、人間的に尊敬できる人。で、明るくって、ちょっとやんちゃな感じのあるひと。少なくともクラウドは、あたしの好みのタイプとは対極の位置だ。
顔だって、あたしよりキレイなんだもん。女の立場ないでしょ。
でも、クラウドが、「ミシェル、大好き」って言ってくれるのは、すごく、スキかもしれない。
あたしがほだされたのって、このクラウドのスキスキ攻撃と、あたしが「クラウド」って名前を呼んだとき、すっごく嬉しそうな顔をするんだ――その、機械的な顔が急に人間味を感じさせる――そこに。
そこに、ほだされちゃったのかもしれない。
……正体不明なのは、たしかなんだけど。
「おいしいよ、ほんとに」
「そうか――よかった」
クラウドはほっとした顔をし、自分も席に着いた。
「今度、ルナちゃんに和食を習おうかな」
――やっぱりぜんぶ、お見通しだった。
のんびりした朝食が終わり、クラウドのpi=poが全自動の食器洗浄機にぜんぶぶち込む。かたづけはほとんどpi=po任せだ。
クラウドが改造したpi=po「CK1325」は、愛称「キック」。
家事も掃除も完璧。自動車運転もできる。見かけはオーブントースターサイズの、一番安いpi=poなんだけど。
「ミシェル、今日はどこかに出かける? それとも、家でのんびりしたい?」
「クラウドは今日、用事ないの」
「ないよ。君の行きたいところは?」
満面の笑みに、あたしはどんな表情を返していいか分からなくなる。一事が万事、この調子なのだ。でも、今日はなんだか格別だ。
あたしは肩をすくめて言った。
「クラウド、あたし、べつにもう怒ってないよ」
「……ほんとに」
あたしの予想は当たっていた。クラウドはやっぱりあたしの機嫌を取ろうとしていたのだ。
アズラエルが以前つきあっていた(アズラエルはつきあっていないと言い張る)アンジェラという女性が、ルナに嫌がらせをはじめたのが数日前。
そのときクラウドは、アンジェラの担当役員(?)から「賠償金を引き出す」なんて言ったから、あたしは「そんなことを言うなら別れる」と言った。そういう問題ではないと思ったからだ。
どうもあれ以来、クラウドはあたしのご機嫌を取りすぎる。
ほんとうに分からなくなる。
あの「別れる」の言葉を、ここまで気にするなんて。
謝ったのだから、もう怒っていないといっても、クラウドはあたしの機嫌を取ろうとする。
一体全体、この見かけだけでもパーフェクトな男性が、どうしてあたしなんかを……といくら卑屈でなくたって、一度や二度は疑うと思う。
でも、「どうしてあたしが好きなの」と聞いたが最後、クラウドの口からはいたたまれなくなるような賛辞と口説き文句が飛び出すので、あたしはぜったいに聞かなくなった。
アズラエルが「L18の男は女を口説くのに全身全霊をかける」と言っていたけれど、かけなくてもいい。
アズラエルは、あたしから見てもペットうさぎにメロメロなのはわかるけど、クラウドもそう見えているんだろうか。
あたしに? メロメロ?
(ないわ)
あたしが心理作戦部とかいうところの軍事機密を握っていて、それでクラウドはあたしに近づこうとした――なんてアクション映画じみた妄想まで起こすくらい、あたしはまだ現実を受け止めかねていた。
それでも、現実は淡々と過ぎていく――アズラエルの女性関係がつぎつぎに暴かれ――というよりかは、あれは不運なだけだったのではと思うのだけれど、アズラエルはアンジェラとのことに「ケリ」をつけるため、どこかへ行ってしまった。
あたしたちに、石油王さんからもらったというリゾートのチケットを残して。
「ねえ、明日から行くリゾート? のことだけど」
クラウドの口から歯の浮くようなセリフが出るまえに、あたしは言った。
「うん」
「やっぱり、ルナをいっしょに連れて行かない?」
「かまわないよ。君がそう望むなら」
クラウドはあっさり言った。
「ルナの部屋も借りなきゃいけないよね」
「え?」
「ふつうに宿泊するとなったら、そのコテージはいくらかかるの」
「……この船内じゃ、一泊三百万デルあたりが相場だろうね」
「三百万デル!?」
ルナの分も部屋を借りなきゃと思っていたあたしは、その金額に目を剥いた。クラウドは小さく笑みをこぼした。
「あそこは、君が思ってるような“コテージ”じゃないよ。何平米あるかな。バーベキューテラスやプールも着いていて、ゲストルームが最低三部屋はついているはずだから、ルナちゃんの宿泊代は心配いらない。同じ敷地内に泊まればいい」
あたしは絶句した。
セレブの世界は、想像以上のことばかりだ。
「それから、ルナちゃんにはコテージの住所もメールで送ってあるし、来るならいつでも来てくれって言ってある。もちろん、俺が迎えに行ってもいい」
「まあ……ルナがだいじょうぶって言ったんだもんね」
ルナが心配なのはたしかだったけれど、この宇宙船の警察のボディガードもついたっていうし、アンジェラは宇宙船から降ろされた。
それに、きのう、深緑のロングワンピースを着たルナが、黄色いモフモフ素材のストールを頭からかぶって、「とうもろこし!」というタイトルで自撮り写真を送ってよこしたので、なんとなく心配いらないと思った。
いつものルナだ。




