353話 アストロスの武神と、布被りのペガサス 1
「世界」
ルナの口から、月を眺める子ウサギの声が飛び出した。
フライヤは、観戦盤に異変を感じた。
シャトランジの金色盤を塗り込めるように、銀色の光がクルクスから放たれた。それは、シャトランジを上回るスピードで広がり、ナミ大陸全域を覆いつくした。
「今度は――今度はなに!?」
観戦盤を見ていたサンディが不安げな声で叫んだが、メリッサは、喜びの声を上げた。
「メルーヴァ姫様が動かれました!」
とたんに、天使隊とアノールから歓声が上がった。
「――なに?」
ジャマル島のバンビたちも、想像を絶するむごい光景のあとで皆が消沈していたときに、突如広がった銀色の光に、またしても動揺したところだった。
「今度はなんだ――」
フライヤたちは、軍議の真っ最中だった。軍議ともいえない――手の尽くしようがない現実の前で、彼らはただ、観戦盤を見つめるのみであった。
アストロスの陸、海、空軍の幹部と、クルクスの市長ザボン。そしてL20からは、フライヤ総司令官とサンディ中佐、バスコーレン大佐に、L20の陸軍幹部、そして仲介役のメリッサ、天使長ヴィクトルと二名の天使、アノール族の代表、タロを含む三名、オリーヴとベックが、特別に同席していた。
軍議は、軍議にならなかった。
広いテーブルに置かれた観戦盤を、皆で見つめるほか、軍人たちには術がなくなっていた。
そこへ、観戦盤に大きな変化が起きたので、皆が集中したのだ。
「外に出ましょう」
フライヤは思い切って言った。彼女の言葉に、だれも反対するものはなかった。というよりも、彼女以外の人間は、提案すら出せなかったのだ。
幹部たちはいっせいに外へ出たが、すでに、外に待機している軍人たちは、口々に前方を見つめて、騒いでいた。
フライヤたちもそれを見て、理由が分かった。
ハイダクが迫ってきたのではない。
めのまえに広がる平野には、なぜか遊園地が現れていたのだ。
「なんなの――これは」
サンディのつぶやき。
観覧車にジェットコースター、城にメリーゴーランド――シャトランジ盤の中にそびえたつ遊具の数々を、フライヤたちは呆然と見つめた。
真砂名神社の奥殿にいるアンジェリカとペリドットも、ルナが動いたことに気づいた。ふたりのいる部屋に、アストロスの地図が表示され、銀色の光が広がるとともに、K19区の遊園地が、ホログラムとなって浮かび上がる。
「ルナがムンドを!」
アンジェリカの顔に笑顔がもどった。
「手紙が来てるぞ」
ルナからの通信だ。ペリドットとアンジェリカは、手紙を開いた。ふたりの顔が、不敵な笑みに変わっていく。
「――よし、アンジェ、回帰術のまえにひと仕事するぞ」
「はい!」
ふたりのまえのカルタは、用を果たしたとばかりに燃え上がった。
アンジェリカが先に起動した。
「白ネズミの女王からの“カルタ”を受け取れ、子孫たるアノールの民たちよ――」
アンジェリカは唱えた。
「回帰――“原初”――アノールの魚たちよ、海の王者よ、――目覚めよ」
やんやの歓声を送り、太鼓をドンドコ叩いていたアノール族が、急に静まり返った。
「ど――どうしたの」
オリーヴの隣にいたアノール族の男たちが、ふらふらと遊園地のほうへ向かっていく。
「“海”」
アンジェリカが唱えると同時に、アノール族の向かう方角が、一面の海に変わった。
フライヤたちは思わず目を擦ったが、まぎれもなくあれは海だ。いきなり陸地に海が現れた。数メートル向こうは、白い波がさざめく岸辺になっている。
軍人たちは、目を疑った。
千を超えるアノールの男たちの姿が変化していく。
ある者はシャチに、ある者はクジラに、ある者は、サメに――。
彼らは、尾びれを揺らして、人魚のように次々と海に飛び込み、完全なる魚となった。
