349話 古代都市クルクス 1
(終わった)
時間にしては、ほんの三十分ほどだった。
まだ、真夜中だ。カザマは、寝息も立てず熟睡している。
身を起こしたルナは、隣のベッドで、同じように起き上がったセルゲイを見つめた。
「終わったの」
「――終わったね」
「ほんとに、終わったの」
「終わったんだよ」
セルゲイは、静かに涙を流していた。ロメリアの手を離したときと、抱きしめたときと、同じ涙を。
ルナも涙を流していた。ふたりは、抱きしめあった。
――今度こそ、終わったのだ。
眠っていたのか、気を失っていたのか分からない。病室で横になっていたリサは、ミシェルが涙をこぼしながらリサを覗き込んでいるのに気付いた。
「リサ、ごめんな」
ミシェルはなにを謝っているのだろう。
牢屋から、アリサを出してあげられなかったこと?
「――助けに来てくれたじゃん」
リサは笑った。
「たすけられなかった」
顔をくしゃくしゃにして泣くミシェルは、同じ夢を見ていたのだと、リサは分かった。ミシェルが愛おしくて、しかたがなかった。
「助けに来てくれたの、ほんとにうれしかったよ」
アズラエルの、顔を覆っていた手のひらも、涙で濡れていた。
ただただ、勝手に流れあふれていく涙は、アズラエルの悲しみの残骸のようであった。
夜があけようとしている。廊下にはだれもいなかった。アズラエルは、涙まみれのご面相が、だれにも見られていなかったことに安堵し、洗面所で顔を洗った。
「――ルナ」
ずっと。
別れてからずっと、口に出すまいと決めていた名前を、口にした。
とたんに、こらえきれない愛おしさがこぼれ落ちた。
「ルナ」
暗い廊下に、ICUの明かりが落ちている。
ガラス戸の向こうに、ピエトが眠っている。アズラエルは、ピエトに言い聞かせるように、つぶやいた。
「ピエト――俺は、先にもどるぞ」
ガラスの向こうで、ピエトが微笑んだ気がした。
「俺は、俺のそばに、最初から――たいせつなひとがいたのに、ずっと気づかなかったんだな」
ミシェルはきまり悪げにそう言い、リサの手を握った。
「地球行き宇宙船にもどろう、リサ」
「――え?」
リサは目を見張った。
「裁判は?」
「もう、いい」
もう、いいんだ。
ミシェルは、リサの手を取り、額に当てた。
「アズラエルとピエトと一緒に、地球行き宇宙船にもどろう――」
アズラエルは走っていた。
(ルナ!)
何度も、ルナに謝りながら。ルナのそばを離れたことを、詫びながら。
アズラエルの俊足に、カリムは、ついていくのが精いっぱいだ。
「悪いな! カリム!」
「いいえ! 急いでもどりましょう!!」
ピエトとミシェルたちは、ヤンに任せてきた。彼らも、ピエトが動けるようになったら、いっしょに地球行き宇宙船にもどってくる。
アズラエルは、猛スピードで、ルナのもとにもどるだけだ。
アストロス直通の、地球行き宇宙船の特別便に乗ったアズラエルは、すぐさまペリドットに連絡した。
「ペリドット――すまん! 今からアストロスに向かう!」
電話向こうで破顔し、『百人力だ』と言ったペリドットの笑顔が、アズラエルにも見えるようだった。
「――なにが起こってる」
グレンは、苦しくて目が覚めたのだ。息苦しいはずだ。クラウドが、グレンにしがみついて泣いていたのだから。男泣きどころか、迷子になった幼児が親を見つけたときのような、憚りもない大泣きだった。
クラウドは体育会系でないにしろ、180センチ越え、それなりの体格も筋肉も持っている男である。重いことこの上ない。
チャンが呆気にとられた顔でこちらを見ているし、エーリヒも、実に表情豊かな目で――なにもかも分かっているんだと言いたげな目で、見ていた。
「君が先に起きるべきだったんだ」
クラウドは、鼻をかみながらグレンを責めた。
「死んだかと思ったじゃないか」
「……その話は、ずっと昔にすんだはずだったろ」
椿の宿で殴り合って、謝って、終わったはずだ。だが、クラウドの気持ちも、グレンは分かった。きっと、三人そろって同じ夢を見たのだから。
