369話 黄金の天秤 Ⅰ 1
「カブラギさんが? あたしに会いたくないってゆうの?」
ルナはほっぺたを最大限に膨らませた。
「カブラギさんってだれ!?」
そこからか。クラウドは説明不足だったと反省した。
「ルシアンのオーナーさ。ルナちゃん、なにかした?」
「なんにもしてないよ! 会ったこともないよ!!」
ルナは、昼食の残りのとり天を、サルーンと奪い合ってつまみ食いしているクラウドに叫んだ。一秒前までカブラギの名前も知らなかったルナである。
エビ天にマヨネーズをつけたクラウドに、ルナはなにか言おうとして、「もげた!」と叫んだ。レタスをちぎりながら。
ルナの頭が混乱中なのは、クラウドにもわかったので、これ以上カオス化しないよう、彼はキッチンの椅子に落ち着いて、おだやかにルナと会話することにした。
「クラウド、つまみ食いはエビ天にして。とりはサルーンにあげて。それで、フィッシュ&チップスは美味しかったって?」
「俺は、フィッシュ&チップスについては、ひとことも言及してない。食ってきたことは言ったけど――」
キッチンには、ルナとクラウドとサルーンだけだ。これは内密の話で、だれかがいる場合、クラウドは即座に話を切り上げるつもりだった。
「あたしもフィッシュ&チップス食べたい! ルシアンのは美味しいんでしょ?」
「マタドール・カフェでも出してる――たぶん、アレはそっちのほうが旨い。わかった。買ってくるよ――それで、ルナちゃん」
「イノセンスとは正反対なんです!」
「は?」
ルナのカオスはあっさり発足した。
「イノセンスの人たちは、イノセンスとは正反対なの! カザマさんたちのプランナーもそう。イノセンスの人たちは無邪気じゃないから無邪気なの。プランナーさんたちは計画が立てらんないからプランナーなの」
「ちょ、ちょっと待って? もう一回」
初めてクラウドが、もう一度を要求した。
「たぶん、クラウドもイノセンス側だから、わかんないかも」
「――えーっと」
たしかに、クラウドは分からなかった。さっぱり。
だが、カブラギが「ルナに会いたくない」という意味は、分かる気がした。なにを見透かされるか分からない、恐怖感があるのだろう。秘密を持っている人間ほどそうだ。
クラウドは、ルナとは長い付き合いだし、お互いに協力し合って来たから、いまさらという感はあるが、さすがに今回の台詞は、理解しがたかった。
そしてクラウドは、こんなときに限って、エーリヒのアドバイスを思い出すのである。
『ルナの言葉は、そのままそっくり聞きたまえ。すぐに意味が分からなくても、あとで、腑に落ちることがある――ああ、すべてではないがね。あと、ルナは卵に執着する』
最後のひとことはいらない情報だった。知ってる。なにせクラウドの記憶力は、完全に記憶してしまうのであるから――。
「そうだ! 今夜は冷凍ポテトがあるし、白身魚もある! フィッシュ&チップスをつくろう!!」
ルナはウサ耳をぴーん! と立たせた。
「え!? 俺、夕食もフィッシュ&チップス!?」
「タルタルソースもつくりますけど?」
「仕方ないな。手作りなら」
クラウドがえらそうに言ったあと、ミシェルが飛び込んできた。クラウドとの会話を聞いていたらしい。
「ルーナーっ!! 鮭! 鮭の約束は!?」
「じゃ、ミシェルの分は鮭のフライで」
「なら、許す」
ミシェルは厳かに言った。このカップルは最近似て来たと、ルナは思うのだった。
「エビ天が全滅してる――ウソ! マジで!?」
仕事から帰ってきたアンジェリカが、テーブルの大皿を見て絶望的な声を上げた。
「お昼、てんぷらうどんにしたの」
「コンビニなんかで済ませてないで、帰ってこればよかった……!」
アンジェリカは頭を抱えた。ルナは驚いて聞いた。
「だって、アンジェ、油物だいじょうぶ? 胸焼けとかない? つわりとか……」
「ない! いっさいない! エビのまえにつわりはない!」
「マグロにも?」
「うん!」
