354話 イアリアス Ⅳ 3
エマルとデビッドも、エーリヒが着座し、星守りをはめ込んで、「イアリアス」が起動したとたんに、急に視界が広くなったのを感じた。
意識はある。なんだか、ずいぶん遠くが見渡せる。
へとへとになって、地面に座り込んでいたふたりは、足場が海上になっているのに気付いて仰天したが、沈んではいなかった。金色の膜の下が海だ。
しかも、景色が変わっている。マルメント山地がない。自分の隣を見ると、なんだかでかくて、変わった巨像が並んでいた。真っ白な駒で、自分たちが見た宇宙色のハイダクとはちがう。
『ン?』
エマルは、隣にたたずむ、槍を持ったドレス姿の女王様が、妙にミシェルに似ていることに気づき、『ミシェルちゃん?』と聞いてみたが、銅像のように彼女は動かなかったし、返事もしなかった。
デビッドも、右隣の男が、地球行き宇宙船で一回だけ会った、共通語がアヤしいアノール族の男に見えて仕方がなかった。
『おまえ、ベッタラか?』
聞くと、にっかりと口の端が曲がったので、デビッドは、彼の正体を知った。
笑っただけで、彼の格好は変わらない。巨大な長剣を、刃先を下にして地面に降ろしたスタイルでたたずむ彼は、まっすぐ前を見据え、微動だにしない。――まるで、彫像だ。
デビッドとエマルも、自分の身体が動かないことに気づいた。デビッドは、弓をつがえた体勢で固まり、エマルは、コンバットナイフを構えたファイティング・ポーズ。
『……』
デビッドとエマルは、やっと気づいた。
『でかくなってる!!』
視界が広くなったのではない。自分が、大きくなったのだ。
アストロスから、こつ然とムンドが消えた。遊園地が消えたのだ。
イアリアスの黄金幕は消えていない。そして、上空の透明なペガサスも消えていない。
そして、総司令部からはるか後方――海域に見えた、ずらりと並んだ駒。
「対局者が、また現れました!」
フライヤの声に、皆が集まって観戦盤を覗きこんだ。
総司令部は、現在、観戦盤のほぼ中央にあった。
今度は、まえのチェスの駒とは違い、はっきりした色で現れている。真っ白な駒だ。やはり、前に敷かれたときと同様、ポーン(歩兵)はなかった。
「――ん?」
だれもが気づいた。
「なんだこれは」
「シャトランジでも、チェスでもなさそうですな」
「――なんだこれは」
シェハザールも、相手の駒が、チェスの駒でないことを訝しく思っていた。
チェスじゃない! と叫んだエーリヒだったが、動揺しているヒマはなかった。相手の駒が動きはじめたからだ。
シェハザールの声が、対局盤を通して、エーリヒとクラウドにも聞こえた。
「フィール(象)をh-6へ」
アストロスの星守りが嵌められた象が、ズズズ、と音を立てて、h-6まで移動した。
「次は君の手だ、エーリヒ」
「い、いや、いやはや――」
クラウドが興奮気味に言ったが、さすがのエーリヒも戸惑っていた。味方は、ほぼすべて、見たことがない駒に変化していたからだ。
デビッドのルークは「弓騎士」に。
ベッタラのナイトは「剣士」に。
ノワのビショップが「暗殺者」に。
エマルのビショップが「女闘士」に。
ニックのナイトが「天馬」に。
ルークのイシュメルが「守護者」に。
キングとクイーンは変わらないが、他の駒は、どんな動きをするのかまったく分からない。
エーリヒは額に汗して、思考のために腕を組んだ。
先ほどの冊子に、「イアリアス」の駒の動きは書かれていなかった。
だとすれば、基本的に、駒の動きはチェスと変わらないのか?