まさかエーリヒも関わっていたのだとは、グレンもクラウドも思わなかった。
「おまえの反骨精神は、前世からか」
グレンは、エーリヒとベンが、ルナたちが死んだあと、クーデターを起こしたことを言ったのだが、エーリヒは肩をすくめた。
「あれは、地の利が悪すぎた。あんな凍土でなければ、われわれのクーデターは成功していたよ」
「こんな夢を見るなんて、第二次バブロスカ革命の記録を発見したからかな」
クラウドは、もう一度盛大に鼻をかみ、
「――アズも見たかな」
「見ていたら」
エーリヒは、小さくつぶやいた。期待を込めて。
「きっと、もどってくるだろうね」
レディ・ミシェルは、イシュマールの部屋の隣の部屋に敷かれた布団で、身を起こしていた。
「――これ、もしかして、リカバリってやつかな?」
どうも、身体に力が漲りすぎている。緑と青の光が、自分を取り巻いているような気がするし――今すぐ、錫杖でラグ・ヴァダの武神をぶん殴りに行ける気がするほど、ミシェルは元気だった。
椿の宿のわかめうどんが恋しいなあ、と思った瞬間に、ミシェルは悟った。
「百五十六代目の、サルーディーバだ」
イマリは、まだ真夜中だというのに荷物をかき集め、身支度をして、フロントに降りていた。
ホテルのフロントは24時間体制だったが、「チェックアウトします!」と叫んだイマリは、さすがに呆れ顔をされた。なにせ、午前三時である。
「お客様……こちらの大陸は、だいじょうぶでございます」
「そうじゃないの! メルーヴァのことじゃないの――急いで、あたし、ここから逃げ、い、いいえ! でかけなきゃならないの! あ、あの、バーダン・シティから、E353に行く便は出てるのよね!?」
「ええ。ですが、宿泊チケットは、まだ五日分もございますが……」
「いいのよ! いいの、キャンセルして!!」
イマリの顔は蒼白になっていた。
こんなところにグズグズしてはいられない。ベンからもらった指輪を取りにもどるだなんて、バカなことをしようとした。宇宙船に置いてきた荷物は、あとから電話すれば送ってもらえるはずだ。
とにかく、すぐにここを離れないと。
ベンが運命の相手だなんて思っていた自分は、なんと浅はかだったのだろう。
(――ベンから逃げなきゃ)
イマリは、ホテルから飛び出て、タクシーを捕まえた。
(あたし、殺されちゃう――!!)
ルナがテントから出たのは、午前五時半――霧が濃かった。
だまって立っていると、凍えそうな寒さだった。ルナは手袋をした手をポケットにつっこみ、足踏みをした。
潮の香りがする。ここからは見えないが、もう少し歩けば、海が見えてくるはずだ。
――ジュエルス海が。
荷物を整理したカザマが、テントから出てきて、ルナの肩に手を置いた。
「なつかしい――気がしませんか」
「します」
ルナは、うなずいた。
アストロスに降り立ってから、ずっと、そんな感じがしていた。
かつてルナは、メルーヴァ姫として、この星で暮らしていた。
地球から来た神と呼ばれたアントニオ――当時は、地球外に居住区を見つけようとしていた天文学者だった彼と、この星の女王だったカザマの娘として。
兄弟神と呼ばれたアスラーエルとアルグレンは、幼馴染みだった。
メルーヴァ姫の記憶なのだろうか。
三千年前とは、あまりにも様変わりしている風景のはずなのに、この大気が、空気が、ルナに、郷愁を思い起こさせる。
昨夜、ついに第二次バブロスカ革命のリハビリが為された。
(うさこは、最後のリハビリだって言ってた)
第二次バブロスカ革命の時代は、ルナの前世で、新しい方から数えて二番目だ。一番近い前世は、リサが母親だったときのあの夢。
(みんな、終わった)
あたしは、ロメリアで終わった。
アズラエルも、アシュエルで終わった。
セルゲイも、アレクセイで終わった。
グレンは、グレンの名を持って、終わった。
三千年前よりずっとまえ――太古から背負い続けてきた、四人の悲しい宿命が。
(ああ――今度こそ)
