357話 逢瀬の霧 1
だれも口を利かなかった。
アストロスの兄弟神が現れて、ラグ・ヴァダの武神と戦いだしたときは、声を上げて応援していたと思う――だが、イアリアスの勝負が始まるなり息をつめて観戦し――エマルの駒の焔が最大火勢に燃え上がり、敵方のフィルズの駒を打ち倒した、そのとき。
もう一度、歓声が上がった。
バンビもジェイクやルシヤらと――ヨドやレイーダともハイタッチをし、皆と勝利の喜びを分かち合った。
そのあと、閃光がエタカ・リーナ山岳を貫き、氷河の崩壊を見、ラグ・ヴァダの武神の首が飛ばされるまで――だれも、ひとことも発しなかった。
ほとんど一瞬のことだったように思う。
そして、すぐに濃い霧があたりを覆い始めたかと思うと、映像は切れた。
「えっ!?」
ルシヤが、島の子らと観戦盤に駆け寄ったが、揺らそうが叩こうが、もうプロジェクターは映像を映し出さなかった。
「もう、終わったのよ」
我知らず、バンビはそう言って、子どもらの肩に手を置いた。
「戦いは終わったの」
観戦盤も、役目を終えた。
「どっちが勝った!?」
ルシヤの叫びに、「そりゃもちろん、アズラエルたちのほう」
バンビはL系惑星群の共通語でしゃべったはずなのに、なぜか島の人たちは湧いた。
今まで一番の大歓声だった。
ふとバンビが窓の外を見ると、島を覆いつくしていた雨の壁は消えていた。まだ曇り空だが、もう少しすれば晴れるかもしれない。
自分で言っていてなんだか――現実味が湧かなかった。
ほんとうに、終わったのか。
自分の役目は、終わったのか。
みんなの喜びようを見ていると、目頭は熱くなってくるけれど、バンビはまだ呆然としていた。
あのとき、「回顧録」を送ってよかった。エーリヒ宛てではなくちこたんにしたのはなぜだったのか、いまだにバンビ自身にもわからない。だがきっと、エーリヒには届いた。
イアリアスの試合中に起こったキャスリング。あれを見て、バンビは届いていたと確信した。
「終わりましたね」
ひとり廊下に出ていたバンビの背に、声をかけた者があった。スペツヘムだった。
「一時期は、どうなることかと思いましたが……」
スペツヘムの目は濡れていた。それで、バンビは察した。どうして気づいてあげられなかったのだろう。
彼は、アストロス軍の総司令官だった人間だ。使命があってセパイローの遺跡に詣で、死を覚悟して任務に挑んだけれど、ずっと気がかりだったに違いないのだ。アストロス軍のことを。
家族はとっくにジュセ大陸に避難しているとは言ったが、一度はこのジャマル島もシャトランジの膜内に入ってしまった。もしかしたらジュセ大陸まで広がっていたかもしれない。そうなったら、彼の家族だけでない――もっと多くの民間人に悲劇が訪れていたはずだ。
最終的にL20の駐屯地に集合したアストロス軍も、おそらくあの不思議なペガサスに守られた。そのことで、どれだけスペツヘムも救われたことだろう。
「ほんとうね……ほんとうによかった……」
バンビもようやく零れてきた涙をぬぐい、スペツヘムの肩に手を置いた。
ふたりで、晴れてきた外の光景を眺めた。
「――ふひ」
ルナは、目覚めた。
夢は、見なかった。
夢みたいな現実は、確かにあったが――。
ほんのちょっと、寝ただろうか。からだは気怠かったけれど、目はさえていた。
横を見ると、アズラエルが眠っていた。
ここはどこだろう。
アズラエルと再会してから、この部屋に入るまでの記憶がない。
枕もとの時計を見ても、あれからどれだけたったのかわからなかった。
ひと晩は、過ぎたのだろうか。
ルナは、客用のバスローブと柔らかい生地のガウンを羽織って、ベッドを降りた。
