337話 ルール・ブック 2
「バンビ! すごい雷だぞ、見たか!?」
ルシヤが飛び込んできた。
「ルシヤさん! ここは別のひとの部屋ですよ! 勝手に入っちゃいけませんって。すいません……」
ジェイクは、ノックしてから入ってきた。
「いいえ。かまいませんよ」
レイーダが立ち、お茶の用意をし始めた。
「ごめんなさい。バンビの部屋だと思ったんだ」
ルシヤは謝ってから、
「こんばんは! わたしはルシヤだ!」
ルシヤは、興奮のせいか、人見知りもせず親子にあいさつした。朝からずっと元気いっぱいだ。そろそろ電池が切れるのではないだろうか。
「スペツヘムと言います」
「レイーダです」
挨拶も遮るように、外は猛然と雨が降り始めた。雲の中から水瓶でもひっくり返したような豪雨が。
一メートル先も見えない水流は、まるで、島を守る「壁」のようでもあった。
「バンビさん、それを読んでください。できれば、なるべく早く」
「え、ええ」
「すべて書いてあります。この雨のことも。――あなたが“不死鳥”を伴って、封印を施しに来たことも、なにもかも」
「は?」
「予言されていたことだったんです。すべては」
バンビは貪るように冊子を読んだ。それこそ寝食も忘れて。
薄い冊子だったが、書いてあることが専門的な上、ひどく難解だったので――バンビにとっては――読むのにたいそう苦労をした。いちいち調べ物をしながらだったために、かなり時間を要した。
バンビは、チェス程度なら知っているが、そもそもシャトランジというものはまったく知らない。それに、メモ書きのように、たびたび予言が挟まれているものだから、だいぶ混乱したのだった。
バンビが、ハンシックに住んだばかりのころと似たような生活になったため、ルシヤが心配したが、祖父やジェイクに言い含められているのか、話しかけてはこなかった。
雨は降り続けた。
三日三晩雨は降り続け、外に出られないルシヤがイライラし始めたころ、雨はやんだ――わけではなく、不思議な移動を開始した。
雨雲だけが、そのままそっくり島の周りに移動した。島の上空は青空が広がっているのだが、港の向こう――海は嵐と大雨。まるで島を守るように、雨の壁が立ちふさがっているのは変わらない。
こんな不思議な光景は、島の者も初めて見る。ルシヤはもちろん、島の皆が外に出て、その光景を眺めた。
部屋にこもりきりのバンビ以外。
(やばいわコレ)
三日かけて、バンビは冊子を読み終えた。
(どうしよう)
疲れ切った眼は、真上を向いていた。天井を――呆然と。冊子を膝の上に広げて。
――イアリアスは、シャトランジでもあり、チェスでもある。そして、まったくちがうものでもある。
地球行き宇宙船とクルクスの女王の城にある対局盤の意味も、バンビにはようやくわかった。
アストロスに設置されたシャトランジは、変わらない。多少の変化はあるが、大本は変わらない。バンビと九庵が施してきた封印は、そのためのものだった。メルーヴァ軍のほうは、シャトランジの駒で動くだろう。
しかし、メルーヴァは「ルール・ブック」を持っている。おそらくそれは、「王」となるシェハザールが、すでに読み込んでいるだろう。
かたや、地球行き宇宙船サイドは、シャトランジからアヘドレース(チェス)、そして、さらに、イアリアスに“進化”する。
果たして、地球行き宇宙船のイアリアスに、ルール・ブックはあるのだろうか?
すくなくとも、バンビはありかを聞いてはいなかった。
なんということだろう。こんなギリギリになって、ルール・ブックが見つかるとは。
そもそもこれは、ザボンとフライヤが、血眼になって探していたものだ。
(このルール・ブックも、進化したら用はなくなるかもしれないけど)
これを、なんとしてもエーリヒに渡さなければ。
でなければ彼は、ルールも知らずに勝負に挑むことになるのではないか?
