323話 ムーガ・ファファンの遺跡 2
皆が席に着くと、見事な彫刻のグラスが現れて、中にはワインが入っていた。
「あの、わたくしは、お水をいただけますか」
カザマがおずおずというと、グラスの中身は、水に変わった。サルーディーバもだ。
「わ、わがまま言っていいですか……ビールが飲みたい」
ミシェルが言うと、中身はビールに変わった。大感激したのは言うまでもない。
「君たちがもどってくる前に、バンビからメールが来てたんだ」
さっそくクラウドが言った。テーブルにアストロスの地図と、遊園地の地図を広げて。
ペリドットもすでに確認済みだ。
「ワギリタ砂漠の入り口で野営して、三つ目の封印を確認。それから、夜が明けてから出発して、次に羅針盤が指したのは、ムーガ・ファファンの石櫃、というものがあるあたりだったみたいだけど、そこは立ち入り禁止で、一般人が入れない」
「封印は確認できたのか?」
「ムーガ・ファファンでは確認できなかったらしい。なにしろ立ち入り禁止だったからね。それで、困っていたら、羅針盤が次の場所を指し示した」
「次は?」
「うん。これが四つ目になるな。ジュエルス海東南の、リコベイヘの漁村で、音を確認。封印は水底らしい――形は確認できず。それで、次に羅針盤が指したのは、やっぱり通り過ぎてきたムーガ・ファファンで、」
「もどったのか?」
ペリドットが聞いたが、クラウドは首を振った。
「でも、それは夜のあいだのこと。翌朝になったら、羅針盤はセパイロー島を指していた」
「え?」
アンジェリカが代表して一番声が大きかったが、皆が同じ疑問符を発していた。
「実は、バンビは出発時に、ルナちゃんから一通のメールをもらっている」
クラウドは、バンビから送られてきた転送メールを皆に見せた。
『行ってらっしゃい。気を付けて。悩んだら、昼間に決断して。太陽が出ている間に。夜には決断しないで。ゆっくりでいいので、ぜったい悩んだら昼間に、太陽が出ている間に決めてください。
セパイローとマ・アース・ジャ・ハーナは陰陽。セパイローは万能で優しくって何でもできる神様だけど、どっちかいうと普遍的。アストロスに平和が長く続いているのはセパイローの神様のおかげだけど、今は進化が必要なの。マ・アース・ジャ・ハーナの神様の。
バンヴィは真昼の月。バンヴィが出ている昼に決断し、動いてください』
「オーイオイ。聞いてないぞ……」
ペリドットは額を押さえた。
「これはあたしも聞いてないな……」
アンジェリカも顔をしかめた。
「ルナ、絶対これ、自分が送ったこと忘れてるわ」
ミシェルが呆れ声で言い、「そうかも」とアンジェリカも同意した。
「つまり、夜と朝じゃ――太陽が出ているときは、羅針盤の示す方向が変わっている場合もあるということだね?」
エーリヒは高揚した顔でそう言い、ワインを飲んだ。
「上等なワインだった。じつにすばらしかった! 二杯目はスコッチをいただけるだろうか?」
グラスが消えて、透き通る大きな氷が入ったコップ型のグラスに、なみなみとウィスキーが注がれていた。
「ありがたい。――ふむ。これもまた、なんと上等な……」
「そういうことだ。バンビも、ルナの忠告に従って、夜に封印が解けても、朝まで待って動くことにしたらしいけど、羅針盤の示す方向が違っていたっていうのはこれが初めてで、驚いたんだ」
「では、今はセパイロー島へ向かっているというわけだな……」
セパイロー島は、北のジュエルス海にある孤島だ。
さっきから定期的に送られてくるメールでは、今、ジュエルス海は奇妙なほど静まり返っているという。
まるで、今こそ渡れと言わんばかりに。
おそらく、今夜のうちにセパイロー島へは渡れるだろう。波が荒ければ、一週間でも港に足止めされると言われている島だ。
「俺たちが通ってきた海みたいだな」
先ほどの食事の際、ペリドットたち四人が受けてきた試練は、全員に話した。
皆は寸時、食事も忘れて話に聞き入った。――これが、神が用意した特別な食事でなければ、とっくに冷え切っていただろう。幸いにも、いつまでたっても湯気を立てていた。
アンジェリカは、夢にまで見そうな美味しいご馳走の数々を思い出して、ごっくんと唾を飲みかけた。それで、わざと気難しそうな顔をつくって、言った。
「もしかしたら、今度は、バンビさんがセパイロー島で封印を解くんだろうか?」
セパイロー島は、バンビの前世のルーツがあるかもしれない島。
「そうかもしれんが、そうでないかもしれん。体力だけは戻しておくぞ。明日、何があってもいいようにな」
