353話 アストロスの武神と、布被りのペガサス 2
※残酷表現があります。
「“キャスリング”」
ルナが唱えると、d-1にあったキングの駒と、a-3にあったルークの駒が入れ替わった。
「バカな! キャスリングはチェスのルールだ!」
しかも、ルークとキングの間に駒がなく、ルークもキングも、敵の駒にピンされていない状況下でしかつかえない。キングの撤退のためにつかわれるルールで、序盤に使用するなどありえない。
シェハザール――ラグ・ヴァダの武神は激怒したが、ルナの操るキングとルークは、たしかに入れ替わった。
ボリスは、目を瞑った。ついにa-4に入り込んできたハイダクが、ボリスをつぶすために侵撃してくる。
「キングを、a―4へ」
ルナが唱えた。
ボリスは、いつまでたっても身体に衝撃が訪れないので、恐る恐る目を開けた。
滑り落ちてきて、ボリスを轢きつぶすはずだったハイダクは、銀色の巨大な手につかみ締められていた。城のような大きさのハイダクを、手のひらにつかめるほどの巨大な手。
ボリスに分かったのはそれだけだ。
大きな手は、ハイダクを掴みつぶした。宇宙の結晶を飛び散らせ、ハイダクは、大きな男の手の中に、砕けた。
ボリスは口をぽっかりあけて、巨大な手のひらが降ってくるのを見つめた。
今度は俺が握りつぶされるのか――。
だが、恐怖は感じなかった。
大きな手は、ボリスをつまみ上げ、そして、空を飛んでいる飛行機――いや――巨大な鳥の背に、ひょいと乗っけた。
「災難だったな! 兄さん」と鳥に話しかけられたボリスは、ついに「うわーっ!」と叫んだ。
(メルヘンはまっぴらだよな。分かるよ)
巨人から、アズラエルの声がした――気がした。
ボリスはあまりのことに、そりの上で失神した。
グレンは、隣からアズラエルがいなくなったのに、気づいた。
「あれ? どこ行きやがった、アイツ」
数秒前に、こぶしを突き合わせていたはずなのに。
「インボカシオン、解除」
ルナの声とともに、キングは「アスラーエル」から「シップ(宇宙船)」にもどった。それと同時に、銀色のチェスの駒が、すべて消えた。
「ああっ!」
フライヤたちは、失望の声を漏らした。
「まさか、これきりしか動かないの」
サンディの不安げな声に、メリッサは首を振った。
「まさか! ですが、地球行き宇宙船でなにかあったのでしょうか」
メリッサの表情にも、はじめて不安が現れた。太陽のように燃え続けている宇宙船――まさか、中でシャトランジのアトラクションが燃えてしまったのでは?
メリッサは、船内と連絡を取るために、席を外した。
そのときだった。
「やあやあ、みなさん、おつかれさん」
だれもが、口を開けた。そうするほかなかった。巨大な白い鳥が、飛行機でも着陸するように、すうっと地面に到着したからだ。アナウンス付きで。
「お届け物だ」
後部座席――すなわち背中から、大勢の軍人たちが飛び降りてきた。
「これで全員だ。もう、シャトランジ内に取り残されているひとはいないよ」
「ほんとうですか!」
もはや、鳥がしゃべっている違和感は、どうでもいいらしい。フライヤの顔は輝き、ほっとしたように肩を落とした。
先に助かっていた軍人たちと固く抱き合う様子と、おじさんの声がする鳥を、呆気にとられた顔で交互に見――オリーヴは、最後に降りてきた人物を見て叫んだ。
「ボリス!!」
軍人の一人に背負われて、医務室へ向かおうとしているボリスに、オリーヴとベックは、駆け寄った。
「ボリス! ボリスっ!!」
「マジかよ! ボリス――!!」
「よかった――知り合いかい? マルメント山地の麓にいたんだ」
ボリスを背から降ろしながら、観覧車から助け出された軍人は言った。
「仲間なんだ」
「恋人なの!」
ベックとオリーヴは同時にいい、顔をくしゃくしゃにして無事を喜んだ。
「びっくりして気絶してるだけだ。ケガはあるけど、治療すればだいじょうぶ。命に別状はないはずだよ」
彼はふたりを安心させるようにつぶやき、
「あんなものを見ちゃ、失神するのも無理ないさ……」
その場で見ていた彼ですら、信じられない光景だった。鎧を着た武人の姿をした銀色の駒が、ボリスを助け、ハイダクを手で掴みつぶしたのだ。
実際、ボリスが失神したのは、しゃべる鳥を見てからなのだが。
「あり――ありがとう!! 鳥さん!!」
涙まみれのオリーヴが叫んだときには、もう鳥はいなかった。
「さあ、救助は終わったわ」
ルナの膝の上に、月を眺める子ウサギが現れては消えた。
「千転回帰がはじまったら、ムンドはもうつかえない。それまでの勝負よ、ルナ」
(うん!)
