357話 逢瀬の霧 2
そのクラウドは、エーリヒとともにしばらく対局席に座っていた。すでに、どの画面も消え、ブラックライトだけが控えめに、クラウドとエーリヒの足元を照らしていた。
「……生きてるね」
「すくなくとも、死んではいないと思うが――ほかの人間に会うまでは信用しかねる」
「俺たちは、お化けだって?」
クラウドの苦笑に、エーリヒは肩をすくめることで返した。
「……みんな、だいじょうぶかな」
「犠牲者は少ないほうがいい」
ふたりは、真っ暗な天井を仰いだ。
「喉が渇いたな」
「そうだね。できれば、マタドール・カフェのミルク・セーキか、ショコラを」
「このボロボロのときに、そんなクドそうなものを?」
「ならば、ストロベリー・ソーダ」
「それなら賛成」
ふたりは、イアリアスのアトラクションから、ようやく出た。クラウドが放出した水は、あまり意味をなしていなかった。彼は水源の蛇口を止め、ゆっくり歩きだした。
火はない。だが、どこもかしこも炭になっていた。廃墟らしかった遊園地は、今度こそ、完全に廃墟になっていた。
ラグ・ヴァダの武神との決戦が終わった今、この遊園地の役目は終わった。ついに新しく建て直される日が来るのかもしれない。
今後を考えるより先に、この乾いた喉を潤すほうが先だった。
「りんごの建物に冷蔵庫があったと思ったけど――」
「いや、クラウド」
エーリヒが、上空を見上げていた。白い外装に、金色の派手な龍の模様がついたヘリコプター。ララの私用機に違いなかった。
「救助が来た」
「ナキジン!」
「しっかりせえ、ナキジーン!」
さすがに百年分も寿命を与えたナキジンは、もはや寿命が尽きたかに思われたが、元気そのものの二百六十歳は、いきなり起き上がった。
「おお! びっくらこいた」
彼は、無傷のハゲ頭をつるりと撫でまわした。
「百年分も寿命塔にやっちまう夢を見たわい」
「「「「現実や!」じゃ」だよ!!」」」」
周りにいた全員が、もれなく突っ込んだ。
「だ、だいじょうぶなんか。ナキジン!」
「おう? ヘーキじゃ」
ナキジンは、たしかにピンピンしていた。それ以上年を取った気配も、若返った気配もない。
「あんたに、百年以上も寿命が残ってたってことが驚きだよ」
バグムントも呆れ声で言った。
商店街の惨状は、すさまじかった。階下から見る限りでは、真砂名神社も半分が焼け焦げていた。
「ミシェルちゃんがいないわ」
ヴィアンカが気づいて慌てたが、カンタロウが「心配いらん」と言った。
真砂名神社の拝殿では、仰向けに倒れて意識を失っているアントニオを、キスケたちが助け起こしたところだった。
「みんなあーっ! 無事か!」
拝殿から、オニチヨの大声が聞こえた。ついで、フサノスケに背負われたイシュマールの姿が。
「だいじょうぶじゃー!!」
だれよりも元気なナキジンの声が大路に響いた。そこへ、ララの救助ヘリが、盛大な音を立てて着地した。
「ご無事ですか――船内に残っていた方々は、全員ここに集まっておられると聞きましたが」
「ええ。間違いないわ」
ヴィアンカが言った。
「ケガ人の救助を優先に――急げ!」
救急隊員は、すぐさま階段の側面を上がっていく。
大路の入り口の鳥居に、黒いリムジンが横付けされた。
そこから降りてきた黒服の男たちの姿に、ヴィアンカの顔が強張った。
全員が、黒いスーツに革靴、フロックコート。特徴のないシンプルな黒いサングラスをかけ、黒いホンブルグ・ハットをかぶっている。背格好もほぼ同じで、まるで見分けのつかない五人の男が、まっすぐにこちらへやってくる。
「――“イノセンス”が、どうしてここへ」