「そうだね。想像を絶する試練もあったことだし」
皆はそれぞれ同意して――席を立った。そして、寝室に向かった。
グラスはすっかり消え失せていた。
皆が寝室に入るのを見送ってから、クラウドはテーブルの上で地図を広げた。アストロスの地図だ。
ふと目を上げると、セパイローのレリーフと、目が合った気がした。
首を傾げ、すぐ地図に目を落とすと、ひとつの島が目に入った。
「ん?」
バンビが旅しているナミ大陸と、海洋を隔ててもうひとつの大きな大陸、ジュセ大陸。この二大大陸に挟まれたアンブレラ諸島――数百を超える小島が密集した諸島だが、そのうちのひとつが目に入った。
クラウドが目に留めたのではない。そちらから、視界に飛び込んできたのだ。
「ジャマル島?」
思わず口にすると、まだ起きていたペリドットが「ジャマル?」と繰り返した。地図を覗き込んでくる。
「ジャマル――どこかで聞いたな」
クラウドが首を傾げていると、ペリドットのほうが早く言い当てた。
「シャトランジの駒に“ジャマル”がある。ラクダを意味する――」
「あっ、そうか」
クラウドはもう一度顔を上げると、セパイローのレリーフを見つめた。それから、携帯端末で、ジャマル島の情報を呼びだす。
「――元の名は、“セパイロー島”だって?」
島の観光ガイドブックによると、こちらが本当の、セパイローが降り立った島だと書いてある。ジュエルス海のセパイロー島は、セパイローが子を産むためにつくった島だ。こちらもセパイローが降り立ったと言われている島だが、「最初」ではないのだろう。
神々の始まりの地であることは確かだが、意味合いはちがう。
「元祖は、ジャマル島のほうだって?」
ペリドットは呆れ声で言った。「羅針盤が間違ったっていうのか?」
「いや……」
ベンからの報告にあった島のデータは、このジャマル島のほうだ。
クラウドはしばらく考え込んだのち、
「今日は寝よう。明日も、何があるかわからないしな。それに、夜は“決断”しないほうがいいんだろ?」
ペリドットはまだなにか言いたそうだったが、「それもそうだな」と言って立ち上がった。
彼も大あくびをしたが、クラウドもだいぶ疲労を感じていた。しかも、お腹はいっぱいで、少々のアルコールも入っている。眠くないわけがなかった。
翌日。
目覚めた皆は、それぞれが腕時計や携帯電話の時刻を確認して、そろって日付が6月30日を示しているのを見て、絶叫しかけた。
6月26日に寝て、どうして四日も経っているのだ。
寝坊にしては、度が過ぎている。
しかし、疲労はすっかりとれていた。
ルナは慌ててグループメールを確認したが、バンビたちは無事セパイロー島に渡ることができた、という連絡だけだった。封印が解けたとか、そういう知らせはない。
ルナはほっとして返信し、鼻をヒクヒクさせた。
「ん?」
皆の気を引いたのは、かぐわしい朝食の香りだった。
持ったそばから崩れそうなくらいパリパリの、大きな三日月型クロワッサン。程よい苦みが香ばしさに消えるコーヒー。薫り高い紅茶や生ジュース。金のカップに並々注がれたチョコレート。いつまでも焼きたてのベーコンと、ツヤツヤで黄身がふっくらとした玉子。カラフルで新鮮な果実の山。
皆は無言で食べた。だれもが、今は小難しいことを考えず、味わいたかったのだ。
食事も終えて、着替え終わったころ、扉がノックされた。
コンコンコン、と三回。
全員が一瞬にして緊張に包まれたが――互いに目配せをし、一番近くにいたグレンが開けた。
慎重に。
『やあ! おはよう!』
立っていたのは、さっき飲んだばかりのチョコレートのように、焦げ茶色のウサギだった。
「導きの子ウサギ!」
ピエトが跳ねて飛んで自分の相棒の手を取った。
全員の肩から、すべての緊張が抜け落ちた。
『みんな、用意はいいかい? ここから先は、僕が案内するよ』
「ごちそうさまでした! とってもおいしかったです!」
ルナは叫び、皆も口々に礼を言って宮殿をあとにした。表情はないはずだが、レリーフは微笑んでいる気がした。
自分の相棒となかよく手をつないで歩いているピエトを眺めつつ、ルシヤは不貞腐れながら言った。
「なんでわたしの魂は、あれきり姿を見せないんだろう?」
ペリドットは、先頭でクラウドとなにか話していて、ルシヤのボヤキは聞こえていない。ルナは答えられなくて困った。
「多分、あなたの魂は、あなたが“勇気を振り絞ったとき”しか、現れないと思う」
「え?」
答えてくれたのは、アンジェリカだった。
