335話 サヨナラ 1
ニックの言葉は正解だ。
アズラエルは、自分がアストロスの兄神とシンクロできない理由も知っていた。いいや――シンクロはおそらくできるのだ、している――といっていい。
シンクロするがゆえに、ますます増幅される恐怖。
アズラエルだけではない。
アストロスの兄神も怯えている。
アズラエルのすべての前世が怯えている。
――ルナをその手にかけてしまわないか、ということを。
「それは、たしかか」
ペリドットは、アストロス到着目前になって、任務から降りると言いだしたアズラエルを、怒るでもなく、静かな双眸で見つめた。
この男は、普段はいいかげんなくせに、いきなりひとを見透かすような目をする。
「たしかだ。……おまえだって、分かってるんだろう。俺もそうだが、アストロスの兄神が怯えてるってことも」
「……」
なにに? ラグ・ヴァダの武神にではない。
ルナを、その手にかけてしまうことだ。
「俺は――俺は、信じたくはねえが、ずっと、ルナを――この手で、」
「アズラエル」
「俺が、おまえたちの計画を台無しにしないと、どうやったら思える? 俺が、なにかの間違いで、またルナを手にかけてしまったら?」
すべては、水の泡だ。
アズラエルに、表情はなかった。すべてを閉じ込めた、なにもない表情だった。
それがペリドットには、あまりにも悲痛に感じられた。
「アントニオに聞いたところによると、この計画では、グレンひとりでも、ラグ・ヴァダの武神は倒せる」
「ああ、そうだ」
それは間違いがなかった。アストロスの兄弟神のどちらかでもいい。
「俺を、任務から外したほうがいい」
「……」
ペリドットは返事をしなかった。
「それで、おまえはどうする気だ」
「しばらく、ルナから離れる」
「離れる?」
「……別の任務に着く。ボディガードだ。俺はL系惑星群にもどる」
「このまま、地球には行かないということだな?」
「そうだ。……俺が今、ルナのそばにいるのは危ない」
「ルナに対して明確な殺意が?」
「そんなものはねえ。思ったことも、ねえよ」
そうだった。でも、怯えている。アズラエルのすべてが。ルナを傷つけることを。
ラグ・ヴァダの武神との戦いで、アズラエルは剣を持つ。
まかり間違って、ルナを傷つけるようなことにでもなったら。
「アズラエル」
ペリドットは、変わらぬ静かな声で言った。
「おまえがそうしたほうがいいというなら、そうしたほうがいい。――だが」
背を向けたアズラエルに、ペリドットの言葉が染みた。
「俺は、おまえを疑ったことは一度もない」
アズラエルは、不覚にも涙が出るところだった。だまって、遊園地をあとにした。
屋敷にもどったアズラエルは、感慨深い気持ちで、屋敷の外観をながめた。
(ふたたび、ここに帰ってくることは、できるか?)
ドローレスに、「ルナと結婚させてください」と、はっきり言えなかったことを、心のどこかで安心していた。アズラエルの迷いを、ドローレスも見抜いていたかもしれない。
しかし、ドローレスは、アズラエルに言った。
「ルナを頼む」と。
アズラエルは、決意して、拳を握りしめた。
「おかえり、アズ!」
部屋にもどると、ルナがいた。
あいかわらず、ZOOカードをならべて、似合わない小難しい顔をして。
でも、アズラエルを見ると、ほころぶような笑顔を見せる。
アズラエルは笑おうとして、失敗した。
もう、この笑顔が見れなくなる。アホ面をつつくこともできなくなる。
しばらくだと――ほんのしばらくの別れだと、どうしてそう、言い切れる?