クルクスの入り口付近は、観光案内所と宿泊施設が立ち並んでいて、この緊急事態に備えて、だれでもすぐに入って利用できるように、解放されていたことをルナは思い出した。たしか、ここを車で通ったときに、ザボンに説明してもらった。
ここは、小奇麗なホテルの一室だ。
(すいません。勝手に利用してしまいました……)
ルナはひとりで真っ赤になってうつむいた。
まさか、メルーヴァ姫とアスラーエル将軍の逢瀬につかわれてしまうとは……。
でも、“逢瀬を果たした”のは、ルナとアズラエルだ。
「ふひ……」
ルナはにっこりと笑い、それから、ポロリと涙をこぼした。
部屋の外は、まだ濃い霧で真っ白だ。道路すら見えない。
ルナは、眠っている“恋人”の顔を見つめて、涙をこぼした。
サルーディーバは、目覚めた。
彼女の永久の眠りを妨げたのは、焦げ臭い匂いではなく、やたらやかましいヘリコプターの音でもなく、炭となった真月神社の肌守りだった。
サルーディーバは重すぎる腕を起こし、指先で、真っ黒な炭となったそれに触れた。着地したヘリコプターからの風圧が、彼女の命の恩人を、彼方に吹き浚っていく。
(生きている)
サルーディーバは、あちこち痛む身体に目を配ることもできず、仰向けに寝そべったまま、空を見上げた。
(わたくしは、生きているのか)
地球行き宇宙船も無事だ。なぜなら、気象部が写しだす人工の青空が眼前に広がっているからだ。
(なんて身体が重いのだろう)
神秘なる力が完全に失われていた。サルーディーバは、腕の筋肉をつかってしか、体を起こすことができなくなっていた。今はそれすらもできそうにない。
「サルーディーバ様! ご無事ですか」
「……シグルスさん」
ヘリコプターから駆けてくるのは、ララの秘書であるシグルスと、救急隊員だった。サルーディーバは寝そべったままだった。だが、さっそく彼女を担架に乗せようとした隊員たちを片手で遮った。
「だいじょうぶ」
サルーディーバは、隊員のひとりに肩を貸してもらい立ち上がった。ところどころ軽いやけどはあったが、重症とは言い難い。まったく無事であった。
(月の女神よ)
サルーディーバは、己を守ってくれた月の女神の肌守りが消えて行った方角へ、深々と頭を下げた。
カルパナとセシルは、支えあって海から上がった。もはや火はあとかたもない。あちこちから煙が上がっていたが、砂地を走り、水面を焼いていた火は、もはやなかった。
海は一気に温度が上昇したが、高熱になることはなかった。火が引いていった直後から、本来の水温にもどりつつある。
「まるで温泉プールだったわ」
冗談をいう気力もあった。
ふたりは岸辺に上がって仰向けになり、空を眺めた。
「よく、無事にすんだものね……」
「セシルさん、ほんとうにがんばったわ」
煌びやかな太古の呪術師の姿は失せ、Tシャツとジーンズ姿にもどっていたセシル。カルパナのスーツも焼け焦げ、ストッキングは破れ放題だった。彼女はいつのまにか脱ぎ捨てていたヒールを見つけて、拾ってきた。
彼女愛用のブルーのハイヒールは、溶けてひしゃげていた。
「残念! これが一番履きやすかったのに」
セシルは笑い――荒れ果てたK25区の海岸を、ふたりで見渡した。
打ち上げられた流木も、すべて炭化していた。遠くに見えるホテルも――ルナがここへ来たときアズラエルと泊まったホテルも、無残に焼きつくされていた。
「セシルさん、歩ける?」
「え、ええ――」
「一番上の大通りまで出ましょう。ララ様の救助隊が来るはず――セシルさん?」
セシルが、ホテルの方を見て目を見張っていた。彼女は、ホテルを見、自分の手のひらを見、それから三百六十度、あたりを見回した。
