361話 フライヤの来訪と、いつも通りのルナ 1
アントニオは、ずいぶん筆跡の乱れた手紙を、何度も読み返した。
(サルーディーバ、さま……)
文面の意味を理解して、目頭が熱くなるより先に、サルーディーバが死んだという衝撃のほうが大きかった。
(まさか、ほんとうに)
連日のニュースは、革命家メルーヴァの死とユージィンの死しか放送していない。サルーディーバが死んだとなれば、それこそニュースは彼の死で埋められるはずだ。
だが、そんなことは、どのチャンネルも放送してはいない。
先日L03に連絡を取ったときは、武神の亡骸を葬ったことしか知らされなかった。
(ウソだろ)
――サルーディーバは死んだ。
ラグ・ヴァダの武神の亡骸を、葬るために。
その事実は、表向きには秘された。サルーディーバが死んだとなれば、王都もL03も、ますます大混乱となるからだ。
アントニオは立って、備え付けの電話に向かい――それから迷うように手を泳がせて、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしり、ソファに座った。
アントニオは、中央区役所の役員執務室の隣の会議室で、この手紙を読んでいた。手紙は速達だった。現在、居住者に配達されるべき荷物や通信は、中央役所に留め置かれている。
これは、L03の現職サルーディーバが、アントニオに宛てて書いた手紙だ。字も見慣れた彼のものだったし、アンスリーノはアントニオの正式な名。それを知っているのは、彼以外にはおらず、まさしくこれは、サルーディーバ直筆の手紙だ。
ラグ・ヴァダの武神との対決直前に、したためた手紙であった。
いつも静謐さしか感じさせない彼の字が、乱れに乱れ、ところどころ汚れている。血なのか、煤なのか、泥なのか。きっと彼の部屋で書かれたものではない。王都の戦いの苛烈を、アントニオにも思い知らせた。
(最後の最後で、太陽の火だけを倍加させたあの瞬間に、L03で、亡骸のかけらも燃えたって話だった)
すべてが終わって一週間ののちに、ようやくL03と連絡が取れて、その事実を知ることができたのだ。
報告は短かった。王都も混乱を極めていて、長話をする余裕はなかったのだ。
アントニオには、ほとんど記憶がないが、これだけはわかる。予定より早く、太陽の神が発動してしまった――L03で武神が復活し、暴れ出したことで、L05の神官たちは、宇宙船で行われる千転回帰を待たずして、太陽の神を召喚せねばならなくなった。
千年前、二千年前とは比べ物にならない、武神の反乱であった。
今度は封印などではない――あとかたもなく滅ぼされる。
そう悟り、追いつめられた武神は、力の限り暴れた。
王都は疫病と謎の黒煙とで、多数の死者が出た。黒煙が覆うところ、水は毒と化し、草木は枯れ、ひとびとは疫病でバタバタと倒れたという、アストロスよりひどい状況だった。
手紙にあったとおり、L03の犠牲は甚大なものだった。
イシュマールもアントニオも、ペリドットも、思わず絶句するほどの惨状だった。
千五百名を超える神官たちは――ラグ・ヴァダの武神の亡骸のカケラと、相討ちした。
L05の大僧正を含め、僧たちは全滅――文字通り、全滅だった。
L03の神官たちもほとんど倒れた。
生きていたのは、サルーディーバとともに武神の亡骸にとどめを刺したパウルのみ。
アントニオは、一瞬だれか分からなかったが、それが「九庵」だと気づいたところで、顔を覆った。
彼がL05に向かってくれたことへの感謝のためにだ。
おそらく彼がいなかったら、もっと犠牲者が出ていたかもしれない。
――いや、亡骸を、完全に滅ぼせたかどうか。
「なぜ、夜の神と月の女神の神官の力を借りなかった!!」
激怒したイシュマールの声が、半壊状態の真砂名神社に響いたが、すべては遅かった。