「ルナ」
アズラエルは、冷静に告げた。――つとめて。
「契約解消だ」
ルナの顔が凍り付いた。
「……あじゅ?」
ルナは一瞬、すべての表情をなくし、それから、無理に笑みをつくった。
(わかっている)
こんな顔をさせたいのではない。だが、自分はそうしなければいけない。ルナから、離れなければならない。
自分の運命から? いや、ルナを、この手にかけてしまうことからだ。
あんな絶望は、もうたくさんだ。
アズラエルは、深く深呼吸をし、ルナに近づかないようにして、ソファに座った。
「ルナ、――俺は、最初の予定通り、ミシェルのボディガードとして、宇宙船を降りる。つまり、メルーヴァ討伐の任務には参加しねえし、今回のツアーでは地球に行けない」
ルナはこくりと唾をのみ、信じられない顔をした。
「――どうして?」
「おまえは不安じゃなかったのか」
ルナは、アズラエルがなにを言っているのか、ほんとうに分からないようだった。
これが、ひとと神の差なのだろうか。
ルナは強靭だ。自分では、まったく気づかないだろうが、彼女は強靭だ。
「俺に、殺されるかもしれないとは、考えなかったのか」
「――!」
ルナの目から、みるみる、涙があふれ出た。ルナは慌てて、袖で涙をぬぐった。
「ち、ちがうの! 怖くて、怖くて、泣いてるんじゃないの!」
「ルナ」
「……なんで? どうして? 終わったってゆったよ?」
ルナは、アズラエルの分厚い手を、両手で握った。
「みんなおわったの! アズ、みんな――」
「俺は、そうは思えねえ」
アズラエルの手は震えていた。
ルナは、驚き、それから、必死で――まるで縋るかのように、震えるその手を握り返した。だが、アズラエルの震えは止まらない。
「俺は――怖いよ」
ぽつりと、彼は言った。アズラエルの口から、こんなに弱々しい声が出るなんて、思っても見なかったルナだった。
「また、おまえを、手にかけてしまうかもしれないことが」
「アズ」
「だが信じてくれ。俺は――おまえを、殺したいと思ったことなんて、ほんとうに、一度もないんだ」
今世は。そうだった。誓える。
「アズ――」
ルナは泣きながら言った。
「信じてるよ。あたし、信じてるよ?」
「俺が、俺自身を、信じられない」
ルナはその言葉に驚愕した。アズラエルは、ゆっくり、ルナの手を、自分の手から離した。そして、ルナの額にキスをした。
今まで一度も、そんなことをしなかったアズラエルが、キスをした。
どうして?
「俺は、おまえのボディガードだ」
これじゃ、しばらくの別れなんかじゃなく、まるで――。
「おまえを傷つける可能性のあるものを、おまえのそばに置いておくことはできない」
「……」
ルナはなにも言えなかった。
「ピエトに話してくる」
ルナは、ふらふらと、部屋を出た。――廊下に、呆然とたたずんだ。混乱して、頭がおかしくなりそうなのに、なにも考えられない。
(うさこ、うさこ、うさこ……)
ルナは呪文のように、月を眺める子ウサギを呼び続けていたが、応答はない。
(うさこ)
ルナの様子がおかしいのはピエトにもわかった。ルナの背を見つめながら、「どうしたの?」と、緊迫した顔で、ピエトが部屋に入ってくる。
ルナとアズラエルと離れ離れになることに、かなり神経質なピエトだ。この、「短い」別れを、重く告げてはならない。
「ピエト」
アズラエルは、ピエトを膝に乗せ、一度だけ、抱きしめた。
「ピエト、俺は、宇宙船を降りなきゃいけなくなった」
「えっ――!?」
ピエトの目が、まん丸くなった。
「ウソだろ!? なんで……」
「いいか、よく聞け」
アズラエルはピエトを興奮させないように、背を撫でた。
「ミシェルの話は聞いてるだろう。――ああ、そうだ、男のほう」
ピエトは、こくん、とうなずいた。
「俺は、ミシェルのボディガードをするために、宇宙船を降りなきゃいけねえ。おまえは、宇宙船に残って、ルナのそばにいるんだ」
ピエトもまた、ルナと同じように、こくりと息をのむ。
「俺は、今回は地球には行けねえが、宇宙船役員になるための最低航路までは到達した。……ミシェルのボディガードの仕事が終わったら、L55でおまえらが帰ってくるのを待つ。だから、おまえはここに残れ」
「な、なんで」
ピエトは、やっとの思いで言った。
「おまえを連れて行ってもいいが、ミシェルはマフィアに狙われてる。俺と一緒にいるより、宇宙船のほうが安全だからだ」
「ちがうよ!」
ピエトは叫んだ。
「どうして、アズラエルは降りるの?」
ピエトはごまかされない。アズラエルが今言ったことも嘘ではないが、アズラエルの本当の気持ちを知りたがっている。アズラエルはひとつ嘆息し――やがて、言った。
「俺がルナのそばにいると、危険だからだ」
「……!」
アズラエルとピエトの話は、一時間にも及んだかもしれない。とにかくルナは、あまりにショックが大きすぎて、時間の感覚がなかった。ルナは一時間ものあいだ、廊下に立ち尽くしていたことになる。
