357話 逢瀬の霧 4
「サルーディーバ様、アンジェリカ様!」
「メリッサ!」
メリッサが、一行の姿を見つけて駆け寄ってきた。
「船はどれもオダブツだな」
ペリドットが呆れ声で言い、「クルーザーでも持ってくるべきでしたね」とシグルスの舌打ち。
引き返して、クルーザーを持ってくるか、アクルックス方面に向かうか――急がねば、せっかくの「霧」が晴れてしまう。
選択を迫られていた彼らのまえに現れたのは。
「クルクスへは、わたしたちがご案内します」
天使たちが、胸に手を当ててお辞儀をし、あいさつをした。
「あなたたちは――!」
「サルーディーバさま、お会いできて、光栄でございます」
三人の天使は、サルーディーバの手を取り、口づけをし、ペリドットにも挨拶をした。
「ラグ・ヴァダの女王さまの末裔であらせられる御方に、サルディオーネ様、こんなところでお会いできるとは思いませんでした」
テッサが代表して言った。
「まだくわしくは聞いていないが、今回のいくさでは大活躍だったそうだな」
ペリドットが親しげにテッサの肩を叩くと、彼はにっこりと笑った。
「まずは――メルーヴァ姫様がお待ちです。急ぎましょう」
「ルナが?」
「はい」
アンジェリカの問いに、テッサはうなずいた。
サルーディーバとアンジェリカをテッサが。ペリドットとシグルスをフィロストラトが。メリッサと運転手を抱えようとしたマルコには、運転手が怖気づいて、「わ、わたしはここで待っています!」と遠慮したので、マルコはメリッサひとりを連れて羽ばたいた。
彼らがクルクスの門前まで着くのは、すぐだった。
アンジェリカもサルーディーバも、ふた柱の武神像を見上げ――それからすぐに気付いた。
門の向こうにいる、存在に。
「――ルナ」
「アンジェ」
ルナはずっと、膝に乗せた人間の頭を撫で続けていた。いたわるように。
慈しむように。
ルナは立ち上がろうとしたが、無理だった。長い間座り続けていたせいで、足が固まって動けなかった。そっとメルーヴァの頭を地面に置いて、アンジェリカがこちらへ来るのを待った。
動けないルナ本体は、アズラエルが、ひょいとウサギの子でも抱きかかえるように持ち上げた。
――アンジェリカも、サルーディーバも、ようやく、悟った。
この霧の意味を。
そして、ルナが膝に抱いていた人物が、何者なのかも。
「メルーヴァ!!!」
アンジェリカの叫び。
彼女は、小さな身体を目いっぱい伸ばし、駆けた。そして、飛びついた。
つめたくなった、婚約者に。
――かつての、幼馴染みに。
「メルーヴァ……メルーヴァ」
アンジェリカは、かつて抱え込めるほど小さかったメルーヴァが、こんなにも大きくなっていたことに驚いた。頭しか、抱え込めない。
メルーヴァは、シェハザールのように、大きく凛々しい、おとなの男になっていた。
最後に会ったのはいつだったのか、アンジェリカにももう思い出せない。
アンジェリカの記憶にあるのは、自分と背も体格も変わらない、小さな少年だった。
(メルーヴァ)
顔は、眠っているように安らかだ。
左頬に一直線に走ったキズと、ボサボサの白髪が、メルーヴァのここまでの道程をアンジェリカに思い知らせた。
アンジェリカはそっと、メルーヴァの唇にキスをした。
昔、飛び上がって喜んだ彼。
だれもが醜いと言ってはばからなかった自分とのキスを、天に舞い上がるかのように喜んだメルーヴァ。
唇が触れるようなキスを、たった一度だけ。
――唇は冷たかった。
だけれども、彼は少し、微笑んでいる気がした。
錯覚でもいい。
見たときから、メルーヴァの顔は安らかだった。
それだけで、よかった。
「おかえり、メルーヴァ」
アンジェリカは、やっと、言えた。
「メルーヴァ……」
サルーディーバが、アンジェリカごとメルーヴァを抱きしめて、泣いていた。
「よく――がんばりましたね。よく――ここまで」
先は、言葉にならなかった。
そのまま、アンジェリカは、メルーヴァの胸に顔を埋めて号泣した。迸るように彼女は泣いた。ルナも泣いた。
アンジェリカの慟哭を、白い霧が包んでいく。
白い世界に、ふたりの――いや、三人の小さなすすり泣きと、泣き叫ぶ声がつづいた。
天使やペリドットたちが見守る中、霧は晴れていく。
サルーディーバもアンジェリカも、メルーヴァから離れようとはしなかった。だが、逢瀬の時間は永遠ではなかった。
ずいぶん――ずいぶん長い時間が経ったようにも思えたし、十分ほどしか経っていない気がした。
ルナは、視界にL20の軍人が立っているのをとらえた。
けっこう大柄な女性だ。黒髪をまとめ、眼鏡をかけている。おとなしそうな顔をしているが、きっと意志は強いひとだ。部下を連れている。
でも、持つ雰囲気は、軍人という厳めしさとは対照的だった。
ルナはどこかで、この女性を見たことがあると思った。
「L20陸軍――メルーヴァ、いいえ、“ラグ・ヴァダの武神”討伐隊総司令官、フライヤ・G・メルフェスカです」
彼女は言い直した。だれもが驚いた。
彼女の言葉から、敵視されているのがメルーヴァではなく、ラグ・ヴァダの武神だとわかったからである。
