342話 賢者の青ウサギと最後の駒 1
シェハザールは、吹雪がやんだ数分のあいだ――銀と白の世界である山岳の頂から、はるか広がる平野を見渡した。
真冬の様相である山岳に比べ、広がる平野は――草もほとんどない荒地ではあったが、雪はなかった。荒地の果てに、ここほど高くない山脈が見え、その向こうが、ガクルックスの街並みである。
左手には、広い海が広がっているはず。ジュエルス海だ。
あの海のアクルックス側に、古代都市クルクスがある。
(すべてが始まった、古代都市クルクスが)
シェハザールは武者震いし、舞台になるであろう平野を見下ろした。
あの平野が、三日後には、血に染まるだろう。
武者震いなどではない。
それを思うと、シェハザールは、あまりの罪深さに、手の震えを止められないのだった。
だが彼は、なにがあろうと、メルーヴァについていくと決めていた。
どんな悪しきことも、彼の代わりに背負う。
後世まで、消えることない悪名を残そうとも。
「シェハ」
シャトランジの装置がある洞穴の真ん前にたたずんでいたシェハザールは、ツァオの声に、大地を見下ろしていた顔を上げた。彼は木の椀に、湯気を立てるスープを。片手には、彼のゲンコツほどもある、丸パンをふたつ、持っていた。
「いつもすまんな、ツァオ」
「いや。水はまだ、あるか」
「まだある」
シェハザールは、スープとパンを受け取った。零下の気温に、スープの熱が瞬く間に奪われてゆく。シェハは急いで口にした。熱い汁が、臓腑に沁みわたる。
アストロス軍とL20の軍隊が、メルーヴァたちの、謎の食糧調達ルートに、さまざまな論議をかわしているところだったが、メルーヴァたちにはわけもないことだった。
メルーヴァとシェハザール、そして八騎士のひとりで、唯一の女性であるピャリコは、テレポテーションがつかえる。アストロスの各地にあるスーパーや量販店の倉庫から、失敬して来ればすむ話であった。
おまけに、調査隊が見た「大軍勢」というのは、ただの幻である。
この山岳に、シェハザールを含めて、たった十五人しかいないことを知ったら、彼らはどうするのだろうか。怯えて、彼らを逮捕しにこなかったことを悔やむのだろうか。
メルーヴァに付き従い、南の都市サザンクロスで、現地民に紛れて暮らしている五十人ほどの王宮護衛官たちと、宇宙船の操縦を学んでE353に待機している三十人ほどの軍勢が、メルーヴァ軍総勢だと知ったら、彼らは、歯がみどころの騒ぎではないはずだ。
たった百人ほどの軍隊に、何十万人単位の軍隊が、翻弄されていることになる。
メルーヴァは、原住民たちをことごとくL系惑星群へ置いてきた。
大軍勢を従えようとするラグ・ヴァダの武神を「あざむいた」。
まずはアストロスから。
少人数でアストロスを全滅せしめ、メルーヴァ姫をこの手に。
つぎにラグ・ヴァダへ。
三千年前、ラグ・ヴァダの武神が成し遂げられなかった制覇を成し遂げようと、煽ったのだ。
そう説得し、最小限の人数で動いた。
――犠牲を、増やさぬために。
(あなたと――いうひとは)
メルーヴァは優しい。だれよりも優しく、ひとを傷つけることを嫌がる人間だった。
なにも変わっていない。
彼は、なにも。
ラグ・ヴァダの武神をその身に宿してすら、本質は、変わらない。
食事を終えると、ふたたび風が強くなってきた。シェハザールはツァオとともに、洞穴内に入った。
エタカ・リーナ山岳には、自然の洞穴がいくつもあり、風雨や雪がしのげないというわけではない。だが、その気温は過酷である。食糧はまったく期待できない。動物もいなければ、木の実もないし、山菜と呼べるべき草もない。
ひとは決して住めない山――。
ふたりの目の前には、シャトランジの装置がある。
シェハザールの腰ほどの高さの、円柱型の宝石である。巨大な宝石を、そのままくり抜いて作られた形だった。いったい、何の鉱石でできているかは知らない――まるで宇宙を思わせるかのような、群青色の石柱だった。
イアラ鉱石とも思ったが、こんな大きな結晶を、彼らは知らない。
星々がきらめくかのごとく、気泡がちりばめられ、夜、月の光が洞穴に差し込んだときなどは、魂を奪われるほどの美しさを現わした。
同じ石でできた座席が、円柱の後ろにある。
ツァオは、この石柱に、不吉な美しさを感じると言った。彼は、ここに来てから、一度もこの石には触らない。怯えているのだ。まるで、ひとの命を吸い取って、輝いているようだと。
ツァオだけではない。ほかの皆も、この洞穴へはあまり近寄りたがらなかった。
シェハザールにも、彼らの気持ちはわかった。
円柱の台には、星守りをはめ込む穴があって、八つの穴には、星守りがすべてはめ込まれていた。
