340話 アズラエルを迎えにいくピエトと、イアリアスの完成 1
「――終わった」
ミシェルは、パレットを放り投げてソファに沈んだ。
アストロス到着ぎりぎりになってしまったけれど、なんとか絵は完成した。
ララが用意してくれた高級ソファは、すでに気の毒なくらい絵の具だらけ。ミシェルは、疲れ果ててこのソファで寝ることもあったので、ソファの寝心地の良さには、大感謝だったが。
ミシェルが疲れ果てたのは、絵を描く作業のためというより、だいたい、自分の化身とのやりとりで精神的に疲れ果てた、というのが正しかった。
なにせ、彼の指示というのは、これでもかというくらい、二転三転したからである。
最初に「偉大なる青いネコ」が描いてくれといった絵は、最初の「予言の絵」とあまり変わらない絵面だった。
右手に月の女神と夜の神、真昼の神がいて、彼らと真向かうように、太陽の神が。そして太陽の神と同じ方向に、ラグ・ヴァダの女王を配置。
月の女神めがけて突進する、白いライオン、それをはばむ茶色のライオンと、銀色のトラ。
奥殿の予言の絵と、多少ちがう箇所はあるが、ミシェルはそのとおりに描いた。だが、できあがったとたん、全消しを命じられた。
この絵を塗りつぶし、上に、別の絵を描けというのだ。
青い猫とミシェルは、取っ組み合いをした。自分同士で大ゲンカをし――互いに引っかきあい、ネコのひっかき傷をつくりあい、ペチペチとネコパンチをしあった。
『わたしは、引かんぞ』
十五センチサイズのぬいぐるみでありながら、161センチのミシェルと真剣勝負をくりひろげた偉大なる青いネコは、ぜいぜいと床に手をつき、ニャーとうなった。
『この宇宙船に残される者たちの命は、この絵にかかっているのだ……!』
ミシェルも同じく、ぜいぜいと息をつき、ぬいぐるみのくせに、肉球はぷにぷにしているくせに、爪まである青いネコに文句を言い、
「――わかった」
と、ひっかき傷だらけの、涙目で承諾した。
この宇宙船を動かす艦長たちや、ミシェルたちが暮らす陸上ではなく、地下で宇宙船を動かす作業にたずさわっている者たちは、危険が迫ったとしても、この宇宙船から逃げることはできない。
ミシェルは、これは任務なのだと思い直して、向かうことにした。
絵を描くことだと思えば、せっかく描いた絵を消してしまうのは悔しいし、悲しい。
別のキャンバスに描き直すのではなく、塗りつぶして別の絵を描けと命じられるのである。
「わかった――描く」
『頼む、ミシェル』
誇り高いこのネコに、そんなに悲痛な声で頼みごとをされたのもはじめてだった。
次に描いた絵は、ラグ・ヴァダの女王の絵だった。美しい女王の絵が仕上がったところで、やはり塗りつぶしを命じられる。
さすがにその日は、消すことができず泣きながら家に帰り、クラウドの胸で泣いたら、クラウドがしあわせそうな顔をしたので殴り倒してアトリエにもどってきた。
だれも、ミシェルの気持ちを分かってはくれないのだ。
出てきた手前、ルナを呼ぶのもめんどうになって、ミシェルはアトリエのソファでふて寝し――起きたら、偉大なる青いネコが、悲しげな顔でミシェルを見つめていた。
「三度目の、正直だよ」
ミシェルはそう言い、最後の絵を描きはじめた。ラグ・ヴァダの女王を塗りつぶした上に描きはじめた絵は、なんと地球行き宇宙船の絵だった。
これが完成する二日前から、青いネコは、ミシェルのまえに姿を現さなくなった。部屋にあるお城にも。
まるで、これが最後だから、ミシェルにすっかり任せると、言われている気がした。
「完成したよ」
ミネラルウォーターを飲みながらつぶやいたミシェルだったが、やはり、偉大なる青いネコは現れなかった。
やっとこれで、完成なのか。
もう塗りつぶさなくていいらしい。
ミシェルはほっとして、ソファに沈んだところだった。
アトリエの扉がノックされたので、ミシェルは飛び上がった。一瞬、ルナがおべんとうを持ってきてくれたのかと思ったが、ルナは、先日アズラエルが降船したので、ショックでふさぎこんだままだ。来られるはずはなかった。