大海原を、シャチやサメ、クジラが大挙して、遊泳していく。
「な、なんだよ、あれ――」
ベックの言葉も、無理もなかった。ザボンも、めのまえの光景に、ただただ息をのむことしかできなかった。
「うわあ! こんな広範囲のムンドは初めて見た!」
アンジェリカは、その雄大さにはしゃいだ。千を超すイルカやシャチ、サメ、潮を噴き上げるクジラ、ペンギンや巨大な魚の群れが、シャトランジの海を自在に泳ぎ回っている。
アストロス全域が、幻の海と化した。
今度は、ペリドットの番だ。
「“原初”に回帰――翼を持つ使徒たちよ――海の生き物たちともに救援に向かえ」
ペリドットの口上とともに、司令部に残っていた天使たちが、ヴィクトルを抜かして全員、大きな鳥となって羽ばたいた。シャトランジの壁などものともせず、突き抜け――天空を泳いだ。
「見ろ! シャトランジの壁を越えていく!」
だれかが叫んだ。皆の声色に、希望がよみがえった瞬間だった。
「“キッズ・タウン・セプテントリオ”はわたしの世界。わたしの遊園地。わたしの遊び場」
ルナの口を借りて、月を眺める子ウサギは言った。
ムンドがナミ大陸に広がったのを見たラグ・ヴァダの武神は、ますます強力にクルクスの門を叩いたが、夜の神はビクともしなかった。シャトランジの膜も、クルクスを避けて広がりはじめた。
そのころ、G-4のマスにいたマクハラン隊の軍人たちのもとには、ハイダクが迫っていた。
「助けてくれ!!」
逃げ惑う軍人たちの頭上に、ハイダクが降ってくる――だれもが、自分は死んだと思った。つぶされたと――そう、思った。
ルナが、ポン、とウサギの手を合わせた。
「シャトランジG-4――イヌ、ネコ、イヌ。イヌ。イヌ。ウサギ、サル、ツバメ、リス、ネコ、リス、ツバメ、オオカミ、ゾウ、ラクダ、サル、イヌ、ネズミ、イヌ、ネコ――以下ぜんぶ! “ペルチェ(ぬいぐるみ)”!」
――だが、だれもが生きていた。
死んでいるものはひとりもいなかった。
自分の真横で、地面に埋もれてつぶされているのは、動物の姿を持ったぬいぐるみだった。
呆然としている間に、大地が突如として海に変わる。
「うわああ!」
水に沈んだ彼らは、すぐに水面に顔を出した。ハイダクが、次のマスに進んでいる。彼らは、自分たちを水面に押し上げているものの正体を悟った。
巨大なクジラの背に、彼らは乗っていたのだ。
F-4のマスにいた軍人たちは、なぜ、いきなり目の前に観覧車があらわれたのか分からなかった。
だが、後方からはハイダクが迫り、前方からは海が迫ってくる。軍人たちはあわてて、観覧車に逃げ込んだ。観覧車に逃げ込んでどうなるものでもなかったが、とにかく、真下にきたゴンドラは、どれもこれも扉が開いている。
軍人たちは、扉の開いたゴンドラに、順番に飛び込んだ――ハイダクが迫る。大地は海水に満たされ、水位はすぐに腰のあたりまできた。
最後のひとりがゴンドラに入った瞬間に、ハイダクが、マスに入ってきた。
目前に迫るハイダク。
観覧車をなぎ倒していくことも、十分に考えられた。
だが、猛然と進んできたハイダクは、透けるように透明になって、だれもつぶさず――観覧車もつぶさず――次のマスへ移動した。
「た、助かった……」
観覧車の頂上まで来た軍人は、それを見下ろして、やっと息をついた。
自分は助かったのか。それにしても、この観覧車はなんだ。
急に我に返ってあたりを眺めはじめた彼の目線は、一ヵ所で止まった。
ハイダクの前進に逃げ惑っていたたくさんの兵士たちは、ほぼ、「ペルチェ(ぬいぐるみ)」によって救われた。ペリドットとアンジェリカも術式をつかい、ルナを手伝った。
フライヤのもとに、つぎつぎと、シャチやサメ、イルカがもどってきた。マクハラン隊の軍人を乗せて。