ルナが目を閉じ、朝霧の匂いを吸い込んだとき、サンディ中佐の声がした。
「おはようございます」
出発の時刻が来たらしい。
「これから海を渡り、クルクスに入ります」
彼女は、白い息を吐きながら、腕時計を見た。
「午前七時半には、クルクスに入れると思います。市長がご用意されているとのことでしたので、朝食はそちらで」
ルナたちは、海岸まで歩いた。だんだん、霧が晴れてくる。
塵となった水気が去るのと同時に、風景も、はっきりと見えてきた――濃い群青色の海が、見渡せるようになる。
静かな波の音が、聞こえる。
そして、彼方に、ジュエルス海の沿岸を覆うように建てられた長い城壁の姿が、うっすらと見えた。
(メルーヴァ姫が、あそこで待ってる)
風光明媚な海には似合わない軍事用の船に、ルナたちは乗った。寒いから中に入った方がいいと勧められたが、ルナは鼻の頭を真っ赤にして、甲板に立っていた。
クルクスの城壁が、徐々にはっきりと、形を成してくる。
ふた柱の、巨像の姿も。
「不思議だな――私も、ここからの風景に覚えがある気がする」
セルゲイは、当時、ドーソンの名を持ち、地球の軍を率いてこの地に降り立ったのだ。
カザマもセルゲイも、ルナとともに、不思議なほどなつかしい、この海の光景を、飽きることもなく見つめていた。
ジュエルス海を越えると、すぐに二柱の巨像が立つ、クルクスの玄関口についた。
ついに、アストロスの古代都市、クルクスに到着した。
ルナたちは、甲板から、陸地へ降りた。
まだ早朝で、ひともまばらだ。観光地であるはずのこの街は、いつもはたくさんの人で賑わっているのだろうが、今日はまったくひと気がない。
ルナは人にも自動車にも気兼ねすることなく、広い道路のど真ん中で、巨大な二神の像を見上げた。
(こっちがアスラーエルで、こっちが、アルグレン……)
ルナにはすぐに分かった。あまりに巨大すぎて、顔すら見えないのだけれども。
アズラエルとグレンそっくりの、ムキマッチョ兄弟神は、鎧を着て、険しい顔で、空を見据えている。刃を下に向けた刀剣を地に立て、柄を握って。
彼らの頭は、雲の中に隠れるかどうかというくらいの高さだ。
(ひゃくめーとるの石像ってナキジーちゃんがゆってたけど、ほんとだ)
ルナは、アスラーエルの足元に来て、自動車より大きい小指を見つめた。
(じつは、アズの小指にもいたずらがきをしたのです……)
ルナは、一瞬しょげた顔をしたが、もう、泣きはしなかった。アズラエルが出て行ったときの悲しみは、もうどこにもなかった。
(アズ、ごめんね)
いたずらがきをしたことにではない。
アズラエルの悲しみに、気づいてあげられなかったことを――ルナは、詫びた。
(アズ、震えてた)
ルナを嫌いになったなんて、思う方が間違いだった。アズラエルははっきりといったではないか。
――おまえを傷つけるかもしれないことのほうが、怖いと。
(もうだいじょうぶだよ、アズ)
もうぜんぶ終わったんだよ。
アズがあたしを、その手にかけることは、もうないんだよ。
そして、誓うように、つぶやいた。
あたしも、この地でがんばる。みんなと一緒に、ラグ・ヴァダの武神から、アストロスを守るために。
「ぜんぶが終わったら」
ルナは、雲に隠れて見えない、アスラーエルとアルグレンの顔に向かって言った。
「今度はあたしが、迎えに行くからね」
――あたしは生きて、アズラエルを迎えに行く。
「われわれは、ここまでです」
気づけば、サンディ中佐がルナたちに向かって敬礼していた。クルクスの街の方から、大きな黒い自動車がやってきて、止まった。
「え?」
「迎えが来ています」
自動車から、スーツ姿の人間が、五人出てきた。最後に後部座席から出てきた、メガネをかけた細身の中年男性が、帽子を取って挨拶をした。
「市長の、ザボン・A・MAJH・サルーディーバです」
彼は、どこか懐かしい笑顔で、微笑んだ。
「クルクスへようこそ」
兄弟神が、「おかえり」と言ってくれたような気が、ルナにはした。