バンビはフラフラのまま立ち上がり――すぐにもこの冊子のコピーを地球行き宇宙船に送らねばと意気込んで部屋のドアを開けた――すぐの廊下に、ルシヤにシュナイクルにジェイク、スペツヘムとレイーダ、ヨドとフドまで勢ぞろいしていたので、危うく気絶するところだった。
「気絶するなバンビ!!」
久しぶりのルシヤの張り手は強烈だった。お尻に強烈な一発。スペツヘムがちょっぴり怯んだほどだ。
気絶から免れたバンビは、なにか言う前にシュナイクルにパンを口に押し込まれた。ジェイクはスープ片手にスタンバイしている。
「待ってたんだぞ! なにか手伝えることがあるなら言え!」
ルシヤが忙しくオレンジを剥きながら叫んだ。バンビはあわててパンを飲み干し、カラカラの口の中を潤すために、「み、水を下さい」と言った。
ヨドが、わざわざペットボトルのふたを開けて、渡してくれた。
「あの、ありがとう……その、読んでいるあいだもスープとか、差し入れてくれて。おかげで飢えずにすんだわ」
バンビはほんとうに寝食なくして読んでいたわけではない。以前、同じことをして倒れたので、今回は、短いが睡眠もとったし、食事もとった。サンドイッチとか、水とか、スープばかりだったが。
「礼はいいから、してほしいことを言え!」
ルシヤはせっかちだった。
「こ、これを――これのコピーを、地球行き宇宙船の、ルナ・D・バーントシェントの屋敷の、そうだ、避難しているかもしれないし、えっと、pi=poのちこたんに――」
バンビがいい終わる前に、ヨドがひったくって走り出した。
「地球行き宇宙船のルナ・D・バーントシェント様宅のpi=po、ちこたん宛てですね! わかりました!!」
実際、ヨドは送り先を間違えることなく、恐ろしく速く手配しようとしてくれたのだが――結果として、ダメだった。
「だめ?」
「それが……」
なんと、あの島を覆う大豪雨が邪魔をして、シャインもFAXもつかえない、郵便物さえ送れない――さらには、ネットでデータを送ることもできない――というのである。
「ええっ!?」
想定外だ。
島をおそらく――シャトランジから守ってくれる「雨」が邪魔をして、一切の侵入も、通信も、妨害しているというのである。
「おそらく、ナミ大陸での戦いが終わるまで――というか、あの雨がやむまで、港に船は寄せられませんし、つまり郵便も、荷物も、こちらからも送れないし、届けてもらうこともできそうにないみたい……」
ヨドはシュンとして言った。
「軍は無理でしょうか」
レイーダは言ったが、ヨドは首を振った。
そもそもが見てわかる通り、軍の潜水艦だろうが船だろうが、近づけるような天候ではない。
この豪雨は、シャトランジから、ジュセ大陸を守るための防壁である。
すっかりお手上げ状態で、皆が沈黙してしまった中に、ふいに割り込んできた声があった。バンビたちは分からない言語――村人だ。ヨドが聞き返し、首を傾げた。
「……え?」
「なんて言っているんです?」
ヨドが困惑しているようだったので、バンビは聞いた。
ヨドは、ためらいがちに口にした。
「――郵便物なら、“天使”に頼めって」
「え?」
「天使? 天使よね? 今、天使ってたしかに言ったわよね?」
ヨドが同意を得るために周りに聞いた。レイーダとスペツヘムも、遠慮がちだったが、「そう聞こえました」と言った。
「天使……」
バンビがつぶやくと、村人はさらに何か言った。ヨドが通訳した。
「長老が、郵便物は天使に頼めと。一週間前、ラグ・ヴァダから、天使たちがメルーヴァ姫様の軍勢に加勢しようとやってきている。もうアストロスに着いているころだ。彼らなら、あの豪雨の中を行き来できると」
皆が、にわかに信じられない顔をした――そもそも、アストロス人は「天使」なるものを見たことがないし、L系惑星群の人間だって、そうそう見ることはない。L02が天使の星ということは知っているけれど。
シュナイクルたちは、ニックを知ってはいるが、彼が羽根を出したところは見たことがない。すなわち、普通の人間と変わらない彼しか見ていないのだ。
天使とは、ほとんど想像上の生物――この場にいる、皆の認識では、そうだった。
だが、唐突に、バンビは思い出した。
セパイローの遺跡の中で見た光景のひとつを。
ラグ・ヴァダの女神、L02のトゥーウァエという鳥の神、バトルジャーヤの武の神の言葉を――。
“アストロスの民は守られましょう”
ラグ・ヴァダの女神が優しい声でそう告げた。
“ヒアラの民は、すべて救われることはないやもしれぬ。先ほど、ヒアラが自らそう告げた”
バトルジャーヤはそう言った。
“援軍が来るだろう。すでに旅立っている。必ず間に合うだろう”
天使は微笑んだ。
――まさか本当に、天使の軍勢が助けに来た?