そうこうしているうちに「ただいま!」の元気な声。アニタとベッタラ、セシルが帰ってきたのだ。
ひとが集まってきてしまったので、クラウドは、これ以上話をつづけることはあきらめた。
「K33区どうだった?」
「豊作豊作!! いい記事が書けそう――K33区の市場で、持ち帰り総菜買って来たよ」
「うわ! おいしそう!」
アニタがテーブルに、春巻きやら肉まんじゅうやら、大きな鶏肉の蒸し焼きの包みを広げたので、アンジェリカもミシェルも歓声を上げた。
「これはアノールの料理です。野菜がたくさん詰め込まれています」
鳥の蒸し焼きの正体を、ベッタラが教えた。
「あ、あれ? サルビアさんは?」
アニタが見回したが、サルビアはいなかった。
「サルビアさんが好きそうなおかずも買って来たのに」
これ、腸詰肉だって、と葉っぱにくるまれた大量の小さいソーセージを指すアニタだったが、アンジェリカがニヤけながら言った。
「姉さん、グレンさんとデート」
「ホント!? やっぱあのふたりつきあってんの」
「いやあ~あたしもびっくりだわ。姉さん、むかしグレンさんと会ったら、即座に逃げまくってたんだよ? ふたりきりで食事に行けるなんて、進歩したわあ」
しみじみ言うアンジェリカだったが、アニタは大興奮だ。
「今夜はついに……!」
「今日はやっぱお持ち帰りかな!?」
「持ち帰ったらここに帰ってくるだけだよ。ここは、泊まりでしょ」
「……どうかな。それはまだ、さすがに早いんじゃ」
アニタとミシェルがはしゃいで言うのに、いつのまにかリサが参戦していた。アンジェリカは、「お泊まり」の言葉には、首を傾げた。
「どうして。グレンだったら、ぜったいホテル行きよ!」
「いやあ――無理無理。お泊まりは無理だって。姉さん、このあいだ、就寝前にグレンさんにキスされて、熱あげたんだ」
「「「マジ!?」」」
ルナも魚のパックを抱えて参戦していた――「熱って!?」
つい先日のことである。話題の映画がテレビで公開されたので、めずらしく全員そろって大広間で観賞し、いつも早く就寝するサルビアも、ずいぶん遅くまで階下にいた。
グレンの部屋のはす向かいが、アンジェリカとサルビアの部屋。みんなそろって階段を上がり――それぞれの部屋に入る間際、グレンはサルビアに「おやすみ」といって、額にキスをした。
たしかに、いままでなかったことだった。グレンはキチンとサルビアに距離を置いていたし、むやみに手を握ることもなければ、なれなれしく触ることもなかった――アンジェリカから見ても、あのキスは、わざとでも故意でもなく、ごく自然な流れだったと思っている。
だが。
「……おやすみなさいませ」
サルビアは、そのまま、笑顔で真後ろに倒れた。
「ねえさーん!?」
アンジェリカがあわてて後ろから支えたが、本気で目を回したサルビアに、グレンは衝撃的な顔をし――「悪かった」とだけ言って、ベッドまでサルビアを運んでくれた。
サルビアはそのまま発熱し、翌日の朝には下がったが、夜中にうなされたのである。
「姉さん、箱入りも箱入りだからね。鉄製の箱に入ってたからね」
アンジェリカが重々しく告げ、四人は言葉を失った。
「そう簡単に、口づけなどしてはなりません! そ、そそそそそういうのは、愛する女性と――手順を踏んだのちに!」
「ここにも同類がいたわー!!!」
顔を真っ赤にして叫んだベッタラに、女たちは悲鳴をあげた。セシルが横で苦笑している。
その悲鳴に重なるようにして、盛大な赤ん坊の声が、二人分、響いた。
「よおし、よし。腹減ったんだな、わかったわかった」
アズラエルが、ピエロとキラリを両腕に抱えてキッチンに入ってきた。
「なァおい、哺乳瓶三本分のミルク!」
『お待ちください、ただいま用意をします』
今日はルナと一緒にキッチンに立っていたヘレンが手を上げた。
「美味そうなモン並んでるな」
アズラエルが食卓に興味を示す。
「アーズラエルがはじめてK33に来たとき、これを食したはずです」