「あなたの魂は“パルキオンミミナガウサギ”でしょ? そう簡単には出てこないよ。あなたが強くありたいと願ったとき。勇気が欲しいと思ったとき。そういうときに出てくるの」
ルシヤは口をぽっかり空けていたが、やがて「そ、そうなのか……」と納得したようにつぶやいた。
「でも、セパイローの試練で、わたしはなにか役に立ったのかな。空を飛ぶもの、は、いないとダメだったし、ZOOの支配者? ペリドット様も必要だったと思う。ルナも、ルシヤに変身したし――わたしは幼子だったけど、何か意味があったのか?」
『セパイローさまは、子どもがお好きなんだ』
ルシヤのもうひとつの疑問には、導きの子ウサギが答えた。
『だれよりもたくさんの神様をお産みになった神様だ。子どもは、セパイローの神様の宝物なの。だから、小さい子がいると、試練は優しくなる』
「そうなの?」
ニックは青ざめた。
「あれで優しかったら、厳しい場合はどうなるんだ?」
『あんなもの、序の口の口の口だよ! だって君、ひとつの星を救うことを前提とした試練だぜ? 君たちの肩には、アストロスの未来がかかっているんだよ?』
それを聞いて、皆はほとんど無言になった。
『ルシヤ、君は自分の魂に会ってみたいと願っていただろ? だから、最小限の試練で、会わせてくださったのさ』
「え?」
『君たちは、無事に試練を潜り抜けた――さ、こっちだよ』
導きの子ウサギは、昨日、ルナたちが来た道に入った。砂浜に向かう木立の道だ。
「素敵な道ね……!」
ミシェルは、メルヘンチックな木立の道を、ウキウキした気持ちで歩いたが――。
『セパイローの庭では、“導き”の動物の案内なしに歩くのは危険だよ。うっかり、どこに迷い込むか分からないからね』
導きの子ウサギに釘を刺されて、ミシェルは「……うん」とひきつった笑顔でうなずいた。
すでに前例をつくってしまったカザマも、顔を引き締めた。
「導きの動物なら、案内ができるの?」
アンジェリカの問いには。
『う~ん。つまりはね、君もZOOの支配者なら分かると思うんだけど。導きの動物に案内をさせるということは、“目的”があるということだよね。“目的地”や、“何かを探している”とか』
「――あっ!」
アンジェリカは立ち止まって、口を覆った。
気づいたのだ。
『そう。このセパイローの庭は、“目的”なしに歩き回ると迷うんだ。それも、ある程度の具体性がある目的。もともと、なんらかの目的がなければ見つからないアトラクションだからね』
「なるほどな……」
いつのまにか近くにいたペリドットも、納得して顎に手を当てた。
「わたくしは、ただ、花を見たいために花畑に行ったから……」
カザマは呆然とつぶやいた。
『うん。“花を見たくて”花畑に行ったから、これでもかと見させられたわけ。それで、帰らなきゃと思って、アントニオを呼んだから、“迎え”が来た』
カザマは、迷い込んだわけではなかったのだ。
花が見たいと思って、花畑に入り、「これは何の花?」「ガーベラかしら」「あら、あんなところにユリが、」と、興味があるものに次々惹かれた。時間も忘れて見入った。目に入る花をどんどん追っていた。
やがて、「帰らなくては」と思ったが、「出口、出口に行かなければ」と思ったので帰れなくなったのだ。「出口」ほど、あいまいな語句はない。
カザマの「目的」である「出口」には、もう少し「具体性」が必要だった。
カザマの目に、迷路は見えているし、回廊も見えていたから、安心していた。もしカザマの意識に、「中央役所に帰らなければ」という具体的な場所があったなら、帰れていたが、そうではなかった。
その日の事務仕事は片づけていたし、カザマの仕事はルナの担当役員。ルナに関することが一番大切。
だから、この任務が優先で――その日に限って、どうしても、中央役所に帰ってしなければならない仕事がなかった。
それが、悪いほうに働いた。
カザマは花が好きだった。カザマの深層意識は、帰ることより、花に向いていた。だから、なかなかそこから出られなかったのだ。
やがて、夜になり、迷っているのではと思ったら怖くなった。さらに「出口」を求めた。回廊がめのまえに見える。回廊は「出口」ではない。「出口、出口」と思っているから、「帰り道」にたどり着けない。
もう、帰れないかもしれないと思ったとき、一番に気にかかったのは娘のこと。そうしたら、ミンファが気づいてアントニオに連絡を入れ、ほとほと疲れ果てて、「だれか迎えに来てくれないかしら」と思い、いの一番にアントニオの顔が浮かんで――それで、アントニオが迎えに来たのだった。