夜の神の神殿の神官アイゼンと、月の女神の神殿のマホロは、L03に入れなかったのだ。
L05の神官たちが王都トロヌスに到着したとたんにうごめきだした武神のカケラは、想像を絶する戦いを、彼らに強いた。
L05の神官たちに遅れ、L03入りしようとしていたアイゼンたちは、L09で足止めされた。そして、L03で尋常ならざる事態が起きたと知った――それが五日目。
彼が、もどってこないサルーディーバ専用機に見切りをつけ、私用機である宇宙船で、中継地L05に渡ったのが六日目。
そこで知ったのは、ふたりにも予想外の事態だった。
L03では武神が暴れ出し、どの宇宙船も向かえないと言われた。
アストロスと同じ状態だった。マクハラン少将の宇宙船が、武神の黒もやによって爆破され、海に沈んだように、L03でも同じことが起きたので、危険だと判断されたのだ。
王都も、黒雲と疫病で、もはやだれも入れない状況であると。
だが、アイゼンは怯むことのない男である。マホロをL05に待機させ――彼女は、ずっと祈祷をつづけていた――「俺が守るから、宇宙船を出せ」と言い張ったが、怯えた操縦者たちが出さなかった。
今回ばかりは、タツキもアイゼンを行かせなかった。
しかたなく、L05で祈祷に入ろうとした時点で、決着がついたという報告がもたらされた。
彼らがようやく王都に着いたのは、九日目。
――すべては、終わっていた。
死者であふれた王都を、アイゼンとマホロが清めている。戦いで命尽きた神官たちの魂を天へ送るために。
死者の導きをする夜の神と月の神は、まさしく、このためだけに呼ばれたようなものだった。
王都トロヌスは、けがれた地として恐れられ、原住民が寄り付かなくなったことだけは幸いだった。この混乱に乗じて攻め込まれては、一巻の終わりだった。
(サルーディーバが死んだなんて)
千五百人を超える、選ばれたL05の僧が倒れ、L03の神官たちも没し、ついにサルーディーバ自らが、ラグ・ヴァダの武神を、その身と引き換えに滅ぼした。
彼の死を隠した理由も分かる。L03の象徴となるサルーディーバが死んだことが知れ渡ったら、L03は大混乱だ。
あとを継ぐサルーディーバの存在も、L03にないのだ。次期サルーディーバであった彼女もまた、地球行き宇宙船を守り、力を使い尽くした。
アントニオは、まだ、真実をたしかめることはできなかった。聞くとしたら、ユハラムか、メメか。王宮に残り、サルディオーネたちの代わりに表向きを取り仕切っているのは彼らだろう。
五度目に読み返したとき、アントニオはようやく、動揺も入り混じったぐちゃぐちゃな考えを整理し、落ち着くことができた。サルーディーバが死んだという事実以外のことが、目に入ってきた。
目頭が、熱くなった。
サルーディーバは、アンジェリカと、彼女の姉のサルーディーバの心配ばかりしている。
彼は、アンジェリカの腹に、アントニオの子が宿ったことを知っていた。
(ご心配には及びませんよ――真砂名の神は、サルちゃんを見捨てたりなんかしていない)
アントニオは、今ここに亡きサルーディーバがいたなら、安心させてやりたかった。
彼女は、ほんとうに愛する人の子を産み、地球でおだやかに暮らすだろう。
(サルちゃんの新しい名前は、サルビアって言うんですよ)
彼女が愛した男が、つけてくれた名だ。
アントニオはひとり、中央区役所の会議室で冥福を祈った。
手紙には、アンジェリカと彼女の姉にだけ、とあったが、サルビアに現職サルーディーバの死を告げる気はなかった。この手紙は、アンジェリカにだけ見せるつもりだ。
アントニオの携帯電話が鳴った。
自分から電話をする前に、あちらからくれたようだ。
「はい」
『アントニオさまですか――ユハラムです』
「ユハラムさん」
アントニオは、一瞬、言葉を詰まらせた。
『お手紙は読んでいただけましたか』
「ええ。今朝、こちらへ着いたんです」