ミシェルも、目を覚ました。身体が揺れている。倒れていたミシェルを、心配そうに覗き込んでいたのは、どこかで見たことのある――しかし、会ったことがない少女だった。
「――!!」
ミシェルは飛び起きた。ミシェルが乗っているのは、荷台の上だ。これは馬車だろうか。そりの荷台? 空を飛んでいる――。
馬を駆っているのは。
「セプテンおじーちゃん……」
ミシェルは、眼下に広がる海を見て、叫んだ。
「え? ここどこ? あたしなにしてた?」
あちこちを見渡し――「どうなったの?」と、めのまえの、少女に聞いた。
「ここは、アストロス」
「え?」
「ぜんぶ、終わったのよ――グングニルの槍で、ラグ・ヴァダの武神は滅びたわ。完全に」
ミシェルは、少女とともに、彼方にある山岳を見つめた。そこには、山岳だった空間があった。山岳は欠けていた。長く連なる山脈の端が、削られたようになくなっている。
「……」
ミシェルの記憶は、千転回帰でアントニオが爆発を起こしたときから止まっていた。
セプテンおじいさんは、後ろを振り返って微笑んだ。
ミシェルは、いっしょにそりに乗っていた黒髪の女の子を見つめた。とてつもなく綺麗な女の子だった。彼女も目を潤ませて、ミシェルを見つめていた。
「あの――」
「私、マリアンヌよ」
彼女の目から、ついに涙がこぼれた。
「覚えているわ。あなたが、私のお墓に、クラウドと来てくれたこと」
ミシェルは、目を見張った。
マリアンヌの身体が、虹色に輝きながら消えようとしている。ミシェルは慌てて、彼女の手を取った。
「私、もう行かなくちゃ」
マリアンヌは言った。そろそろ、シェハザールたちを迎えに行かなければならない。彼らは今、アストロスを彷徨い歩いていることだろう。メルーヴァを捜して。
「あた、あたしね、あなたと、はじめて会った気がしないの!」
ミシェルは叫んだ。本当の気持ちだった。ずっとずっと、ZOOカードの世界で会っていた。ラグ・ヴァダの武神との決戦まで、ずっといっしょにがんばってきた仲間だと、ミシェルはそう思っていた。
消えゆくマリアンヌを目の前にして、たくさんの言葉は言えなかったけれども、それだけは伝えたかった。
マリアンヌは、嬉しそうに微笑んだ。
彼女はみるみる、消えていく。光となって。
『今度出会うときには――』
「うん――」
いっしょにしたいことが、山ほどあるの。
私も、ルナやあなたや、アンジェたちと一緒にお茶をしたかった。リリザの遊園地で遊んだり、女の子の話をしたかった。
彼女は、そう言おうとしたのだと思う。
ミシェルには、半分しか聞こえなかったけれども。
ルナは、クルクスの入り口で、待っていた。
さっきまでは、メルーヴァを。
今は――アンジェリカを。
霧がますます深まってくる。
それは、ルナが願ったことだった。
黙っていれば、すぐにL20の軍隊がメルーヴァを捜しに来てしまう。メルーヴァは、L系惑星群の指名手配犯の革命家なのだ。たとえ死んでいても、すぐに連れて行ってしまうだろう。
ルナは、少しの時間だけでも、アンジェリカとメルーヴァを会わせたかった。
L20の軍隊にメルーヴァが連れて行かれてしまっては、それもできない。
「うんしょ」
ルナとアズラエルは、メルーヴァを静かに横たえた。
メルーヴァは、重かった。抜け殻になってしまったはずの身体は、想像以上に。
彼の目は閉じられている。ルナはそっと、彼の頭を膝に乗せて、座り込んだ。アズラエルがルナの肩に、自分が着ていたガウンをさらにかけてやった。
(アンジェ)
ルナは、なにも見えない霧の向こうに、呼びかけた。
(早く来て)




