356話 バラス 1
『おい! 俺が相手をしていてやるから、そのあいだにメルーヴァを止めろ!』
グレンの口から出ている言葉が、アストロスの古代言語だったことを、アズラエルはすべてが終わってから思い出して絶句するのだが、今は普通に会話が成り立っていた。
メルーヴァの進撃に合わせて、ラグ・ヴァダの武神と兄弟神の戦いの舞台も、北へ北へと移動している。
『俺たちの力と夜の神の力がぶつかれば、クルクスも無事じゃすまねえ!』
グレンの言葉はもっともだった。だが、アズラエルはラグ・ヴァダの武神の剣先をかわしながら、言った。
『もう、メルーヴァは止まらねえ』
そう言いつつも、アズラエルは、走っているメルーヴァに手を伸ばす。巨神の姿から見たら、メルーヴァはまさにアリのような大きさだった。だが、アズラエルの手を黒雲が阻んで、メルーヴァの姿を隠した。
『焦るな』
アスラーエルの声がした。
『もうすぐ、あちらの勝負がつく』
アズラエルは、黒雲を背負って駆け抜けるメルーヴァを見た。彼に、一瞬だけ郷愁を呼び起こしたメルーヴァの姿。
かつて、ガルダ砂漠で出会った華奢な少年の面影は、どこにもなかった。
――メルーヴァ姫よ。
月の女神よ。
ルナよ。
わたしはいったい、あなたをどんな名で呼んだらいいのだろう。
まるで、わたしは新月、あなたは満月。
わたしとあなたは同じ名を持ち、同じ目的に向かって歩みながら、ついに顔を合わせて名を呼びあうことはなかった。
三千年前、わたしがアリタヤで、あなたがメルーヴァ姫だったときも。
二千年前、あなたがイシュメル、わたしがドクトゥスとして生まれ、メルーヴァと名乗ったはじめのときも。
千年前、あなたがルーシーで、わたしが盲目のサルディオーネ、チャンドラだったときも。
千年前、はじめてわたしはあなたと相対した。
あなたはやさしくわたしの手を取って、願いを聞いてくれたけれども、わたしは目も見えず耳も聞こえず、話せなかったので、この口から、あなたの名を呼ぶことはできなかった。
今もそうだろう。
あなたを呼べるだろうか。
いいや、きっとわたしはあなたに会えない。
わたしはクルクスの扉で力尽きるだろう。
来世こそは、あなたと向き合って、その名を呼ぶことがかなうだろうか。
愛しいわたしの妻とともに並んで、あなたに会うことがかなうだろうか。
一度でいいから、あなたと語り合いたかった。
ZOOカードの世界ですら、一度も会うことがかなわなかった、友よ。
友と、そう呼んでもかまいませんか。
あなたは、わたしと、ずっと近いところにいた気がしたのです。
わたしの心は歓喜に満ちています。
今、終わる。
すべてが終わる。
走り続けてきたわたしのゴールは、あなたのもとだ。
わたしは、サザンクロスからではなく、ラグ・ヴァダから走り続けてきました。
マリーの死を知った、あの日から。
ああ、もう少し。
もう少しですべてが終わる。
ルナ。
わたしの友よ。
どうか、わたしの願いを聞いてくれ。
今こそ、すべてを終わらせてください。
「くっそ! 押されてる!!」
サザンクロスから、アクルックス方面の武神の対決を見ていたアマンダたちは、アストロスの兄弟神が、武神の刀剣をかわすのに精いっぱいの状態に、歯がみしていた。食いしばった歯のギリギリ鳴る音が聞こえてきそうで、バーガスなどは、武神ではなく、隣の女どもに震えあがった。
「おまえらが戦えば、あっけなく武神に勝つんじゃねえか」
それほどの迫力だった。
たしかに、素手で戦っている兄弟神にくらべ、武器を持っているラグ・ヴァダの武神は優勢に見える。
「あのふたりの武器は!? 剣はないのかい!?」