部屋から、ピエトが出て来た。彼は神妙な顔をしていたが、泣いてはいなかった。ずいぶん、困惑した顔をしている。
それどころか、ルナの手を取り、
「アズラエルは、ぜったいもどってくる。ルナのところへ。だから、安心して」
とまるで導きの子ウサギのようなことをいうものだから、ますます、ルナはなにも言えなくなった。
アズラエルが説得しなければならない相手は、ルナとピエトだけではなかった。この屋敷の者全員が、「アストロスの任務」に関わっているからだ。
アズラエルは、食事のあと、大広間に皆を集めて、降船の意志を告げた。
皆が皆、反対すると思いきや、反応はさまざまだった。
「しかたのねえことだ、それは。アズラエルのいうことも一理ある」
バーガスは言った。
「アズラエルはミシェルの任務を先に請け負った。アストロスの任務より先にだ。任務のでかい小さいは関係ねえよ。最初に請け負った任務をまっとうすべきだ」
メフラー商社の傭兵ならな、と付け加えて。
「それに、話に聞けば、L20からだいぶでかい軍勢が来てるって話で」
レオナも言った。
「メフラー商社とアダム・ファミリーの連中が呼ばれたのは、たぶん諜報のためだよ。どう考えても、このあいだアストロスで見つかったメルーヴァ軍より、L20の軍が多い」
セシルも、レオナがもらった任務要綱の用紙を見つめて言った。
「マクハラン少将の大隊が、エリアE002にあって、アズサ中将の隊まで、地球行き宇宙船の警備の補強に入ってるって。これじゃ、どう考えてもメルーヴァに勝ち目はないし、アズラエルひとりがいなくても、戦況に変わりはない――だいじょうぶなんじゃないかな?」
もしかしたら、「宇宙船の特殊部隊」の出番はなく、メルーヴァはあっけなく逮捕されて終わりかもしれない。
それが、傭兵組の意見だった。
「……ペリドットさんは、なんて?」
思いのほか、アズラエルを労わるような口調で聞いたのは、セルゲイだった。
「俺がそうしたいと思うなら、そうしろって」
アズラエルが正直に言うと、すこし考えるそぶりを見せ、「不安かい?」と聞いた。
「……おまえは、不安じゃねえのか」
苦笑いしたアズラエルに、セルゲイは、アズラエルも予想外の言葉を口にした。
「私は、君を疑ったことは一度もないよ」
それが、ペリドットの言葉と同じだったために、アズラエルは一瞬、うろたえた。
「夜の神もそうだ。どちらかというと、君の身を案じてる」
心を――とセルゲイは、口の中でつぶやいた。セルゲイと同じく、痛みの共有をしているのだろうグレンは、めずらしくなにも言わなかった。
「……アズラエル、ルナちゃんを、置いていくの?」
ルナの頭を抱きしめ、悲しげな顔で抗議をしたのはジュリだった。彼女の口調には、非難があった。大事な話のときには、素っ頓狂なことを言って引っ掻き回さないように、気を付けていたジュリだったが、今日は我慢できないようだった。
「ジュリ」
レオナが、ジュリの肩を撫ぜながら、言った。
「永遠の離れ離れじゃない。今回の任務が終わったら、ルナちゃんとアズラエルは、L55で会える。何年もかかるんじゃない。来年の内には会えるんだよ? そんなに心配しなくていいんだよ」
「……」
エレナとカレンとの別れを経験したジュリには、ルナとアズラエルの別れが、ひどく沈鬱に感じられたのだ。
ルナはぼんやりと、ミシェルがリサを励ましたときの言葉と似ているな、と思った。
「俺は反対だ」
頑として反対したのは、クラウドと、ミシェルだった。
「言ったじゃないか、アズ――この世界に、君とルナちゃんふたりだけじゃない」
「クラウド」
エーリヒが止めたが、クラウドは言い募った。
「俺たちがいる。アズが不安に思うようなことが起こったときは、俺たちが止められるって――」
「そうだよ!」
ミシェルも力説した。
「いくらグレンひとりでだいじょうぶな作戦だからって――ダメだよ! これは、あたしの直感だけど――アズラエルは降りないほうがいい!」
グレンからもなにか言って! とミシェルはグレンの腕を引っ張ったが、彼は、鼻を鳴らして立った。
「放っておけ」
グレンは容赦なく言い放つ。
「腹の底からビビってるヤツが残ったって、役立たずなだけだ。とっとと降りろ」
ちこたんとヘレンが、オロオロした顔でふたりを見ている。
グレンの言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。アズラエルが殴り掛かったからだ。当然、グレンは応戦した。
「やめろバカ! メルーヴァと戦うまえにつぶしあってどうする!」
バーガスとレオナ、エーリヒ、クラウドと四人がかりで猛獣のケンカを止めたが、アズラエルは、バーガスの腕を振り払うと、足音も荒々しく出ていった――屋敷をだ。
「アズ!」
クラウドの声が追ったが、アズラエルはドアが割れんばかりの音を立てて閉め、姿を消した。
彼は、降船の日まで、屋敷にもどってはこなかった。