ナバに送らせた玉をはめ込むまえから、すでに夜の神の玉である黒い星守りが一個、入っていた。最初から入っていた黒い玉が「王」の玉、つまりシェハザールの玉だ。
残りの七つの穴に星守りをはめ込むと、真砂名の神の玉がひとつ余った。
それは、メルーヴァが持っていった。
「私が“ラクダ”となる」といって。
シェハザールも、これが、L03でたしなんできた、名の通りの「シャトランジ」ではないことはわかっていた。
穴があるのは、「ルフ(戦車)」がふたつ、「ファラス(馬)」がふたつ、「フィール(象)」がふたつ、「シャー(王)」と「フィルズ(将軍)」がひとつずつ。
「シャー(王)」にして、「アリーヤ(棋士)」がシェハザール。
「フィルズ(将軍)」がツァオ。
「ルフ(戦車)」がラフラン。
「ファラス(馬)」がジリカとピャリコ。
「フィール(象)」がボラとペリポ。
「ルフ(戦車)」となるべき人材が、ひとり足りないが、エミールをのぞく「メルーヴァの八騎士」と呼ばれる人材が、ことごとくそろっていた。
「ハイダク(歩兵)」八基には、ほかの王宮護衛官がおさまっている。
合計十五人。山中にいる人数だ。
このシャトランジの起動のために。
(ハイダクは、星守りはいらんのか……)
ハイダク(歩兵)のために、星守りを埋める穴はない。
シェハザールは、この石柱の仕組みをこの数ヶ月、調べてきたが、まったく理解できなかった。占術に詳しいピャリコも、どう構築されているのか、さっぱりわからないと言った。
千年前のサルディオーネがつくったものとはいえ、文献にもほとんど出ていない「いまわしき占術」。
(幻のサルディオーネよ……)
彼の名すら、残っていない。
(いったいなぜ、こんな恐るべきものをおつくりになったのか……)
ツァオは、石柱から目をそらしつつ、言った。
「いつも思っていたが、このシャトランジというゲームには、対局者がおらんな」
ふつうなら、盤の向こうには、対局者がいるはずである。これがシャトランジだというのなら――。
だが、この洞穴にしか、装置はなかった。北のエタカ・リーナ山岳にこれがあるのだから、南のサザンクロスにもあるかもしれないと探したが、結局見つからない。
「おそらく、地球行き宇宙船内にあるのではないか」
シェハザールは、そうつぶやいた。
「私の対局者は、決まっている。――“賢者の黒いタカ”だ」
シェハザールは、まるでひとりごとのように、むかし話をした。幼いころからともにあったツァオも、聞いたことがない話だった。
「昔のことだ。そうだな――二十年も前になるか。私が十歳にもならんころだ」
その日、六歳のシェハザールは、王宮にいた。
幼いころから神童の誉れ高かったシェハザールは、十歳にも満たない子どもでありながら、王宮への出入りが自由だった。上級貴族だったこともあり、――目こぼしされていたかもしれない。
だが、ふつうは、貴族の子どもと言えどそうそう出入りできない王宮に、自由に入ることが許されていた――それだけでも、シェハザールが特別な子どもだったということが伺える。
その日、シェハザールは、分厚い文献を抱えて王宮を走り回っていた。水盆の占いをするサルディオーネを捜していたのである。
彼女は、子ども好きなのでシェハザールに親切だったし、いつも彼の疑問を解き明かしてくれた。今日も、書物の中にわからない言葉があったので、シェハザールは王宮まで赴いたのである。
広い回廊に、サルディオーネはいた。だが、ひとりではなかった。彼女は、ひとりの若い軍人と相対していた。
当時は、L03とL18の仲は、目に見えて険悪ではなかった。王宮内に、L18の軍人がいることは、そうめずらしいことではない。だが、シェハザールは、その日はじめて、軍事惑星の軍人というものを見た。
「そなた、毎日がつまらぬであろう」
軍人は、どうやら、サルディオーネに呼び止められたらしかった。
ひと気のない広い回廊では、サルディオーネの声は、離れたシェハザールのもとまで届く。
「そなたには、すべての者が愚か者に見える。皆が阿呆で、理不尽で、無駄足を踏んでいるように見える――だが、そなたは、世界がそのようなものでできていることも、知っている」
軍人は驚くほど無表情で、サルディオーネの話を聞いていた。だが、立ち去らないのは、彼女の言葉に興味を覚えているからだということは、シェハザールにもわかった。
「そなたのつまらぬ日々は、ずっと続く――今世生きておるかぎり。だが、いつか、地球行き宇宙船に乗ったときだけ、そなたの日々が色彩あふれたものになるだろう」
「地球行き宇宙船」
はじめて軍人がしゃべった。驚くほどクセのない共通語だった。
「そなたの英知でどうにもならなくなったときに、その道が開かれる」
ますます、軍人は興味を示したようだった。無表情のまなこに、爛々と、輝きが灯っている。
