322話 セパイローのレリーフ 1
鍛冶の神イエトキアは生まれたばかりで、すぐにはうまくいかなかったので、バンヴィが船作りを手伝った。ゆえに、イエトキアとバンヴィは船大工の守り神ともいわれる。
十九の工程と、十九年の年月を経て、船はできあがった。
それは、方舟と呼ばれた。
(マ・アース・ジャ・ハーナの神話/イエトキヤとバンヴィの船作り)
地球行き宇宙船では、バンビたちが二つ目の封印が解かれたのを見届けたので、いよいよ先に進むことになった。
羅針盤が示した場所は、砂漠の入り口。
到着したが、今のところ、なにも起こらないという。
「だとすれば、こちらで封印を解くのが先かもしれん」
ペリドットは言った。
「しかし、こっちで封印を解いたら、あっちではまるで封印を施されたような音がした――っていうのも、気になるな」
クラウドが考え込む顔をした。
地球行き宇宙船時間、6月25日。午前八時。
リンゴの建物には、皆が勢ぞろいしていた。
ペリドット。ルナとアズラエル、グレン、セルゲイ。ミシェルとクラウド。エーリヒ、ピエト、ルシヤ。サルーディーバ、アンジェリカ、カザマ、ニック。
そして、ちこたん。
計、15名。
皆で、これから、三番目の封印を解きに向かう。
リンゴの建物に待機し、世界を開いたペリドットのZOOカードボックスを見守っているのは、アントニオとベッタラだった。
「楔が打ち込まれたような音――と仰っていましたね」
サルーディーバも、困惑した顔をする。
「こちらで封印が解かれ、あちらでは、いったい何が封じられたというのでしょう」
「まだ分からんな。進んでみるしかない」
ペリドットは建物の扉を開けた。
「みなさん、ご迷惑をおかけしました」
カザマが深々と頭を下げるのを見て、皆が口々に言った。
「カザマさんのせいじゃないです。花畑が迷路なのがよくなかったのです」
「まぁ、帰ってこれたんだからいいじゃねえか」
「本当に無事でよかったよ」
「わたしも同じ目に遭うところだった!」
「セパイローの庭だ。なにがあってもおかしくない」
皆がそれぞれにカザマを励ましたので、カザマはもう一度、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……」
先ほど、グループメールに、バンビと九庵とベンが、パンとコーヒーとサラダ、ゆで玉子のミールキットで朝食を取っている様子と、「なにもない」とだけ添えられた、砂漠の写真が送られてきたばかりだった。
幸いなことに、あちらは砂嵐もなく、快晴のようだ。気温は17度。
こちらで次の封印に向かうまで、砂漠組は待機だ。
リンゴの建物を出て、ゴーカートでそれぞれ女王の城まで向かう。そこから鏡の間へ。
迷路を抜け、不死鳥の扉を抜け、太極図の扉が開かれたところで、皆は一度点呼した。
遅れている者は、だれもいない。
「行くぞ」
――ペリドットが、扉を開けた。古い蝶番がきしむ音。
向こうは、先日見たのと変わらず、花畑だった。石畳の道路が続いている。
ペリドットを先頭に、一歩を踏み出した。
アストロスは砂漠、こちらは花畑――季節を問わず咲き乱れる花々に目を奪われながら。
小川のせせらぎに魚を見つけては、目を見張ったり。
あるいは、前だけを一点に見据えて。
または、だれも遅れないように気を配りながら。
湿地帯に浮かぶ小島は、鮮やかな緑の野草に覆われ、揺らぎひとつない水面は、真っ青な空を映し出していた。
そこに零れる陽の光のきらめき。
景色は、新たな姿を見せるたびに皆の目を奪った。
めずらしく、口数は少ない。
いつもであればにぎやかな一行は、驚くほど静かに、石畳を歩いた。
時間にして三十分ほどか。
石畳と同じ石でできた広場が見えた。先ほどまでの迷路よりは高くない、ルナでさえ中が伺える高さの石壁に囲まれた広場だ。
