334話 裏切られた探偵と美容師の子ネコ Ⅲ 1
俺は、今度こそ、裏切らない。
だれを? ――自分自身をだ。
今度こそ、かならず助けてやるからな、先生。
「――夢、か」
目覚めたミシェルは、ひとつ息をついて、けだるい身体を起こした。
昨日はだいぶ、飲みすぎてしまった。
夢を見た朝は、いつも身体がだるい。まるで、極寒の土地から、急にあたたかいところへ瞬間移動したような心持ちだ。夏など特にそうだが、冬の冷え切った部屋で目覚めても、夢の中の極寒より、ましだと思える。
ミシェルは、生まれも育ちも、L5系の都会で、つねに気候が安定した土地で育った。そんな極端な寒さを経験したことはないはずだった。
毎回ながら、どんな夢を見たのか、覚えていない。
ミシェルはそれでいいと思った。こんな夢見の悪い起き方をする夢など、ロクな夢ではない。
船内はもうすぐ十月。
朝と夜は冷えてくる季節だ。
ミシェルは、寒さに震えながら暖房のスイッチをつけ、ひやりとした床をつま先立ちで歩きながら、洗面所に向かった。洗面台の蛇口から出てくる、どうしようもないつめたい水に嘆息する。あたたかくなるまで数十秒かかる。
ここは、リサと暮らした美容師専用のマンションではなく、ロイドと入船したときに住んでいた、狭い安アパートだ。今の自分には、この殺風景な光景がふさわしい。
都会で育ったミシェルは、常に空調も気温も安定したマンションで育ち、暮らしてきた。
床も室内も、夏は涼しく、冬は暖かく、水道から出る蛇口は、湯を選択すれば、まちがいなく待たずに湯が出てきた。
安物のスーツを着る人間は、よくよく目を凝らして人間性をたしかめないと危険だと言われて育った。
まさか、自分が、その安物のスーツを着て、それすらも買い替えられなくなるとは思ってもみなかった。
父は有名な弁護士、母は文化財保護関連のNPO理事、兄は大企業のCEOを一時、任されたこともある。妹は、公認会計士――。
自身も、公認会計士として、一点の曇りもない人生を歩んでいくはずだった。
育ちの良さは、折り紙つきだ。
そのせいで、リサを「田舎者だ」と罵り、ケンカになったことは数知れない。
そんなミシェルの輝かしい人生が急転落したのは、ホックリーが逮捕されてからだった。
(……ホックリーさん)
ミシェルはホックリーを恨んでいない。恨んでもいいはずだった。すくなくとも、家族や、まわりの同僚たちはそう言った。
ホックリーが警察で、一回でも口にした名前が、ミシェルの名。そのせいで、ミシェルにも嫌疑がかけられて、会計士の職を辞さなければならなくなった。
けれども、ミシェルは彼を恨めなかった。それどころか、ぜったいに助け出してやらねばという気持ちさえある。
(ホックリーさんがクロだとか、シロだとか、有罪とか無罪とか、どうでもいいんだ)
ミシェルは、剃り残しがないかたしかめるため、鏡を見た。
(ホックリーさんを、牢屋から出して、安全な場所に移動させる)
ミシェルは苦笑した。
バカらしいのは自分でもわかっている。
まるで、愛する女を助け出すような必死さだ。
相手は、馬みたいに顔の長い、優しいところはあるが、流されやすく、誘惑にあらがえなかった哀れなじいさんだ。本人は、それほど悪い人間とはいいがたいのに、一回でも金を受け取ってしまったせいで、「牢屋」にぶち込まれる羽目になった。
――もう、冷たい水にも慣れた。
湯に変わるまえに洗顔を済ませて、ひげをそる。
快適な空間にしか住めなかった自分が、ずいぶん変わったと思う。かつてバカにしていた人間とも付き合うようになり、洗練されていない女を、「運命の相手」と信じ切っている。
公認会計士として、巨大なビルから都市を睥睨していた時代には考えられないことだった。
ひとの環境の適応の早さに、多少驚いている自分がいる。
ホックリーが、リサだったらよかったのに。
(それならまだ、恋に狂った男ぐらいで、すんでいただろうか)
リサは、ミシェルのそのままを認めてくれる。
ミシェルは、リサと付き合ってから知った。
いままで、自分にくっついてきた女は、すべて殻付きの自分を愛していたことを。
地位と金と、名誉と権力の殻付き。
でも、悪くはなかったのだ。
自分もそんな恋愛に酔っていた。
恋愛が、友情が、偽物だったとは思わない。あの世界では、それが常識で、それですべて、安泰なのだ。
だが、殻付きの人種は、殻をなくしたとたんに、むき出しの身を恥じるか、恐れる。
自分の家族でさえそうだった。
