番外編 不思議の国のミシェル 1
◇ミシェルとクラウドのお話です。
あたしは、物心ついたころから、不思議な夢を見ていた。
夢を見はじめたきっかけは、アニメかなんかで「不思議の国のアリス」を見てからだったと思う。
あたしは夢の中ではアリスで、薄暗い森の中をさまよっている。道がいくつもあったり、あるいはないときもあったり。迷ってウロウロしていると、決まって意地悪なチェシャネコが顔を出すのだ。
チェシャネコは、いつもヘンな質問を投げかけてきた。意味のわからない、理不尽な質問を。
あたしは、そのチェシャネコが大嫌いだった。この夢は、学校でイヤなことがあったときとか、家族とケンカしたときによく見た。進路に迷ったときも、連日チェシャネコは夢に出てきた。
いったいなんの夢かなんて。
体調の悪いときにも見たから、多分、最初はそんなに意味がある夢だとは思ってなかった。
チェシャネコは、あたしが小さいころ大嫌いだったブロッコリーを残して、鮭のムニエルだけを食べて母さんに怒られた日も、夢に出てきて言った。
「鮭のムニエルと鮭のクリームシチューは、どっちが好きかニャ?」
……夢なんて、わけわかんないものだ。
あたしがクリームシチュー、と答えると、とたんに大量のでっかい鮭がいーっぱい空から降ってきて、押しつぶされそうになって目が覚めた。起きたら、なんのことはない、飼っていた犬のアルフレッドが、 お腹の上に乗っていただけだったんだけど。
とにかく、チェシャネコの夢って、ろくな夢じゃないんだ。
おバカな質問をしてきて、それが気に食わないととんでもない目に遭う。
それが、運命の相手の夢だって、気付いたのは。
不思議なことだけど、地球行きの宇宙船に乗って、クラウドに出会ってからなんだ。
ルナから電話が来て、一ヵ月後に宇宙船に乗るまでは、連日のように夢を見た。だんだん「進化」していく、チェシャネコの夢を。
そして、小さなころからの、おかしな問答タイプの夢が、半年前、急に変化した。
その夢はよく覚えている。
チェシャネコは、いつも以上に返答に困る質問をしてきた。
「キミはロビンが好きかニャ?」
ロビンさんは、あたしのガラス工芸の先生だ。
眼鏡をかけた、三十二歳のモテ男。性格もやさしくって、ひとあたりよくって、身長も高くて顔立ちがキレイだったから、女の子にモテるタイプ。でもあたしは、その先生のガラスに対するこだわりとか、芸術性とか、そういうのに惹かれていた。男女のスキとかは別にして。
あたしは小さなころから、ビーズとか、ビー玉とか、宝石とか、キラキラしたものが大好きで、将来は宝飾デザイナーかガラス工芸のアーティストになりたいなと思っていた。
高校卒業間近に、通っていたガラス工芸の教室の先生に、「卒業したら本格的にやってみない?」と言われて、ロビン先生を紹介されたの。
あたしが、ガラス工芸を続けようと決心したのも、なにかものを作るのが好きだったのもあるけれど、この先生に出会って、新たにガラス工芸の魅力を再確認できたからだと思うんだ。
先生は、あたしがガラス工芸に感じていた漠然とした思いを言葉にしてくれ、言葉になったおかげで、あたしは、自分の漠然としていた世界がひとつの形を持って形成されて、道が敷かれたような、かんじがしたから。
尊敬しているかと言われたらイエス。好きか嫌いかで問われたら大好きだった。
そんなときだった。この夢を見たのは。
「キミはロビンが好きかニャ?」
そう問われて、反射的に「スキ」と答えた。チェシャネコは、それを聞いた途端に、あのイヤーな笑い方をして、かき消えた。
気がついたら、あたしは左手の薬指に綺麗なブルーの宝石がついた指輪をはめて、ウェディングドレスを着ていた。森が消え、めのまえが開けてバージンロードになる。
隣の白い礼服を着た男性は、ロビン先生だった。
結婚式場に花が舞って、たくさんのお客さんに祝福されている。
あたしはロビン先生と結婚するの?