バンビは冊子をめくった。後半に書かれている一文を見直した。
――法の書物を運ぶは、鳥の神。
バンビはがばっと顔を上げ、村人に聞いた。
「天使を呼ぶにはどうすればいいの!?」
通信もできない状況である。村人は、なんのことはないように、微笑んで言った。
「願え」、と。
「え? いや、願うって――」
バンビが困惑した顔をしたとき、ヨドが「ひえっ」とマヌケな声を上げて腰を抜かした。
ルシヤが、口をまん丸に開けて、窓のほうを見つめている。
コツコツ、と二度のノックで、バンビはようやく窓に気づき――失神した。
窓の外には――ここはホテルの最上階である――天使がニコニコと微笑みながら、飛んでいたからだ。
なんだか、大きさが、普通の人の倍くらいあった。
「だれか、わたしを呼びましたか?」
十月に入ったその日の朝、ちこたんは郵便物を受け取った。
先日、アズラエルが屋敷を出て行ってからというもの、ルナの元気がない。ちこたんはとても心配だった。
そんな折に届いた郵便物だ。アズラエル宛てのものなら、それを理由にアズラエルを引っ張ってこられるかもしれないし、ルナ宛てだったら、なにか元気の出るものが入っていたらいいなと思うちこたんだった。だいたい、郵便物が届くと、ルナは嬉しそうにしているからだ。
しかし、宛名を見たちこたんは驚いた。
『――ちこたん?』
宛名は、ちこたん本体だった。
『ちこたんに、郵便物が届きましたか?』
不思議だった。今まで、ちこたんに郵便物が届いたことは一回もない。
――送り主は。
『バンビ様、ですか?』
ちこたんは、首がないので本体を斜めにかしげながら、封筒を開いた。ていねいに封をされた封筒の中身は、冊子と、メモが入っていた。
『これは……』
ちこたんに、重要な任務が課せられました。
ピポピポパ、と仕事を開始するときの信号音を鳴らせて、ちこたんは、それを大切そうにルナの車――ノーチェ555にしまった。
「バンビ! シュバリエがちこたんに届けてくれたって! あれ? バンビは?」
ジャマル島では、とある村人の民家から「シャトランジの観戦盤」が出てきて、バンビがまた気絶したところだった。スペツヘム親子も、そろそろ動揺しなくなってきた。
ヨドの、「長老様、もうなにも隠してるものとかありませんよね!?」という怒号が聞こえる。
「シュバリエが来たのか」
メシを食っていけばよかったのに。とシュナイクルが残念そうな顔をした。
願いに応えてやってきてくれた天使は、シュバリエという名だった。シュバリエは、封筒を届けたことを、バンビに伝えてから、すぐに仲間の元へもどった。
「戦いが終わったら、星に帰る前にまた遊びに来るってさ」
ルシヤは、ちょっぴり残念そうに言った。
「じいちゃん、わたしたちは、ずっと待つだけなのかな?」
「待つのは大切なことだ」
「でも、つまんないな……」
ルシヤの言い分も分かる。仲間外れの気がしているのだろう。
「ルシヤ。ひとにはな、役割がある」
シュナイクルは言った。
「動くべきときと、そうでないときが。役割がないときは、静かに、いつもどおりの暮らしをしているべきだ。そのうち、役割がやってくる」
不貞腐れが治らないところを見ると、ルシヤはどうやら納得していないようだ。
「ピエトとネイシャはどうしてるかな?」
「ネイシャはバーダンのほうへ避難すると言っていたぞ。行ってみるか?」
「あの雨があるかぎり、ここから出られないだろう?」
携帯電話もつながらないし、メールもできないのだ。ルシヤは口を尖らせたが。
「シュバリエが運んでくれるかもしれんぞ」
シュナイクルの言葉に、ルシヤはあわてて言った。
「いいよ。……ここにいる」
ルシヤは、退屈はしていないようだった。ただ、ルナたちのことが心配でならないだけだろう。
ここは、村人も親切な者ばかりだ。バンビにくっついてきたシュナイクルらも歓迎し、もてなしてくれる。
水もいいし、ひともいい。作物も豊かだ。食い物も口に合う。
これからアストロスに降りたときは、遊びに来るのもいいかもしれない。旅費はだいぶかかるが。
アズラエルが宇宙船を降りたことを、彼らは知らない。
ピエトが、追って行ったことも。
地球行き宇宙船がアストロスに到着する、ほんの一週間前のことだった。