「私の英知でどうにもならないときが、来るというのかね?」
それはまるで、そのことが信じられないとでもいわんばかりの言葉だった。つまり彼は、彼の中で、解決しえないことなどいっさいなかったわけである。
「そうだ。地球行き宇宙船には、そなたが唯一、かなわない人間がいる」
「なるほど。奇跡を起こす宇宙船かね――可能性も、なくはない」
「驚くほどちっぽけな、ピンクの、子ウサギがな」
「ほう、ピンクの子ウサギ!」
軍人は驚きに声を大きくしたが、表情は変わらなかった。
「そう――その子ウサギが、そなたに、新しい世界を見せてくれるだろう」
軍人は、シェハザールも驚くほど真剣に聞き、やがてサルディオーネの手を取った。側仕えの者が慌てふためいたが、サルディオーネが制した。
「ありがとう。うるわしき貴女に、祝福を」
あろうことか、その軍人は、サルディオーネのしわがれた手の甲に口づけをした。
「ババ様!」
軍人が去って行ったあと、シェハザールがサルディオーネに駆け寄ると、彼女は嬉しそうにしていた。
「一生結婚もできぬ身。わかい男に口づけられるなど、何十年ぶりかのう」
「ババさま、嬉しいの?」
「おうよ。嬉しいともさ、シェハ。さまざま禁じられた身じゃが、マ・アース・ジャ・ハーナの神も、これくらいは大目に見てくれるじゃろうて」
シェハザールは、回廊の向こうに去っていく軍人の背を見つめた。
「おまえも同じよ、シェハ」
「え?」
「でもそなたは、あやつほど退屈を持て余すことはないじゃろう――メルーヴァがおるゆえな」
「はい! ババさま、私は、メルーヴァ様を一生お守りいたします!」
サルディオーネはシェハの頭を撫でながら言った。
「“忠誠を誓う青ウサギ”よ。そなたの真名は賢者。よくおぼえておけ、賢者など、めったにおるものではない」
「けんじゃ?」
「だが、哀れなことに、そなたは忠義高き人間として生まれかわった。そのたぐいまれなる英知は、そなたの本望とは、違うところにつかわれるであろう」
「……ババさま?」
シェハザールには、意味がわからなかった。彼女の憂い顔の意味も。
「賢者と賢者。いつかそなたと、あやつは、どこかで対決することになる」
「ババ様が、そうおっしゃられたのか……!」
ツァオは初耳だ、と唸った。
「そうだ。だれにも言ったことはなかった。メルーヴァ様にも」
あの軍人は、黒い軍服だった。
彼が、L18の心理作戦部隊長、エーリヒ・F・ゲルハルトだと、シェハザールが知ったのはいつだったか。
ツァオは、寒さのためか、興奮のためか、よくわからない震えを身にまとい、声高に言った。
「ルフ(戦車)の駒になるべき、最後のひとりは、まだ分からんのか」
「うむ……」
シェハザールは、観戦盤を見つめながら思案しつつ、つぶやいた。
「いざとなったら、エミールを、メルーヴァ様のもとから呼ぼう」
メルーヴァは、「いずれ現れるからだいじょうぶだ」と言ったが、どう考えても、八騎士で固めるのがふさわしいのではないか――と、ツァオも思っていた。
エミールは八騎士の中でも、メルーヴァへの心酔度合いが高い。それはもはや、盲目的ともいえた。幼いころからメルーヴァとともに暮らしてきたシェハやツァオとは、違った形の盲愛だ。
彼はラフランと同じく、平民出でありながら、王宮護衛官に抜擢された経歴の持ち主。
メルーヴァの口添えによって、だ。
メルーヴァがいなければ、飢え死んでいたであろう彼らは、その若さもあって、メルーヴァを盲信していた。
エミールは、特にメルーヴァの影武者をつとめ、L18に逮捕されてから拷問にも耐え抜き、さらにその後、メルーヴァに助け出されてからは、ますますメルーヴァから離れなくなった。
なにがあってもこの身を持ってメルーヴァ様をお守りすると、毎日言い続けているエミールは、メルーヴァ隊を動かない。
「ハイダクの中に、ふさわしい武人はおらんか――」
言いかけ、ひとの気配を感じて、ツァオは口をつぐんだ。
ザク、と固い雪を踏みしめる音がした。
シェハザールは、瞬時に悟った。
――ああ、最後の、「戦車」が来た。
これで準備は、整った。
ラグ・ヴァダの武神の声が、シェハザールにも届いた。
洞穴の入り口に姿を現した三人を見て――仲間が呼びに来たと思ったツァオは、目を見開いた。
たしかに、仲間にはちがいなかった。――だが、むかしの。
「モハどの……、ヒュピテム、ダスカ!」
見間違いではない。彼らは、L03の王宮に残してきた、かつての仲間、モハとヒュピテム、ダスカだった。
一度は、袂を分かったはずの。
「息災か――ツァオ」
先頭に立っていたのは、モハだ。
シェハザール、ツァオと同じ、上級貴族の出。
彼らは、厚く被ったフードを脱ぎ、洞穴へ、一礼して入った。
「お久しぶりです、モハどの。ヒュピテム、ダスカよ」