イヤではないけど、なんだか微妙な心境で、周りを見渡しながら、妙に長い距離のバージンロードを歩いていた。
ルナがいる。でも、隣に、見たことのないふたりの大男がいた。
そう。メッチャおっきな人。
ふたりとも大柄で、なぜか礼服を着て、長い剣を持っているのだ。おかしいでしょ?
顔はそのとき、よく見えなかった。片方は、肌の色が褐色であごヒゲがあるの。で、片方はキラキラした銀色の髪で。
この夢の意味が分かったのは、ずっとずっと、あとになってから。
あれはアズラエルとグレンだったんだ。
思い返せば、セルゲイ先生もいたし、「お屋敷の仲間」が勢ぞろいしていた。
この夢は、これから定期的に見るたびに、だんだん出てくる人の名前も顔も一致してくるんだけど、そのころはほとんどが知らない人だらけだった。
キラもいて、赤ちゃんを抱っこしていて、その隣にふんわりとした優しそうな男の人もいた。そう、ロイド。
リサと、赤ちゃんを抱いたミシェルも、出てきたことがある。
予知夢だって?
あたしは、真剣にそう思っていたよ。
でも、だれにも言わなかった。
だって、大切なことは自分の胸の内だけにしまっておきたいじゃない。
さて。
それはともかく、夢の話の続きね。
みんなに祝福されながら、バージンロードを先生と一緒に歩き、牧師さんのめのまえまで来たとき。
「ミシェル、つかまえたーニャ」
イヤーナ笑い声とともに、先生の顔が別人の顔になって、悲鳴を上げて目が覚める。
――というサイアクな夢を。
あたしは宇宙船に乗るまで、見ていたのである。
ルナとはぜんぜん、違った夢をね。
L歴1414年8月28日。午後5時30分。
「話ってなに?」
先生が、作業の手を止めて振り返った。
ガラスの溶ける独特の匂い。すこし離れた溶解炉から火の音が聞こえる。しばらく、この音ともお別れです。
このあいだ、ルナから電話があって、それがたいしたことない話じゃなくて、けっこうとんでもない話だった。
地球行き宇宙船のチケットが、手に入ったのだ。
正確には、ルナに来たんじゃなくて、ルナの幼馴染みのリサと、それから中学のときいっしょだったキラに来たんだけど。
それで、ふたりともルナを誘って、もうひとり行けるからあたしもいっしょにいかないかという話になり――。
あたしは、いつもだったらかなり悩んで結論を出すところだけど、きのうはあっさり「行く」と返事をしてしまっていた。両親の承諾とか、ガラスのこととか、ぜんぶ忘れて。
ルナもリサもキラも驚いて、「もうちょっと考えてみてからでもいいよ?」といってくれたけれど、返事は一週間後だそうで、そんなに早いんだったら、悩んでも一緒だな、とあたしはめずらしく即決したのだった。
親には今日の夜、言うつもりだった。反対されても行くつもりだったけど、多分あたしの両親は、反対しないだろう。なにせ、高校受験のときも、娘がどんな学校を選んだか合格するまで知らなかったくらいだし。
美術系の大学に行くはずだった娘がいきなり地元で就職を決めても、「そうなの」ですんだくらいだし。
うちはけっこう――いやかなり――放任なのだ。
「どうしたの? 休みの日に。明日では遅い話なのかな」
森の中では、街中と違ってセミの声も反響してすごい。セミの季節もそろそろ終わりだ。
むしむしする、この暑さも。
ガラス工芸の工房、「しずくの森」は、あたしが住むローズ・タウンから車で一時間の、閑静な森の中にあった。近くには、ゴルフ場や牧草地がある。
工房には、だれでも立ち寄って見られる先生や弟子たちの作品展示室があって、今日、お客さんはいなかった。先生はあたしのほかにも弟子をふたり取っていて、そのふたりも来ていなかった。
あたしは週五日、先生に習っている。工房の掃除や先生のお手伝い、展示室の受付をして、そんなに高くはないバイト代をもらっていた。
あとは、偶然売れたあたしの作品の代金が、収入かな。
実家暮らしのガラスデザイナー。
親といっしょで、それはそれはのんきにやっていた。
