330話 イアリアスの観戦盤 1
「――え? あ、あれ? アントニオ? なんで?」
「よーう! バンビ! おつかれ!!」
ようやくクルクスのサルマバーンディアナ城に着いたバンビは、ズタボロの格好で高級ホテルに足を踏み入れることに躊躇しながら、インダの陰に隠れるようにしてついていった。
長旅疲れの埃っぽい全身と、汚れまくったTシャツとジーンズにジャケット。日差し除けのキャップ。
新しかったのに、もう何年も使ったようなヴィンテージ感を醸し出しているバックパックやキャリーケースを気にしていたバンビは、見知った顔を見つけて、思わず叫んでしまった。
「いやあ、長旅おつかれさん!!」
アントニオはバンビの肩をバンバン叩いて労った。
「あ、ありがと――でも、なんでここに」
ロビーの隣は、富裕層ばかりが来るようなレストランだ。アントニオはそちらから出てきた。バンビの気遣いもよそに、客はどうやら皆無のようだ。ロビーも、レストランも、人がいない。
「うおーい! アントニオさん!」
「おー! オリーヴちゃんたちもおつかれ~! 送迎ありがとね!」
オリーヴたちも旅の報告をし始めたところで、アントニオの後ろから、眼鏡をかけた見知らぬ男が歩いてきて、バンビに握手を求めた。
「どうも、クルクス市長のザボン・アストロス・MAJH・サルーディーバです。お待ちしておりました」
「あ――じゃあ、あなたが」
道中、副市長のインダから話は聞いていた。
「ええ。――インダさん、おつかれさま。お話はあとでお聞きします」
「はい。では」
インダはバンビとアントニオに会釈して、レストランのほうへ入っていった。アントニオは、バンビの疲れも吹き飛ばすような笑顔を見せて、肩を組んだ。
「待ってたんだよ! 女王の扉を開けてくれるヒーローをさ!」
「ヒ――え?」
バンビはしかめっ面をして、疑問符を掲げた。
先ほどジープの中で確認した日付は、地球行き宇宙船時間の7月10日。セパイローの遺跡に入ったのが7月5日だったので、5日経っている。
おかしなティーパーティーで、それなりに食べ物を口にした気がするが、いつから食べていないのか分からない。バンビはここに来るまで、ずっと寝っぱなしだった。長旅の疲れが一気に噴き出たように。
ここにくるまで、一度シャワーを浴び、食事らしきものをした気もするが、思い出せない。日付の感覚がない気がする。
軽い空腹は感じていたが、とにかく役目だけは果たそうと――とにかく、事情は分からないが、ザボンがバンビを待っていたというので――バンビはふたりについていった。
この格好では、あのレストランに入って食事を注文する気にもなれなかったし。
オリーヴたちは、レストランで食事をすると言って、残った。
バンビたちが女王の部屋に向かってまもなく――それを追うように入ってきた二人組の姿を――レストランにいたオリーヴが、スタークを見つけたのは、まさしく奇跡だった。
「兄貴! アーニーキー!!!!!」
「……え? あ!? オリーヴ!?」
高級ホテルのレストランでそんな大声を出したなら、ふつうは厳重注意を受けるか、アマンダに後頭部をひっぱたかれていたところだった。
ホテルは「音」のせいで、ほとんど休業中で、だれもいないことが幸いした。
「おまえ、なんでこんなとこにいんの!?」
「兄貴こそ!!」
レストランでは、「でかい音」など微塵も気づかなかったが、近づくにつれて、耳栓がなければ気分が悪くなるだろう程のすさまじい音が響いてきたので、バンビは閉口した。
「よく……こんなの半年間も……」
「このあたりの部屋は、今は使っていませんから。事務所も移動しましたし、ホテルは休業ということで」
振動まで遮断する、特殊な耳栓を渡されて、この先は筆談だ。宙に浮く液晶画面越しの会話でも、ザボンの苦笑が分かるようだった。
やっとのことでたどり着いた女王の部屋の前に来てすぐ、バンビの目に飛び込んだのは、大きな扉の中央にある小さなくぼみだ。――どう考えても、そこにはめ込まれるはずのものはひとつしかない。
皆が期待の目でバンビを見ている。
バックパックから羅針盤を取り出すと、ザボンが食い入るように見つめているのが分かった。
バンビは、巨大な扉を見上げた。
そういえば、ムーガ・ファファンの遺跡で、最初に開いた扉と同じではないか?