ベッタラが鳥のかたまりを皿にあげていると、シャイン・システムのランプが点いた。ニックのお出ましだった。
「お邪魔しま~す! おみやげだよ!」
「マグロ!!!」
アンジェリカが、ニックの持ってきた、ひと抱えもあるような寿司の大皿に、絶叫した。
「エビもマグロもある!」
「なに!? 今日、だれかの誕生日だったっけ?」
ニックがウィンクした。
「誕生日なら、ケーキがいるな――今日は“料亭まさな”が百周年記念なんだって。この一週間はいろいろサービスやってるんだ」
お寿司もいつもの半額! と、ニックは、十人前はありそうな寿司桶を、テーブルに置いた。アンジェリカは叫んだ。
「あたしもK05区行ってたのに、知らなかった!」
「ルナ、サーモンがあるから、今日はつくらなくていいよ」
「たまごといくら!!」
ルナも叫んだ。
「そういや、ツキヨばあちゃんたちは? 今夜は夕飯いっしょじゃねえのか」
アズラエルがピエロの口に哺乳瓶をぶち込み、もう片方の手で、キラリが飲むボトルを支えながら言った。
「ツキヨおばーちゃんは、エマルさんと、ルナのママと、あたしのママもいっしょに、アンさんのステージを見に行ったよ。今日は調子がいいからって、ビールでも一杯飲んでくるんだって」
キラが答えた。
玄関扉が開いて、たてつづけに入ってくる――セルゲイやロイドたちもつぎつぎ帰ってきて、最後に、アルベリッヒが帰ってきた。
「ただいま――あ、あれ? 今日は食卓が豪華……」
「アルが来てから、いつも豪華なのですよ」
ルナはそういって、彼の腕から買い物バッグを受け取った。すかさず、サルーンがアルベリッヒの肩に乗る。
「ただいまサルーン。今日は、なにもつくらなくてよさそうだな」
「アル、フィッシュ&チップスつくれる?」
「ふぃ、ヒッシュアンドちっぷす?」
「フィッシュ&チップス」
「それはどういうもの?」
「セルゲイさん、悪いけど、子どもたち呼んできてくれる? 部屋で宿題をしているはずなの」
「ああ、いいよ」
セシルが叫んで、コートを脱ぎながら、テーブルを見て口笛を吹いたセルゲイが、上に向かう。
今日は、シシーとテオは夕食には来られないようだ。定時になっても、彼らの来訪を知らせるシャイン・システムのランプはつかなかった。
ミンファも今日は、カザマといっしょらしい。
「うおーっ! 美味そう!」
「えー、今日お寿司なの。あ、でも、なんか見たことある肉がある!」
階段から駆け下りて来たピエトは、食卓を見てよだれを垂らさんばかりの顔になったが、ネイシャはすこしがっかり顔だった。だが、K33区の食べ物を見て、ニコニコ顔になる。
「ほら、ふたりとも手を洗ってらっしゃい!」
「はーい!!」
子どもたちも席につき、ふたりの大きな「いただきます」の声を皮切りに、にぎやかな夕食はスタートした。おとなたちの頭上を酒が行きかい、子どもとサルーンのコップには、ミネラル・ウォーターが注がれた。
「ねえ、さっきの話の続きなんだけど」
アニタは、春巻きにも似た惣菜と、ヘレンが揚げてくれたフィッシュフライとポテトを皿に盛りあげ、言った。
「セシルさん、来月号の表紙になってみない?」
今日、アニタはベッタラの案内で、K33区を取材してきたのだった。セシルも同行していた。明日もK33区を巡ってくるつもりだし、今日もたくさん写真を撮ってきたが、アニタはぜひ、来月号の表紙はセシルに飾ってもらいたかった。
「い、いや、あたしは……」
あわててセシルは首を振ったが、アニタは食い下がった。
「ひとりが嫌なら、ベッタラさんやネイシャちゃんといっしょでも――実は、セシルさんに着てほしい服があって」
そうなのだ。アニタには、ぜひセシルに着てほしい服があった。
アニタは、猛然とキッチンを出ていき、自室に駆けこんで、ふたたびキッチンへもどってきた。
彼女が手にしていたのは、民族衣装だった。紫が基調の、宝石がたくさん付いた、豪華絢爛なものだ。