おそるおそるカギを開けると、なんのことはない――ララとイシュマールが立っていた。
「そろそろ、完成すると、偉大なる青いネコが告げに来ての」
イシュマールは言った。
「描きあがったばかりだからまだ乾いてない。丁重に動かさなきゃいけないね」
ララも言い、身をかがめてアトリエに入ってきて、「ワオ!」と歓声を上げた。
「これは、地球行き宇宙船かい?」
「そうみたい」
ミシェルは、なにしろ、この巨大な宇宙船の全体像など見たこともないのである。
だが青いネコは、「地球行き宇宙船だ」と言った。
「もったいない」
ララは、白い顔を苦悩のために真っ赤にして、叫んだ。
「もったいない! これが、燃えちまうっていうんだろ!?」
そうだ。この絵は、いざというとき、地球行き宇宙船の運命を背負って、燃え上がる。
偉大なる青いネコからそれを聞いたとき、ミシェルは、最後まで描き切ることを決意したのだ。
ミシェルもイシュマールもなにか言う前に、ララは手早く合図をしてカメラマンを呼び、四方八方あらゆる角度から、ミシェルの絵を撮りはじめた。
「この絵は消えてしまうとしても、記録を残さない手はないだろ!」
「あきらめんか、ララ。人命のためじゃ」
「でも、もったいない!!」
ララは、絵に、顔をこれでもかと近づけて、油彩のかぐわしきとはいえない香りをかぎ、「ミシェルの匂いがする……」と恍惚となった。
「ヘンタイは置いといて、ミシェルは、ようがんばった」
イシュマールが、元気のないミシェルの肩をたたいて、言った。
「絵描きとしては、悔しい思いをしたのう……せっかく描いた絵を、何度も塗りつぶして」
ミシェルの両目に、涙がたまりはじめた。
「じゃが、見事に、やり遂げた」
イシュマールの肩に顔を埋めて、ミシェルはすこし、泣いた。
「そうだよ――なんて芳香だ。ミシェルの魂の香りがするよ」
ララは両手を広げて、今考え得る――この世に存在し、ララが知りうる、あらゆる賛辞の言葉を叫びまくり、
「一層下には、ラグ・ヴァダの女王が、その下には、さらに予言の絵。まるでミシェルのようだ。二層も三層も神秘をひそめて――この絵は、三枚を含めてひとつの絵さ。こんな秘めた絵を描けるのは偉大なるあなたしかいない――一生あたしは、この下にひそめられた絵画に思いをはせるよ――燃え尽きちまう生あるもののはかなさ――この絵は息づいている! 高潔なまごころと、神秘なる色気が――ああ!!」
ララはひざまづいて絶叫し、両手を組んで、うっとりと絵に見とれた。
「ヘンタイは放っておいて、絵を運んでくださらんか、兄さんがた」
アトリエの外に待機していたララの部下たちが、まだ乾いていない絵を、汚してしまわないように、慎重に運び始めた。
「ああ――あれがもう、写真でしか見られないなんて――写真じゃミシェルの匂いがしない――」
嘆くララは、暴走しないよう、シグルスが厳重に管理していた。
「ルナの様子はどうじゃ」
イシュマールの言葉に、ミシェルは沈んだ顔を見せた。ララが、未練がましく絵を追いかけていくのをながめつつ。
「ぜんぜんダメ。泣きっぱなしなの。――あのさ、おじいちゃん」
「うん?」
「あたしも、あの絵が奥殿に飾られるとこまで見たいけど、今日はこのまま、いったんウチに帰るね。あした、神社に行くから」
「ほうか。そうしたほうがいいかもしれんな」
「うん。いまは、なるべくルナのそばにいてあげたいの」
「……元気を出せと、そう言ったってくれ」
イシュマールも、ルナにかける言葉を見失っているようだった。だが彼も、アストロス到着が近づいて、忙しいのだ。ミシェルにそういうと、自分の名を呼ぶ声に向かって、「今行くわい! 待っとれ!」と叫んで出て行った。
ミシェルも、汚れっぱなしの道具を洗い、片づけて、アトリエの外に出るころには、すでに陽が傾いていた。
(アズラエル……)
ミシェルは、部屋に閉じこもったきりのルナの姿を思い浮かべて、胸が痛んだ。
(お願いだから、もどってきてよ)