レオナが叫び、アマンダが自分のコンバットナイフを振りかざして叫んだ。
「アズラエルーっ! あんた、自分のナイフどうしたんだい!? あたしの貸してやろうか!?」
メフラー親父は苦笑し、「落ち着いて見てろい、まあだいじょうぶだ」と言った。
「まだ余裕がある」
銅像顔ではどうにも判別しがたいが、兄弟神は、笑みを湛えているように見えた。
「油断を、誘ってンだ」
「ああっ!!」
フライヤたちも、手に汗を握りながら、イアリアスの対局を見ていた。
ツァオの、剛腕が振り下ろされた。ベッタラが一撃でやられてしまった一閃だ。
だが、エマルは踏ん張った。足こそはよろめいたが、コンバットナイフをかざした右手、そして交差した左手は頭上で、腰はしっかりと衝撃を受け止めた。
受けたのはいいが、なかなかエマルは反撃に出ない。
今までフィルズ(将軍)に一撃で倒されていた駒とは違い、女闘士は、おそるべき強さで防戦していたが、押されているのはあきらかだった。
それは、エーリヒとクラウドにもわかった。
「――やはり、アストロスにいる夜の神と、アストロスから離れている太陽の神の加護では、夜の神のほうが強いのか」
悔しげに、クラウドがつぶやく。シェハザールの薄ら笑いが、彼らにも見えそうだった。
夜の神は、今まさに、アストロスの地、クルクスで発動している。対して太陽の神は、地球行き宇宙船にいる。物理的距離の違いが、こうも影響の差をもたらすとは。
細かに分析すれば、それだけではない。夜の神は、妹神とクルクスの民たちを守ろうとしてその力は威力を増し、対して太陽の神は、船内にいる者たちを焼き尽くさないよう、力を加減している。
これでは、威力に違いがあるのも無理はなかった。
だれもがそう感じたのは、フィルズを取り巻く夜の神の黒炎と、女闘士を取り巻く太陽の炎の大きさが、桁違いだからだ。
「しかも、フィルズのそばで、ラグ・ヴァダの武神も戦っている」
エーリヒもつぶやいた。フィルズの黒炎は、夜の神だけでなく、ラグ・ヴァダの武神の力も混じっているだろう。
中身のエマルが、いくらL系惑星群最強のコンバットナイフの使い手でも、ツァオも、王宮護衛官で最強の実力者だ。
駒となる人物の実力も互角、士気も、おそらく互角。
となると、あとは、神の加護によって、勝負が決まる。
――このままでは、エマルが負ける。
エマルが防衛に負ければ、クイーンが取られる。
すなわち、ラグ・ヴァダの武神の刀塚である墓碑を、滅ぼせない。
エーリヒは決断し、クラウドに告げた。
「――なんじゃと!?」
床に伏していたイシュマールは、神官たちに助け起こされて、クラウドからの通信を受け取った。イシュマールは、かすれ声で叫んだ。
「太陽の神の加護だけ、倍加させろじゃと!?」
『頼む! あまりにも、夜の神に対して、太陽の神の力が小さすぎるんだ』
イシュマールは絶句した。
いまでも宇宙船が燃え尽きそうなのに、これを倍加したら、今度こそほんとうに宇宙船は燃え尽きてしまう。
だが、クラウドも叫んだ。
『エマルの駒が取られたら、クイーンがチェックされる。そうなったら、ラグ・ヴァダの武神の墓碑を、刀剣を――消滅させることができない!』
「……!!」
イシュマールは言葉を失い――しばらく黙った。
「イシュマールさま……」
神官たちが、不安げに彼の顔を覗き込んだ。
苦渋の決断だった。
どの道、ラグ・ヴァダの武神を倒せなければ、アストロスも、地球行き宇宙船も終わりなのだ。
やがて彼は、「わかった」とうなずいた。
携帯をポケットにしまい込み、クラウドも覚悟して、「イアリアス」盤を見つめた。
「――まさか、君と、遊園地で死ぬことになるとは」