『そうでしたか……』
ユハラムは息をつめ、ひとつ深呼吸をした。
『その手紙の内容はほんとうです。私がお送りしたのです』
手紙を託されたのは、ユハラムだったか。
『どうか、秘匿してください。話すのは、アンジェリカとサルーディーバ様だけに――ですが、私の気持ちでは、サルーディーバ様にはお話しせず、メリッサとアンジェリカさまに留めておいたほうがいいと思います』
「俺もそう思いました」
アントニオは、メリッサとアンジェリカ、ふたりだけに告げるつもりだった。本来なら、アンジェリカにも告げたくはない。だが、そうするよりほかなかった。なぜなら、ZOOの支配者であるペリドットとアンジェリカは、だまっていても、ZOOカードでそれを知ってしまうからだ。
『よかった。では、そうなさってください。……サルーディーバ様は、ラグ・ヴァダの武神のカケラと、ともに逝かれました。骨ひとつ残さず――炎上された。見事な、ご最期であったと――』
ユハラムは、声を詰まらせながら、サルーディーバの最期を語った。
アンジェリカは、エリアE002で、E353行きの宇宙船を待っていた。
人混みのロビーで、行き交う人々を眺めていた。
アンジェリカのように、アストロスからL系惑星群に向かう人間はごく少数だ。アストロスから他星に避難していた者たちがもどりはじめているのか、アンジェリカたちと反対側の通路はたいそうな混み具合だった。
メリッサは、携帯電話が鳴ったので、ひとが少ない場所へ移動した。うるさくて電話の声が聞き取れないのだ。
ひとり待合室に残されたアンジェリカは、混みあう通路を眺めながらぼやいた。
「……ルナとミシェルに、挨拶ぐらい、してくればよかったかな」
アンジェリカは、だれにも告げずに発ったのだった。理由は単純だ。大げさに見送られるのは嫌だった。それに、ルナとミシェルはこの先もつきあいは続く。
通信だけになってしまうだろうが、ルナにZOOカードを教えるのはアンジェリカの役目だし、ずっと会えないわけではない。
「……」
メルーヴァの死は、尾を引いている。正直、妊娠が分かったことも素直に喜べない。だが、気分が落ち着くまでと、宇宙船に残ることもできなかった。
生涯、サルーディーバに仕えると誓ったゆえに授けられた「ZOOカード」の占術。
姉がサルーディーバでなくなった今、現職サルーディーバのもとへもどるしかなく、アンジェリカは、いつZOOカードがつかえなくなってしまうかと、戦々恐々としていた。
しかし、彼女が鬼気迫る思いで膝に抱えた化粧箱は、まだ紫色の光を宿している。
「もうすこし状況が落ち着いてから発て」といったペリドットの言葉も、「もう少し待ってよ――せめて、あと一ヶ月」と泣きそうな顔で言ったアントニオも振り切って出てきてしまった。
アンジェリカだって、降りたくて降りるわけではない。
けれども、降りなくてはならないのだ。ZOOカードのために。
心の中は、不安と心配でいっぱいだ。
たったひとりで、子どもを産んで育てていけるのか。
もちろん、あちらにはユハラムもいるけれども、無事にL03にたどり着けるかさえも定かではない。
L03でラグ・ヴァダの武神の亡骸は滅びたという話だが、王都は惨憺たる状況だと聞いた。
数ヶ月、宇宙船を乗り継いで旅して――L03に着くころは、臨月近い。
場合によっては、L05の両親のもとで産んだ方がいいとメリッサは言ったが、とにかくアンジェリカには、「ZOOカード」の存在が第一だ。
どんな状況下であれ、サルーディーバのそばにいなくてはならない。
それに、グレンにサルーディーバを託してきたけれども、あの姉がグレンに「いっしょに暮らそう」といわれて、素直にうなずくわけがない。そのあたりを、ちゃんとルナやミシェルにお願いしておくべきだったと思ったし、万が一、それを断ったところで、サルーディーバがひとりで暮らすのはまだまだ無理だった。