ルナはうなずいた。
「さあ――全力で止めるわよ。シャトランジの盤がこれ以上広がらないように」
ルナの言葉とともに、シャトランジの拡大は、ピタリと止まった。
ヤーコブは、意識を失いかけていたところを、目覚めさせられた。意識はあったが、彼は自分の身になにが起きているか、もはや分からなかった。すでに両目はつぶされ、指の骨をすべて折られた手では、太陽神アンスリーノの刀剣もつかえない。
天使隊では、マルコに次ぐ実力者であった彼である。その彼が、なすすべもなかった。
さっき、アンリとシュバリエの悲鳴を聞いた。
「やめろ」と叫びたくても、口からあふれるのは血流のみだ。
彼は、助けを呼ばなかった。ヴィクトルや仲間を、これ以上ここに来させるわけには行かない。天使隊総勢でかかっても、この怪物には勝てない。
(甘かった)
天使隊がそろって、北のエタカ・リーナ山岳にある武神の墓碑を破壊しに行こうとしても無駄だっただろう。
これが、三千年を経ても滅びなかった武神の力だ。
(なんという――)
――むかし、おまえのような愚か者がいた。
ラグ・ヴァダの武神の声を、ヤーコブは聞いた。ギリギリと搾り上げられ、全身がきしむ痛みのなかで。
――力もないくせにわたしを殺めようとし、あらゆる策略を仕掛けてきたが、どうにもならんので、ついに自分が剣を取った弱者だ。
武神はあざ笑った。
――今のおまえのようにして殺してやった。最後には、骨しか残らなかったが。闘技場に骨のかけらが転がってなァ。ふっと吹いたら、どこかへ飛んで行ったわ。
たいして美しくもない女のために、わたしに立ち向かった勇気だけは褒めてやるが、無駄骨というやつだ。
ヤーコブは怒りのために頭が弾けそうになった。アノールの祖である、アリタヤ宰相を殺したときのことを言っているのか。
せめて一矢報いたかったが、そのまえに絶命しそうだった。
(ここまでか)
ヤーコブが、薄れゆく意識の中で覚悟したとき、ふっと身体が軽くなった。なにか、温かく大きなものに、掬い上げられた気がした。
いよいよ、自分は死んでしまったのかと思いきや、アンリの声がした。
「ヤーコブ! ヤーコブ」
まさか、ふたりが武神を? いや、無理だろう。とうにシュバリエの声がない。目が見えないヤーコブには、なにが起こっているのか分からない。
身体の感覚で、アンリに抱かれて飛んでいることは分かった。
「アン――アンリ、シュバリエは?」
「シュバリエは死んだ!」
アンリは涙声だった。
「われらを助けてくださったのは、アルグレン将軍だ!」
アンリが見たのは、今にもヤーコブの身体がまっぷたつにねじ切られそうになった、そのときだった。
ラグ・ヴァダの武神の両腕を「素手」で断ち切り――大地に叩きつけられるところだったヤーコブを、手のひらにすくい上げた武神の姿を。
銀色の炎を噴き上げる巨大な武神は、短い髪で、まとう炎と同じ銀色の髪をしていた。おまけに、両耳にピアスをたくさんつけている。
巨大な軍神は、ラグ・ヴァダの武神の胸倉を掴み上げ、クルクス目掛けて投げ飛ばした。
(武神よ……!)