「明日でもよかったんだけど……すみません、急に」
休みの日に突然押しかけたのはあたしで、先生にも用事があったかもしれないことをようやく思い出して、バツが悪くなった。
地球行き宇宙船に乗れるっていうことで、だいぶ興奮していたんだ、あたしも。
いつでも優しい先生は、首を振った。
「かまわないよ。今日はぼくも、一日作業」
「あの、これ」
あたしは、手土産を差し出した。
近くの農場がやっているチーズ店のフロマージュ。しばらくはこのフロマージュともお別れだ。帰りに、パパとママにも買っていこう。
「おみやげ? ありがとう。じゃあ、ちょっと休憩して庭で食べようか」
あたしが差し出した小箱を受け取り、先生は、庭の丸テーブルに、アイスコーヒーと一緒に持ってきてくれた。
「わあ! キレイ――先生の新作ですか」
たっぷりの氷とともに香ばしい液体が入ったグラスは、虹色。色が見えるか見えないか――日に透けて、はじめて七色の色彩を放つ。でこぼこした形のものだった。
「いや、これは失敗作。だからつかってる」
先生は苦笑して言った。
夕暮れの日差しが、ガラスに透けて、とてもまぶしかった。
「あの、これ、買うとしたいくらですか」
あたしが財布を出すと、先生は、
「もう一個失敗しちゃったのがあるから、あれでよければあげるよ。これと同じ感じ」
「まじですか!!」
「もう少し、色を薄くしたいんだ……」
そう言いながら先生はグラスを持ち上げ、目を細めて底を見上げた。
晴れの日は、よくここで先生とお弁当を食べたり、お茶したりした。風景はいいし、春風の心地よさを感じながら食べるお弁当のおいしさといったらなかった。いつかあたしも、こういうところに工房を開きたいなって思ったんだ。
ちりん、と音がしたので顔を上げたら、展示室の縁側に、あたしがつくった風鈴が飾ってあった。あたしがここにきて、はじめて作った作品だ。あのときは春先だけど、雨が降っていて。
……なんだか、しんみりしてしまう。
夏が終わりそうなせいもあるからかなあ。
「……ええ!? 地球行きのチケット! それはすごいなあ!!」
先生は、切れ長の目を、できうるかぎりまん丸にして驚いていた。びっくりしすぎて、フロマージュをスプーンから落とした。
リサにもキラにも、なるべくだれにも言わないでと告げられていたけれど、先生には事情を話さないといけない。
それに、先生は言いふらす人ではないし、大丈夫だと思う。
「はい。あたしにじゃなくて、ルナの幼馴染みに来たんですけど」
ルナのことは先生も知っている。たまに遊びに来るから。先生は感心したようにうなずき、
「それはすごいことだな。行くんだろう?」
先生は、行くのが当然だろうという顔をして言った。
「あ、はい……せっかくの機会だから、行ってみようと思って」
「素晴らしいことだね。きっといい経験になるよ。でも、その地球のツアーって、永住権を取るものではないんでしょ?」
「ええ。そうですね。地球に旅行するだけだと思います」
「じゃあ、また帰ってこれるんだもんね。出発はいつ?」
「十月のはじめです」
「そんなに先なの」
先生は驚いて言った。
「じゃあ、新しいバイトの子をさがす時間も余裕でありそうだな」
なんだか、バイトをやめる話も、スムーズに進みそうだった。
突然の話だ。いきなりやめたら先生も困るだろうと思っていた。あたしがやっていたこまごまとした雑用は、けっこうあったから。
多少の嫌味は言われる覚悟だったのだけど。
「もしよかったら、ギリギリまで勤めさせてもらえればと思ってるんですけど……」
「うんそれは、そうしてもらえれば、助かるよ」
「ありがとうございます!」
「地球かあ……ぼくたち祖先の故郷だろう? どんな星だろうね。ぼくも見てみたいな」
地球の写真を送る約束をして、あたしはその日、上機嫌で家路についた。
優しい先生に感謝しながら、あたしはますますロビン先生が好きになって――宇宙船に乗った。
そうしたら。
チェシャネコの夢はますますイジワルにエスカレートしたのである。