「革命家メルーヴァの身柄を、お預かりします」
「いや、やだ――メルーヴァ! メルーヴァ!!」
アンジェリカは泣きすがったが、メルーヴァは担架に乗せられ、シートを被せられて運ばれていく。
「アンジェ」
サルーディーバも泣きながら、アンジェリカを引き留めた。だがフライヤは、ふたりに向かって思いもかけないことを言った。
「メルーヴァの遺体は、礼を持って埋葬したいと思います。わたしの意見が通るか分かりませんが――できるかぎりのことは」
フライヤの言葉に、ルナも目を見張った。
「ご同行なさいますか?」
フライヤは、サルーディーバとアンジェリカに聞いた。なんと、このL20の総司令官は、メルーヴァとの別れの時間をつくってくれると言っている。
全世界指名手配の革命家だ。遺体すら、どんなあつかいをされるか分かったものではなかったのに。
メルーヴァが運び込まれていくジープの荷台に、サルーディーバとアンジェリカも乗った。メリッサもだ。
「ルナ」
アンジェリカが、ジープに乗る前に、涙まみれの顔を上げて微笑んだ。
「ありがとう……」
ルナは、それを見送った。
フライヤは、なにか言いたげにルナのほうを見ていた。彼女は、先ほどまでの毅然とした態度がウソのように戸惑った様子を示し、やがて、ルナに声をかけようとして――だれかに呼ばれて行ってしまった。
フライヤは、ルナを二度振り返り、会釈をし、あわててバスコーレン大佐というひとのほうへ向かった。
霧は、すっかり晴れた。
L20のジープが、広い道路を、クルクスの奥向かって何台も走っていく。
ルナは、役目を終えたことを悟った。
足がフラフラしたが、ようやくしびれも失せて立てるようになった。
「行けそうか?」
「うん」
涙を拭き、パンパン、とスカートのすそを叩き、城にもどろうと顔を上げたときだった。
「おまえ、すごいアホ面してるぞ」
ルナは、ずっと泣くのを我慢して、変な顔をしていたのだが、ついに限界を迎えた。
ルナのほっぺたは最大限に膨らみ、それから――しぼみ、くしゃくしゃに歪んだ。
「あじゅ!」
ルナが、アズラエルに飛びついた。アズラエルはしっかりと受け止めた。
“逢瀬の霧”は、メルーヴァ姫とアスラーエルが出会える日だった。
ほんとうだったと、ルナは思った。
でも、この逢瀬は、最後ではない。
もう、二度と離れないのだ。
メルーヴァ姫とアスラーエルは、霧が晴れた今、そう誓うのだ。
今日からは、きっと“誓いの霧”になる。
「あじゅ、あじゅ、あじゅ――」
肘に、ウサギのいたずらがきをしてごめんね。
ルナは号泣しながら謝った。昨夜は謝れなかった。そんな雰囲気ではなかった。
鼻水と涙まみれの顔を拭いてやりながら、アズラエルは笑った。
「なんでもねえさ」
「足の小指に、ライオンかいて、ごめんね」
「まだ許せるな」
「かかとに、トラさんを描いて――」
「てめえ、いくつラクガキしてんだ!!」
「ぴぎっ!」
さすがにアズラエルは怒り、ルナは襟首を捕まえられたウサギになったが――。
「アズ、あたしとつきあってくだしゃい!!!!!」
顔中大洪水、涙と鼻水まみれのルナは叫んだ。
「「いまさら!?」」
背後がなんだかやかましかった。
アズラエルの目が、見たこともないほど、驚きに見開かれた。そして、すぐに呆れた顔に。
「どうすっかな――……」
「あじゅ!?」
「さんざん、つきあってねえって言われ続けたからな……」
「だからあたしがいうんでしゅ!! ちゅきあって!!」
「やれやれ……なんつう逢瀬だよ」
姫と騎士の逢瀬にしちゃ、あまりに色っぽくねえ。
呆れ声のグレンに、「ほんとそうだね」と大魔王の声が重なったので、グレンは飛び上がった。
「セルゲイ! おまえ、どこから出てきた」
「起きたら、ジュエルス海にぷっかり浮いてた俺の気持ちなんて、だれにもわからないよ」
セルゲイは、全身びしょぬれだった。ラグ・ヴァダの武神にとどめを刺した、夜の神の最終形態がそれである。
「気の毒に……」
すくなくともグレンは、海に浮かんでいるなどということはなかった。
「セルゲイ! グレン!!」
アズラエルに抱えられていたウサギが、ようやく気付いてくれた。
「よお、ハニー。弟神と密会しようぜ」
「ここは、月の女神と夜の神の逢瀬も必要だろ」
今回ばかりは、セルゲイも譲らなかった。なぜならふたりもがんばったのだ。ここはお姫様からの祝福が必要だった。
アズラエルは唸った。
「俺に譲るんじゃなかったのか」
「おまえ、返事をためらってたじゃねえか」
「そうだよ。ルナちゃんの恋人候補はいくらでもいるんだから、もったいぶらないことだね」
セルゲイは、黒いシャツを脱ぎ捨てて、絞りながら言った。
「みんな、がんばったのです! それからあたしも、がんばったのです!!」
ルナの宣告に、セルゲイとグレンは、かわるがわるウサギの髪の毛にキスをした。便乗して天使たちも、「メルーヴァ姫」さまに祝福しようとするのを、アズラエルは威厳を持って止めなければならなかった。
ペリドットとシグルスが、苦笑気味にその様子を見ているのに気付いたルナが、今度はふたりに飛びつくまで――あと、数秒。