助かった軍人たちは泣きくずれ、助けてくれたイルカに頬ずりする者もいた。だが、どうにもシャチやサメは、なかなか頬ずりしてはもらえなかった。シャチに食われると思ったのか、背の上で気絶している者もいた。
総司令部にいた軍人たちは、イルカたちが救出した軍人を背から降ろし、医務室へ運んだ。
彼方に見える観覧車から、天使たちが化身した大きな鳥が、何人もの軍人を乗せてこちらへやってくる。もとが大きいせいか、鳥たちは始祖鳥のように大きかった。おかげで、救出は早く済んだ。
しかし、助かった軍人たちと手に手を取り合って喜んでいる場合ではなかった。
一度は助かったが、ハイダクは止まらない。
総司令部からも、整然と横一列に並んでこちらへやってくるハイダクの姿が、肉眼で捉えられるくらいになっていた。
「来るぞ――こっちに、来る!」
「“幻想”――イアリアス、起動」
ルナが、イアリアスを起動した。
いきなり陸地が海になり――しかも、アノール族は海の生き物に、天使たちは鳥に。想像を絶する光景に目を奪われていたサンディたちは、「あっ!!」というフライヤの鋭い叫びに、思わず振り返った。フライヤは、相変わらず観戦盤を見ていた。
「対局者が現れました!」
すでにシャトランジの盤は、ガクルックスもケンタウルもすっかり覆いつくし、南のナグザ・ロッサ海域のほうまで進出している。
そこへ、迫りくるハイダクを阻むように、チェスの駒がずらりと現れたのだ。
「チェスの駒!?」
「こっちに向かってくるハイダクと、形が違うぞ」
「おかしいな。ポーンがない……」
チェスをよくするバスコーレンが、違和感に気づいた。ザボンもうなずいた。
「これは、シャトランジではないのでしょうか」
シャトランジという名ではあるが、味方の駒はどう見てもチェスの駒だ。しかも、キングをはじめとするメインの駒だけで、シャトランジのハイダク(歩兵)に該当するポーンは、一基もなかった。
それに、どうも、チェスの駒たちは、ハイダクにくらべて観戦盤に映し出される色が薄いように思えた。
シェハザールも、対局者がようやく現れたことに気づいた。そして、山岳から、彼方を眺めた。
あいだにマルメント山地があっても見える、巨大な銀色のチェスの駒。
「ふふ……ついに、“賢者の黒いタカ”が私のまえに現れたか」
シェハザールも、自身の「王」をはじめとする駒を、表示した。
「これは……!」
「ええ、敵側にも、ついに」
フライヤが持つ観戦盤にも、シャトランジの将軍たちが現れた。ついに歩兵ではなく、将軍や、戦車が動きはじめる。
フライヤたちも、息をつめて対局を見守った。
「“召喚”――キング、“アスラーエル”」
ルナが告げた。
クルクスの居城、女王の間にあるシャトランジ対局盤のキングの石が、ゴロリと回転した。シェハザールのもとにある装置も、変化した。
キングが「地球行き宇宙船」から、「アスラーエル」へ。
「――どういうことだ」
シェハザールは、不審を感じた。
「なにが起こっている?」
王の変更が行われることなど、あるのか?
シェハザール側のハイダクは、現在、自動で動くようになっている。軍人たちのせん滅のためだ。自動操縦で、マス内にいるすべての生き物を破壊するシステムになっている。
ハイダクは、そのまま、a-5まで進んだ。
ルナが「ルークを、a-3へ」と告げた。
ルナ側の銀ルークが、まっすぐ前方に2マス動き、a-3まで移動する。
血塗られたハイダクはさらなる血を求めるように、ひとがいるマスに優先して動く。
e-5にいたハイダクは、さらに、ボリスのいるe-4へ進もうとした。
そこには、ボリスがいる。叫びながら、自分の死を悟ったボリス。ハイダクが山岳を滑り降りてくる。
「ちくしょおおおおお!!」
だれにも聞こえない雄叫びが、金色の膜内で、むなしく反射した。