キョロキョロと扉の造形を見ながらだったので、手元も見ずに羅針盤をくぼみに押し込んだバンビだったが、カチャリと――すんなりと、おさまった。はめ込まれた場所から金色の光が放射状に延びていくのは、あのときと同じだ。
「おお……!」
「開いた!!」
バンビの後ろから、なんともいえない呻きというか、ほとんど「助かった」という感じの歓声が上がるのを聞きながら、バンビは扉から一歩、離れた。
扉がゆっくり、奥に向かって左右に開け放たれていく。こうなれば、もう自動ドアだった。だれもが扉が開いたことに感激して、にわかに気づかなかったのだが、頭蓋までゆさぶるようなごう音が、徐々におさまっていた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……。
恐る恐る、といった体で、ひとり、ふたりと部屋に踏み込んでいく。バンビも、流されるように入った。
おそらくは――三千年前から開けられたことのない部屋。
だというのに、部屋の中は、昨日閉じられたばかりのように時が停止していた。
ひとの背よりはるかに高い縦長の窓が夕日を招き入れ、執務用の巨大なテーブルと、壁を埋めている書棚は、うっすらほこりをかぶっているだけで、朽ちてはいない。
まず、目に入るのは、女王の玉座だ。
床には豪奢な絨毯が敷かれていて、分厚いカーテン越しに寝室がある。
まるで、女王が昨日までここにいたような――といったら大げさか。しかし、女王がこの部屋を留守にして、一週間ほどしか経っていないような荒廃のなさだった。
「貴重な書物が、こんなにたくさん……」
部屋の側面を埋め尽くす書棚に目を奪われたバンビは、入って右手奥――玉座の裏側だ。金糸の刺繍が施されたカーテンの奥から、小さくなった、かつてのごう音が聞こえてくるのに気づいた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……。
石が転がり、擦れるような音はずいぶんおとなしくなっていた。耳栓を外したバンビは、ゆっくりカーテンの向こうに踏み込んだ。
「みんな! 来て!!」
バンビの一声に、皆が集まってくる。ザボンに、いつのまにか来ていたインダに、アントニオ、そして市役所の役員数人――。
ついに、音の正体が判明したのだった。
そこにあったのは、入ってきた扉より大きな、高さ三メートルもあるかという、「対局盤」だった。
――そうだ。これがおそらくは、シャトランジの「対局盤」なのではないか。
だれもが、そう思った。
一番上の額に、三角の形に三つの惑星を模した、サッカーボールほどもある宝石が嵌められている。
頂きに「アストロス」、下のふたつが「地球」と「ラグ・ヴァダ」。
水色と、群青色と、エメラルドグリーンの惑星が、白く輝く糸で結ばれている。
壁面に並ぶのは、いくつもの巨大なイアラ鉱石だ。横にふたつ、縦に十一列並んだ、一辺が一抱えもある四角い鉱石、それが、ゴリゴリと互いにこすれあいながら、回転しているのだった。何度も回転したせいで、角が丸く取れている。
そして、その四角い「対局盤」の外側に、玉守りそっくりの石が埋め込まれているのだった。こちらはこぶし大の巨大な石が。
そう――女王の城で、シャトランジ! の対局盤にはめた石が。
「これ……なんだか、おかしくないか」
だれかが言った。
それは――彼が言ったように、たしかにおかしかった。シャトランジやチェスを知らない者でも、どこかおかしいと分かる。
なぜなら、右の縦一列の石は、上からルーク、ナイト、ビショップ、キング、クイーン、ビショップ、ナイト、ルークの名があり、下が二ヶ所あいている。
左は、上からルフ、ファラス、フィール、シャー、フィルズ、フィール、ファラス、ルフ、ジャマル。
右はチェスの駒だが、左はシャトランジの駒だ。
「これって、シャトランジとチェスの、つまり、シャトランジとアヘドレースの対局ってことか……?」
アントニオも首を傾げた。