味方の駒の手前に、一列にハイダクが並んでいる状態だ。ふつうならば、最初から敵の歩兵がめのまえにいることもない。こちらに、ポーンも存在しない。そもそも、開始の状態からして通常と違う。
これでは、ハイダクが一歩進めば、こちら側のどの駒も取れる。
最初から、「シャー・マート」(王は死んだ)の状態だ。チェスで言うと「チェック・メイト」状態――。
だが、ハイダクでは「王」は取れない。
シャトランジならば、チェスと同じく、相手のほうまで来たハイダク(歩兵)は、フィルズ(将軍)となる。それもない。かつて、このアトラクション内で、ルナを「シャー(王)」にして、白ネズミの王と対局したときは、ハイダクはフィルズになった。
これは、さっき読んだルール・ブックに書いてあったことだが、ハイダクのままでは「シャー・マート(王手)」できず、ハイダクがフィルズと化すのは、アストロス全域を、黄金盤が覆いつくした状態になった後だ。
今、ハイダクがキングを取りに向かっても、おそらく粉みじんになることだろう。
キングだけではない。ハイダクでは、どの駒も取れなかった。
「ン?」
エーリヒは、なぜか、左端のルーク手前のハイダクだけがないことに気づいた。
「なぜ、ここのハイダクだけがないのだ?」
対局盤の隣に表示されている、対局の記録を見ていたクラウドが、驚いた声で言った。
「俺たちが来るまえに、月を眺める子ウサギが一度対局したんだ。キングをshipからアズに入れ替えて、キングがそこのハイダクを取った」
エーリヒは、耳を疑った。
「……もういっぺん、どうぞ」
「キングをshipからアズに入れ替えてハイダクを取った」
「……」
エーリヒはもはやあきらめた。頭をリセットすることにした。この「イアリアス」とやらは、チェスのルールもシャトランジのルールも超越している。
エーリヒは対局盤を睨んでいたが、長考しているヒマはない。長引けば長引くほど、宇宙船が持たなくなる。
駒に触れてみると、彼らの動きが、手元のデジタル盤に表示された。
(ふむ……動き自体は、チェスの駒と変わらんようだ)
弓騎士と守護者はルークと同じ。縦横どこまでも動ける。
剣士と天馬はナイトと同じ動き。おそらく、間の駒も跳び越せるだろう。
暗殺者と女闘士はビショップと同じ。斜めにどこまでも行ける動きだ。
ちなみに、イアリアスのほうは、戦車がルークと同じく縦横どこまでも進める動き。
ファラス(馬)がナイトと同じ、フィール(象)が、斜め四方にふたマスずつ進める。間にある駒を跳び越せる動きだ。
キングとシャーは、同じように、縦横ナナメ、ひとマスの動きだが、フィルズ(将軍)は、斜め四方にふたマスずつ動ける。
チェスのクイーンは、縦横ナナメにどこまでも進める動きだが、今の場合、制限がありそうだった。――動かせる回数に。
こちら側のイアリアス駒は、形と名称こそ違えど、チェスと動きはほぼ同じ。
だが、多少、違う部分がある。
(……)
左端ルークのまえだけが空き、横一列、目前にハイダクが迫っている状態――。
(ルナは、いや、月を眺める子ウサギは、なぜ、こんな状態で残したのか)
熟考している時間はない。
(キングがなぜこの位置に? ここから、ひと息でこの位置?)
ふと、エーリヒの頭にひらめくものがあった。
(このコマの動きは、まさか――)
「ルーク、いや――弓騎士を、a-2へ」
エーリヒの声とともに、弓を携えた騎士の形を模した巨大な駒は、空いた直前のマス、a-2へ進んだ。
エーリヒの予想は当たった。
a-2に進んだアーチャーは、ゆっくりと、方向を変えた。――右の方向へ。
「なにが起ころうとしているの」
フライヤたちは、もはや観戦盤ではなく、目前で繰り広げられるイアリアスの勝負を見つめていた。
『お? お? お?』
デビッドは、勝手に自分の身体が横を向くのを感じたが、めのまえに、ずらりとハイダクが並んだ光景を見た瞬間に、役割を悟った。
デジタル盤に表示された緑色――駒の進める位置と方向を示す光――が消え、今度はオレンジの光が縦と横にまっすぐ伸びるのをエーリヒは見た。
縦横、どこまでも進めるのがルークの動き。それは変わっていない。
だが、このアーチャーにはもうひとつの役割があった。
エーリヒは、オレンジ色の光が右にまっすぐ突き抜ける位置で、ボタンを押した。
アーチャーから、巨大な弓矢が放たれた。
「――っ!!」
だれもが、息をのんだ。
オレンジ色の光線は、横一列に並んだハイダクを、一気に貫いた。
アストロスの本陣は、久しぶりの歓声に湧いた。シェハザールは思わず座席から立ち上がり、エーリヒとクラウドは口を開けて盤を見つめた。
「やったーっ!!」
サザンクロスでは、アマンダとレオナが、ハイタッチしていた。
「よくやった!! デビッド!!」
サスペンサーたちを轢きつぶしてきたハイダクが、全滅したのだ。沸き立たずにはいられなかった。
『っしゃアー!!』
アーチャーの姿は変わらなかったが、デビッドはガッツポーズを決めたつもりでいた。
クラウドは、さらに目を剥いた。
「あれ!? これ、チェスじゃなくなってる!!」
「今さら!?」
エーリヒは思わず叫んだ。
ハイダクを、数珠つなぎに、一直線――貫いた空色の矢は、アクルックス方面に消えた。
たった一本の矢によって破壊されたハイダクたちは、みるみる崩壊した。歓声に沸いていた総司令部は、駒から立ち上ったおぞましい悲鳴に、一瞬、止まった。
ひとの顔らしきものが瓦礫から浮き上がる――それらが、悲鳴をあげながら、砂のように消えていく。
「あれ――ひとが乗ってたのか」
人が乗っていたのか、それとも、化身した姿なのか。シャトランジの駒とされた、王宮護衛官たちの成れの果てだった。
マリアンヌは、塵と消えていく、かつての彼らの顔を思い浮かべた。