アンジェリカと同じく、サルーディーバも、メルーヴァやシェハたちの死を悼み、その悲しみは尾を引いている。
そのサルーディーバを、ルナたちとの同居――ルナだけならいい。グレンもいる屋敷のルーム・シェアに持っていくのは、かなり大変な作業であることは、アンジェリカも分かっていた。
(冷静にいって、姉さんは、めんどくさい女の極致だと思う)
いくらグレンでも、匙を投げるのではないか。アンジェリカは考えていた。あの姉とルーム・シェアするのは難しい。世間知らずの極致と言っていい――一般人とは感覚がズレているし、掃除しかできないあの姉と。
「だいじょうぶかなあ……まあ、姉さんが屋敷で暮らせなくても、アントニオもミヒャエルもいるけど」
アンジェリカの取り越し苦労を、ルナたち屋敷のメンバーが聞いたなら、即座に否定しただろう。とにかく、あの屋敷はカオス屋敷なのだ。いまさらサルーディーバひとり加わったところで、たいした事態ではない。
「……やっぱり、姉さんがルナたちのお屋敷に入るのを見届けてから、発つべきだったかなあ……」
地球行き宇宙船の街並みは、まだもと通りにはなっていない。やっと、出入りは自由になったが、ルナたちの屋敷は、地球行き宇宙船の出航ギリギリにならないと、完成しない。ララがそう言っていた。
「そんなに待てないよ……」
アンジェリカは顔を覆った。帰り道だけでも数ヶ月。そのあいだ、いつ、サルーディーバから離れていることによって、ZOOカードがなくなってしまうか。
それだけが気がかりでならなかった。
「それに――」
さみしいな、という言葉を、アンジェリカはいっしょうけんめい飲み込んだ。
ルナとミシェルとも、連絡は取りあえる。取り合えるけれど――。
ルナと行きたいお店があった。ミシェルといっしょに、春の川原で絵を描いてみたかった。また、ルナのお弁当が食べたかった。バーベキュー・パーティーに参加したかった。アストロスにいるあいだ、カフェでお茶くらいしてくればよかったかもしれない。
ルナがサルディオーネになるのを、そばで見届けたかった。ミシェルとクラウドの結婚式に出たかった。ルナとアズラエルの――。
(地球に、行きたかった、なあ……)
ルナとミシェルと、“地球の涙”を見たかった。
アンジェリカは、猛然と、未練を振り切るように首を振った。
「なにバカなこと考えてんの! あたしは!」
これから、L03を、サルーディーバを、なんとかして支えていかなければならない。アンジェリカの肩には、メルーヴァやシェハザール、そしてツァオたち――ラグ・ヴァダの武神との戦いがなかったなら、近代化に力を尽くしていたはずの仲間たちの思いが懸かっているのだ。
「そんなことばっかり、考えてる場合じゃ、」
アンジェリカがひとりで騒いでいると、メリッサが息を切らせながらもどってきた。
「アンジェリカさま!」
「どうしたの?」
メリッサは、まさに血相を変えていた。
「地球行き宇宙船にもどりましょう――いいえ、もどれとの、アントニオさまのご命令です」
「命令?」
アンジェリカの顔色から血の気が引いた。
「姉さんに、なにかあった?」
メリッサは、アンジェリカが妊娠していることを思い出した。
「ああ――いいえ、違います」
ようやく自分の気を鎮めた。
「悪い連絡ではないんです、むしろ、――いい連絡ですよ」
そして、彼女の隣に座って、肩を撫でさすって安心させた。
「サルーディーバさま、いいえ、サルビアさまのことではありません。アンジェリカさまは、アントニオさまから直接お聞きして。とにかく、あなたは、L03にもどらなくて良くなったのです」
「え?」
「これだけは言えます。あなたがL03にもどらなくても、ZOOカードはなくなりません」
アンジェリカは、目を見開いた。
「どういうこと――?」