それらの殻があるのが当然で、それらのひとつでもなくしたとき、自分の家族は、おそらくなくした者を見捨てるだろう。
殻を再びつけて彼らの目の前に姿を現せば、同じ生き物だと認める。
むき出しの身は、彼らにとって恥ずべきもので、慈しむべきものではない。
だがリサは、殻ではなく、その身を愛した。
いつでもだ。
それはミシェルにとってははじめての恋愛で、年下の彼女に、幾度無様な身をさらしたことか。
そんな恋愛を経験してしまった以上、もどれなくなるのは当たり前だった。
リサの恋は、いつでも、殻からミシェルの生身を引きずり出す。
よくルナたちが、動物の話をしている。ライオンだのウサギだのネコだの――ミシェルは、自分も家族も、ZOOカードに出てくるなら、殻付き貝なのではないかと思った。
(もしかして、サザエとかカキとか――アサリはあんまりだな。せめてハマグリで)
バカらしいたとえに苦笑し、まだ冗談を考える余裕はあると、安心した。
ミシェルはロイドと同じく、家族から見捨てられた身だ。
父と妹は、あっさり、ミシェルを見放した。兄は、「好きにさせてやれ」と放逐した。
けれども、家族に迷惑がかからないように、戸籍を抜くことだけは強調した。
それも分かる。理解できる。きっと自分の家族が自分のようになったら、自分だって見捨てていた。
ミシェルは、自分がやっていることも、常軌を逸しているとわかっている。
家族の説得を聞かず、勝手にやってきたのはミシェルで、縁を切らなければ家族に迷惑がかかる。
それはまぎれもない事実で、もっともだから、ミシェルは戸籍から自分の名を抜いた。
さすがに母はミシェルを簡単に見捨てることはしなかったが、病院に連れて行こうとした。
母は言った。
『ミシェル、あなたの先生は、もういないのよ』
その言葉が、きっかけだった。ミシェルが家族と決別したのは。
ホックリーは生きている。先生は、生きている。ホックリーは。
ホックリーは生きている。
アリサ・J・ホックリーは生きている。
(“アリサ”は、まだ生きてる)
「……?」
ミシェルは、一瞬胸に浮かんだ名前に違和を感じたが、すぐに忘れた。
ミシェルのことで、家族が崩壊しなかっただけ救いだと思っている。
わからない――ミシェルをここまで動かすものはなんなのか。
いつのころからか、ミシェルは哲学的に理屈をつけて、自分を納得させるようになった。
優しいホックリーを巻き込んだ、ファッツオーク社の悪党どもが悪い。
優しい先生を見捨てられない、正義感の強い俺。
そんなもので、周囲も、自分も、納得もしなければ、理解もできないことをわかっているはずなのに。
おまけに、ミシェルは死ぬ気がしなかった。
いままでも、何度もマフィアに狙われ、それでも一命をとりとめてきた。ケガもしていない。そのことが、ミシェルに、いらぬ余裕を持たせているのだろうか。
ちがう――余裕などではなく。
マフィアのことより、自分の命より。
ミシェルには優先させるべきことがあった。
(先生を、助けなきゃ)
ミシェルの頭には、それしかない。
――ミシェルの時間は、“百三十年前”から、止まっているといってよかった。
アズラエルは、その日、帰ってこなかった。彼が帰ってきたのは、次の日の、朝食も終わった午前十時過ぎだった。
「アズ、おかえり!」
「ただいま」
部屋でZOOカードを並べていたルナは、すぐさま聞いた。
「ミシェル、どうだった?」
アズラエルはTシャツを着替えながら、嘆息した。
「ダメだった。やっぱり、おまえの力を借りねえといけねえな」
「まかせて!」
ルナは叫んだ。そして、アズラエルに、きのうロイドから聞いたこと、そして、アンジェリカと話したことを教えた。
アズラエルは、なにも言わなかった。だまって、ルナが展開しているZOOカードをのぞきこんだ。
「なにか、変わったことはあったか?」
『俺に聞きたまえよ、アズラエル』
ルナのおもちゃの家のソファには、メガネをはめたライオン――つまり、“真実をもたらすライオン”がお目見えしていた。
「よう、クラウド」
アズラエルがちいさなライオンを突つくと、彼は不機嫌な顔をした。
『俺は、“真実をもたらすライオン”だ。最近のZOOの支配者はなっていない。ひとをあだ名で呼ぶなんて』
「ルゥ、こいつにはなんてつけたんだ」
「メガクラウド」
アズラエルは、ツッコミをあきらめた。
「ルナちゃん、コーヒー持ってきたよ――あれ? おかえり、アズ」