そして最後に、カルパナを見た。
「……見える」
「え?」
「目が見える! 目が――」
カルパナにもようやく分かった。かすかな薄青を灯していたセシルの眼球は、濃い黒と青の輝きを取りもどしていた。
「セシルさん!!」
カルパナは、喜びに目を潤ませ、口を覆い、それから、セシルを抱きしめた。
おそらく、完全に見えなくなるだろうと、マミカリシドラスラオネザにも言われていたセシルの視力は、もとに戻っていた。いや、セシルは生まれたときから目が悪かった。
こんなにもはっきりと、様々なものが見えたのは、はじめてだった。
「カルパナさんの顔が、はっきり見える!」
セシルは泣きながら――それでも目を見開いて、カルパナの顔を見ようとした。
「カルパナさん、ほくろがあるのね、おでこのところに、ちいさな――」
カルパナも泣き笑いしていた。
「そうよ! 早く、ネイシャちゃんの顔もしっかり見てあげて」
「ええ――」
「セシルさんに、カルパナさんですか!」
大通りのほうに、救急隊員がかけつけていた。
「クラウドの、生の声が聴きたい」
マミカリシドラスラオネザは、指先にしたほんのちょっぴりの火傷の手当てを受けながら、ため息交じりにそう言った。
ピンピンしていたのは、彼女ひとりかもしれない。
K33区に来たララの救助ヘリに乗っていた救急隊員は、あちこちで倒れ伏している神官たちの手当てをしている。
「クラウドが、ずっとわたしのそばで名を呼んでくれていたなら、わたしひとりで宇宙船を火から守ったものを」
側仕えの者は、はげました。
「きっと、ご褒美に、またクラウド様が呼んでくださいますよ」
「ふむ」
マミカリシドラスラオネザは、当然のようにうなずいた。
「起きたのか」
アズラエルの寝顔を、幸せそうな顔で眺めていたルナだったが、気配にさとい恋人は、すぐに起きてしまった。
「おはよう」
アズラエルはすかさずキスをした。びっくりするほど自然に。
まるで、ずっと昔から、恋人同士だったように。
ついこのあいだまで、「つきあっていなかった」ことが不思議に思えるくらいに。
「もうすこしイチャつきてえとこだが、そうもいかないようだな」
アズラエルも気配を感じているようだった。
アズラエルは、ジーンズだけは履いていたので、ガウンを羽織って部屋の外へ出た。ルナもあとを追った。
外の霧は、きのうより濃くなっていた。
黒雲の代わりに、海からきた白い霧が街を覆っていた。その霧の中から――もうひとり、ルナの待ち人は、ようやく姿を現した。
彼は、足を引きずるようにして、現れた。
その人は、思っていたよりずっと大きかった。
かつて、夢の中で見た、小さな少年の姿ではない。
苦痛と苦悩にまみれ、百年分も生きたように髪は白髪化し、顔にはまっすぐ縦に、傷が走っていた。
服も鎧も、ボロボロだった。城と薄青の衣装は破け、ほこりまみれだった。
彼は、凛々しい顔を、最初は驚きに――次は、喜びに変えた。
「ルナ」
――ルナが、夢で聞いた声だった。
「ルナ、――アズラエル、さん」
やっと、会えたね。
彼はそう言って、ぐらりと倒れた。
ルナは、受け止めた。
ひどく重かった。
彼が抱えて来たものの重さを確かめるように、ルナは抱きしめた。
アズラエルが、そっと支えた。
お帰り――それはきっと、アンジェの言葉だ。
ルナは言った。
メルーヴァの、重い身体を抱いて。
一滴の、涙をこぼしながら。
「おつかれさま、メルーヴァ」
――ありがとう。
メルーヴァは、眠りについた。
ルナの声を聞いて、安心したように、微笑んで。