「ほんとうだよ。私だって、ベッドの上で、ジュリに見守られて死にたかった」
次の業火では、さすがにここも無事ではすむまい。
だが、最後まで対局はしなければならない。
相手の「王」をチェック・メイトするまで、ここからは動けない。
クラウドは、アトラクションの外にある水源を確かめに向かった。無駄とはわかっていたが、水源の水を放出した。イアリアス! のアトラクションの周りに、水が流れていく。これで、すこしは持つだろうか。
イシュマールは、同時通信で、各地にいるサルーディーバたちに告げた。
「聞こえとるか、皆の衆!!」
『聞こえています!』
『ああ、聞いている』
『はい、聞こえています!』
東南では、サルーディーバが――西北ではマミカリシドラスラオネザが――西南では、セシルの代わりにカルパナが、通信を受け取った。
今、マミカリシドラスラオネザとサルーディーバは休息していた。セシルの魔術師としての力は、想像以上に偉大だった。ラグ・ヴァダの武神に目をつけられただけはある、力の強大さだ。
彼女は今、百五十六代目サルーディーバとともに、たったふたりきりで船内の火を消し止めている。
「ええか。いまから、太陽の神の力を倍加させる」
『――!』
サルーディーバもマミカリシドラスラオネザも、戦慄した。
『宇宙船が燃やし尽くされるぞ!』
さすがにマミカリシドラスラオネザは抗議したが、イシュマールは、クラウドからの伝言を、そのまま伝えた。
このままでは、太陽の神の加護が弱いエマルのほうが負ける。エマルが負ければ、クイーンに王手がかけられてしまうことを。
「クラウドたちも、苦渋の決断だったじゃろう……」
イシュマールは苦しげに言った。
「カルパナさん、セシルさんに伝えてくれ。勝負が決するまで、なんとかK19区だけは――いや、遊園地だけは守り抜いてくれ!」
『はい! お伝えします』
『――そのような事態では、しかたありませんね』
サルーディーバは、ふらつく身を起こした。足がガクガクする。立っていることさえままならない。ここまで神力をつかったのは、はじめてだった。
(今度こそ、わたくしの力は、消滅するかもしれない)
サルーディーバは、首にかけている真月神社の肌守りを――ルナからもらったそれを、ギュッと握りしめた。
(どうか、わたくしにお力を)
「皆で、わたしの名を、合唱せよ!!」
マミカリシドラスラオネザは、神官たちをかき集め、自分の名を盛大に歌うよう依頼した。もちろん、クラウドの声も大音量で流して。
「セシルさん!」
電話を切ったカルパナがセシルの方を向くと、セシルは、聞いていたようにうなずいた。
「K19区だけは、ぜったい守らなきゃ……」
カルパナは、セシルの口元に、ミネラルウォーターを持っていった。彼女は汗だくだった。彼女の手の中にある水源は、どんどん、火を飲み込んでいく。
セシルは「ありがとう、生き返るわ」と微笑んだ。
「カルパナさん、危ないから、水の中にいて」
「みんな! ええか、あとすこしじゃ! 」
ナキジンが、商店街の者を、階段下に集めていた。
そこには、かつて階段頂上にあった寿命塔が出現している。寿命塔の名が表示される部分には、「地球行き宇宙船」の名があった。
地球行き宇宙船は、太陽のように燃え盛っている。
この勢いが、まもなく倍加する。
K33区には、マミカリシドラスラオネザが。
真砂名神社奥殿では、百五十六代目サルーディーバが。
K27区には、サルーディーバが。
海近くのK25区では、セシルが――八転回帰によって、神官の前世を蘇らせたセシルが、海の力で炎を消し止めていた。