本体であるクラウドと、今日は真砂名神社にもアトリエにも行かなかったレディ・ミシェル、エーリヒがいっせいに部屋に入ってきた。
「ミシェルってさ、同じ名前でしょ? やっぱり、放っとけないのよ」
レディ・ミシェルはそう言い訳をし、アイスコーヒーを手に、ソファに座った。
ルナはだれも聞いていないのに、説明をした。
「メガネクラウドの略でメガクラウドなの! でもね、メガクラウドは勘違いして、じぶんはメガよりギガだって、ギガクラウドにしろってうるさくて、それでメガネを……」
「ルナ、カオスは、もう十分だ」
アズラエルが止めた。ルナはふくれっ面をしたが、本題に入ることにした。
「それでね、アズも帰ってきたから、じゅんばんにゆうね?」
ルナは、カードを指さしながら言った。
「いま、“真実をもたらすライオン”さんにしらべてもらったら、やっぱり、ミシェルの裁判は、ムチャクチャだって。確実に負けるって。でも、ミシェルの考えてることに裏はなくって、ほんとうに、恩師さんを――ぽっくりさんを、牢屋から出してあげたいんだって。それが、“真実”」
「ぽっくり、じゃなくて、ホックリーさんね」
レディが訂正した。ルナは、いっしょうけんめいしゃべった。
独自のルナ語判読機を装備しているクラウドと、ルナとはなぜか別次元で会話できるエーリヒとミシェル以外は、よくわからなかった――つまり、アズラエルだけが、いちいち首をかしげた。
真実をもたらすライオンは、いつのまにか姿を消していた。用が済んだからかもしれない。
「もういなくなったの?」
ミシェルが呆れ声で言うと、ルナは重々しく言った。
「いつものことです」
ルナは、絨毯に広げたZOOカードを示し、言った。
「それでね、ミシェルのことも心配なんだけど、こっちのほうを先になんとかしなきゃいけないかもしれないの」
「こっち?」
アズラエルが聞くと、ルナは、「リサ」と言った。
「リサ? リサがどうかしたの」
ミシェルがいち早く反応した。
「エーリヒとアズがいると、黒うさちゃんは出てこないからね――うさと、出てきて」
『うん!』
ぴょこり、とチョコレート色のウサギが顔を出す。
「みんな、ここ見て」
ルナは、真ん中付近にいる「美容師の子ネコ」のカードを指した。
「うさと、お願い」
『まかせて!』
導きの子ウサギが右手を振ると、大きなジョーカーが、不気味な笑い声を上げて現れた。
「なにこれ!?」
ミシェルが引いた。
「これは、デサストレ、と言います。災厄のことだって」
ルナはもっともらしく言った。
「……初めて見たな」
クラウドが興味深げにニヤッと笑った。
「ルナちゃんもいよいよ、ZOOの支配者らしくなってきたじゃないか」
アズラエルだけは、とてもいやそうな目で、様子を伺っている。
「じつは、このあいだアンジェと一緒にリサのカードを見たときは、こんなの出てこなかったの。今日、初めて出てきたの、でさすとれ、は――ええと、」
ルナは、宇宙船からもらった、今年分の日記帳――自分の分と、アズラエルの分としてもらった二冊目を――両方開いていた。星柄の日記帳は、「ZOOカードの記録帳」として、赤いチェックの日記帳は、日記帳としてつかっている。
ルナは星柄のノートをめくり、
「デサストレ、災厄――リサに、災厄がおとずれてます!」
そう、宣言した。
「それで、うさとは“導きの子ウサギ”だから、うさこと同じように、ご縁を結ぶはたらきもあるのね? だから、リサの周りにあやしい縁がむすばれてないか、調べてもらったの――そうしたら、見て」
導きの子ウサギが、もふりと手を合わせると、ぼんっ! と爆発音がして、一枚のカードがリサのそばに現れた。
「「「「タヌキ!?」」」」
みんながそろって、叫んだ。
『これは“詐欺師のタヌキ”。――悪いヤツだよ』
導きの子ウサギは、しかめっ面で説明した。スケベ面のタヌキが、手をもむようなしぐさで、リサのカードに近づいている。
ルナは、今度、赤いチェックの日記帳をめくった。
「このあいだ、また“リハビリ”の夢を見て、それが、リサがあたしのママだったときの夢なの」
その夢は、ここにいる皆は、全員把握している。一応、アズラエルも読んだ。
「夢の中で、あたしのママだったリサは、“タヌキみたいな男”にだまされて、あたしとママは、逃げる途中で、自動車事故に遭って、死んじゃった――」
「タヌキみたいな男!?」
ミシェルの叫び。
「無関係とは、思えないの」
ルナは心配そうに言った。