声にならなかった。武神は一度だけ、アンリを見つめ、「行け」と言ったような気がした。
アンリは、地面に置かれたヤーコブたちを抱きかかえ、飛び立った。
――今度は、兄より先に、俺がてめえをぶっ倒してやる。
アルグレンの雄叫びが、咆哮が、アストロス全域を震わせた。
「――なに」
総司令部のだれもが、アクルックス方面から、強烈な風が吹き付けてくるのを感じた。
魂を震わせるような雄たけびを聞いた気がした。
だがそれは、ラグ・ヴァダの武神のように、恐怖をあおるものではない。
すべてに竦んでいた皆の魂に、強靭な息吹が与えられたようだった。
奮起されるような、強さと勇気を。
シャトランジから戻ってきたアズラエルは、数秒前に拳を突き合わせていたはずなのに、となりにグレンがいないことに気づいた。
「アイツ、どこ行きやがった」
この、大事なときに。
フライヤたちは、彼方から、真っ赤な鳥がこちらへ飛んでくるのを見た。彼が遠くで着地し、こちらへ歩いてくるに従って、その全容が知れて、だれもが口を覆うか、立ちすくんだ。
アンリの白いマントは、血みどろだった。
「ヤーコブ!!」
天使たちが、ボロボロのヤーコブを受け取った。大きすぎて常人の担架には乗せられないので、軍人たちが大勢で、慎重に運んだ。想像を絶する大ケガだった。両目はなく、指の骨がすべて折られ、片足がなかった。
だが、まだ生きていることを証明するように、かすかな呼吸があった。
「シュバリエは――」
ヴィクトルが聞くと、アンリは首を振った。そして、懐に抱きかかえていたものを、そっと出した。
「きゃあ!!」
医療班の軍人が悲鳴をあげた。――それは、シュバリエの首だった。
「ラグ・ヴァダの武神は、おそるべき――」
ヴィクトルが血まみれの首を受け取ると、ごふっとアンリが血を吐き、そのままくずおれた。軍人たちの悲鳴がとどろいた。ビシャリと、アンリの身体から血が噴き出したのだ。彼の足元には、濃い血だまりができた。彼のマントの中には、大きな空洞があった。
怯んだ医療班を遮り、メリッサがアンリの脈をとった。
「生きてる!」
「ええ!?」
「生きてる! はやく運んでください! 治療すれば間に合う!!」
身体に大穴が開いて生きている人間などいない。
「天使の皆さまは、わたしたちの数倍は、身体が頑丈です! 処置を早く!!」
「アンリ、しっかりしなさい!」
テッサがアンリを抱きかかえ、治療室に運んでいく。ヴィクトルは痛ましげに、アンリを見送り、首だけとなったシュバリエの額にキスをした。
「ああ――ハイダクが!!」
無残な天使たちの姿にパニックになりかけた総司令部は、今度は地が揺れる音で足がすくんで、だれもが動けなくなった。
ズズ、ズズズ……。
ハイダクがすべてを轢きつぶし、進む音が大きくなる。ハイダクが進むごとに揺れる大地――みるみる大きくなるハイダクの姿。
宇宙が、前方に迫っていた。
「うわあああーっ!!」
だれかが叫んだのを皮切りに、皆々が半狂乱になって逃げだした。だが、総司令部の建物のすぐ後ろがマス目の壁だった。
もはや指揮系統も意味をなさない。指揮すべきバスコーレンたちも、最期を感じて、宇宙色の駒を見上げるしかなかった。
「助けてくれ!!」
「だれかあーっ!!」
「なんとかして!」
失神したボリスに付き添っていたベックとオリーヴは、総司令部内の医務室の窓から、ハイダクが迫ってくるのを見た。
「――今度は、三人一緒だ」
「うん」
もう、ボリス一人置いて、逃げはしない。