石の回転は、止まりつつある。外側の玉守りが、どこからも光が入ってこないのに、奇妙な明るさを灯し、イアラ鉱石の気泡をきらめかせていた。
「今、名前が浮かび上がりませんでしたか?」
ふと、ザボンが聞いた。
「名前?」
「ええ。このイアラ鉱石に名前が――」
ザボンは言ったが、回転する石に名前は刻まれていない。自分の勘違いだと思ったのか、彼はそのまま押し黙った。
しばらくすると、すっかり回転は止まった。
落ち着いた室内で、バンビはふと視線を下に向けた。対局盤の下方――ちょうど、バンビの手元あたりに、何かを置けるような小さな台があり、そこにはいくつかのくぼみがあった。
「――?」
バンビは唐突に、思い出したかのように背負っていたバックパックを床に置き、何かを探した。バックパックの底から出したものは、ポーチだった。
「それ、ルナちゃんの?」
アントニオが、ルナ愛用のポーチを覚えていた。リリザで買った、ウサギのジニーの小さなポーチ。
「ええ。ルナから預かってきたの」
中身は、星守りだ。それを見たとたんに悟ったアントニオは、バンビといっしょに、くぼみに星守りを埋めていった。
船内の遊園地にあった、シャトランジの装置と同じように――。
「やはり、ここも九個ある」
星守りを埋める場所が、九ヶ所。
真砂名の神の星守りが2個必要だった。マ・アース・ジャ・ハーナの神と、セパイローの神の場所、両方に。
「おそらく、エタカ・リーナ山岳にある対局盤には、8個しか埋められていないはずだ」
アントニオは言った。
見てはいないが――ナバが送った星守りは、おそらく8個。真砂名の神の玉を2個も送ってはいないだろう。
星守りを9個はめた対局盤に、異変が起きた。
上部にあった「アヘドレース」の文字が、ゆっくりと、「イアリアス」に変化したのだ。
それは、この場にいたすべての者が見ていた。
「これは!?」
「見ましたか、いまの!」
「ええ――文字が、」
ザボンはそういったきり、黙った。石に掘られた文字が、変化したのである。だれも、手を触れてさえいないのに――。
「マ・アース・ジャ・ハーナとセパイロー、両方に玉を入れないと、進化しないってこと?」
バンビが察したようにつぶやいた。アントニオもうなずいた。
「そういうことになるかも……」
急に静かになった空間は、カーテンにさえぎられた暗がりと、一面のイアラ鉱石のせいもあって、まるで宇宙にいるような感覚になる。
「開けましょうか」
インダが気を利かせて、カーテンを開け放った。
「あっ!」
対局盤の壁が、陽光に照らされる。
左手の奥に、バンビはそれを見つけた。絵画のように壁にかけられた、それに。
「イアリアスの観戦盤」がどんなものか、知らされていたわけではない。しかしバンビはすぐにそれが観戦盤だと分かった。小さなノートパソコンほどの大きさ。
アンジェリカやペリドットがそれを見たら、ZOOカードの「ムンド(世界)」だと言ったことだろう。小さな観戦盤の表面には、立体的な地図が浮かび上がっていた。それはアストロス全土の土地と、壁面の対局盤を交互に映し出していた。
「す、すみません、あの、これ……!」
バンビは興奮のあまりうろたえながら観戦盤を指さし――「あ、ああ、どうぞ」というザボンの許可とともに、恐ろしく慎重に、観戦盤を壁掛けから外した。
「これが、イアリアスの観戦盤か!」
アントニオも興奮を抑えきれないように、バンビの手元を覗き込んだ。
――長かった。ここまで長かった。
やっと旅が終わるのだと、目を潤ませたバンビは、汚れた袖で目をぬぐったあと、
「え、えっと――“イアリアスの観戦盤”は、“布被りのペガサス”へ――」
携帯電話のメモ帳アプリを出して、確認した。
「ぬ、の、かぶり、のペガサスって……?」
もちろんクエスチョンマーク。バンビがアントニオを見ると、彼はニッと笑った。
「ベストタイミングだな」
「え?」
女王の部屋に、だれかが入ってきた。足音でバンビにもわかった。