オリーヴとベックは手をつなぎ、ボリスの手を握った。
後ろには、ハイダクが迫る中でも逃げずに、天使たちに治療を施す軍医と看護師たちがいる。
フライヤは息をのんで、迫りくるハイダクを見上げた。
「みんな、なるべく、わたしのそばに集まって」
なぜか、そんな言葉が出てきた。これは、「最期」ではない。フライヤには、なぜか、そんな確信があった。
ルナが、メルーヴァ姫の部屋で、一枚のカードを召喚していた。
「終生を、ノワに守られしペガサスよ――」
それは、フライヤのカードである、「幸運のペガサス」だった。
「“見えない”ペガサス――幻の生き物、ペガサスよ。その姿は幻想、見えるものにしか見えぬもの」
フライヤのカードが、くるくると回転し、大きな布を被ったペガサスの姿に変わった。
「みなを守れ、仲間を守れ――“幸運のペガサス”回帰――“原初”――“布被りのペガサス”」
逃げ惑う軍人たちのあいだから、フライヤのほうに、まっすぐ向かってくる男がいる。フードを被り、マントを羽織り、黒いタカを肩に乗せた――。
(ノワ)
フライヤには、すぐに分かった。
彼は、フライヤに微笑みかけて、ふっと消えた。
「なんだ――!?」
最初に気づいたのはザボンだった。
天から、巨大なペガサスが舞い降りてくる――総司令部すべてを覆いつくす、巨大なペガサスが。そのペガサスは透けていて、青空がくっきりと向こうに見える。
ペガサスは、大きな布を被っていた。
ペガサスは翼を広げ、さらに被っていた布を広げ――総司令部全域を覆い隠した。
「きゃああああ」
「わあああああ」
もはや言葉にならない悲鳴がフライヤの方にも聞こえてくるが、フライヤは観戦盤から目を離さなかった。
メリッサも、ザボンも、バスコーレンも、サンディも――ヴィクトルも、息をのんで観戦盤を見ている。
ハイダクが進む。こちらへ進んでくる。
音と振動が大きくなるにつれ、オリーヴとベックも、ボリスに被さった。
医者と看護師は、処置の手を止めなかった。
医務室の窓の外を、ハイダクが進んでいく。
――ハイダクは、総司令部をすり抜けた。
観戦盤でも、総司令部のあるマスを、ハイダクが進んでいった。総司令部が透明になったのか、ハイダクが透けたのか、わからない。とにかく、だれもつぶされなかった。
悲鳴が徐々に少なくなり、やがて、静寂が訪れた。
ハイダクは、次のマスに進んでいた。
大きな透明のペガサスに包まれた総司令部は、何の音もしなかった――せわしない呼吸の音だけが、あたりに響いた。
フライヤは、こぼれ落ちてきた額の汗を、思わずぬぐった。
サンディが、フライヤの腕をつかみしめて、ぎゅっと目を閉じていた。フライヤがだいじょうぶだというように彼女の腕に手を添えると、サンディの目が開き――それから、涙があふれた。サンディがなにも言わず抱き付いてきたのを、フライヤも無言で抱き返した。
ペガサスはまだ消えていない。
総司令部にいる皆を守るように、翼と布を広げている。
あちこちで、腰を抜かして座り込んでいるもの、泡を吹いて失神しているもの、抱き合って泣いているものであふれている。
あのバスコーレンですら、ついに腰を下ろした。ザボンは天を仰いだまま微動だにせず、ヴィクトルはシュバリエの頭を抱えたまま、ペガサスに向かって胸に手を当てていた。
フライヤは、タロがいないことに気づいた。
「タロさんは?」
メリッサが、観戦盤を指した。
大勢のアノール族が、海の生き物となって、シャトランジのギリギリの端で、ハイダクの歩みを止めようとしていた。