円形に、隙間なく敷き詰められた白イアラ鉱石の周囲は、豊かな水が流れる堰に囲まれていた。
中央には、三段の、滝のように流れる噴水。
まっすぐ奥に、女神のレリーフが彫られた大扉があった。
直径一メートルほどの、顔だけのレリーフ。
ペリドットが触れてみたが、イアラ鉱石とは違うようだ。象牙色をしていた。
しかし、不思議なレリーフだった。
女性のようにも、男性のようにも見える。恐ろしく整い、あまりに無個性で完璧な顔に見え、どこかで見たな、という気にもさせられるのに、今まで一度も見たことがないような顔にも見えるのだった。
「すごい……この彫刻」
ミシェルがフラフラと近寄っていった。
「いったいだれが、こんなすごい“顔”をつくったんだろう……」
あまりの感動のためか――だれも召喚の呪文を唱えていないのに、「偉大なる青いネコ」までやってきた。
彼は、崇めたてまつるように、おっかなびっくり、レリーフに触れた。
『なんという作品だ。いったいだれが』
しばらく言葉を失っていた青いネコは、ようやくそれだけ言い――やがて、ハッとした顔をした。
『これが、セパイローが、創作の神と言われる由縁か』
セパイローの自画像を伏し拝むようにして、ネコは一礼した。
『二度と見られぬ、素晴らしいものを見せていただいた』
「二度と……?」
ミシェルがつぶやいたときだった。
――この先は、四人しか入れぬ。
扉の顔から声がして、ミシェルとネコはびっくりして、ぴょんっと後ろにはねた。
――ZOOの支配者、月の名を持つ者、翼を持つ者、幼子がいればよい。
女神は、微笑んだように見えた。
――それ以外の者は、ここで待て。
「ZOOの支配者、月の名を持つ者、翼を持つ者、幼子」
ペリドットが復唱した。
「ZOOの支配者は、俺だな。俺が行く。それから、月の名を持つ者といったら、ここではルナ、おまえが一番適任だ。――行けるな?」
「うん!」
アズラエルのバックパックから、ひょこ、と、ちこたんが顔を出した。
「翼を持つ者は、僕かエーリヒ君だね。僕が行こう」
ニックが手を挙げた。
「なら、最後はわたしだな!」
ルシヤが鼻息荒く、前に出た。
「幼子、ではないと思うけど、わたしは子どもだ! だからわたし!」
「待てよ、俺が行くよ」
ピエトが不服そうに、ルシヤの服の裾をつかんだ。
「俺だって子どもだぜ」
「わたしはルナのボディガードだよ! ルナが行くなら、わたしが行くべきだ」
ふたりとも譲らない。
「神よ。幼子は、どちらを連れて行けばよい」
ペリドットが尋ねると、レリーフは答えた。
――どちらでも。月に近いものを。
「この幼子はふたりとも“ウサギ”。月に近い」
――ならば、翼を持つ者を。
それには、ルシヤもピエトも詰まったが、少し考えて、クラウドが言った。
「パルキオンミミナガウサギの耳は、羽根のようだという。ま、羽根で飛べるタイプの動物じゃないが、ルシヤの伝承もあるし。この場合、ルシヤのほうが適任では?」
「なんだよ、それぇ」
ピエトは不服そうだったが、レリーフの神は何も言わない。
「では、わたしだな!」
ルシヤは胸を張った。
「では、皆、ここで待て」
ペリドットの声とともに、大扉が開く。ここでは、鍵の音はしなかった。
ペリドット、ルナ、ニック、ルシヤの四人が、扉の前に立った。
「気を付けろ。ペリドット、ルナを頼んだぞ」
アズラエルの声。ちこたんも、不安そうな様子でこちらを見ている。ルナについていきたくても、この先へは行けない、ということを分かっているようだ。
「みなさん、お気をつけて」
サルーディーバが、皆の安全を祈るように手を合わせた。
「みんな、待っててね」
ルナが手を振った直後――扉が、閉まった。
残されたアズラエルたちの側は、扉が開いて閉まっただけだったが、ルナたちのほうでは目の錯覚かと思うようなことが起きていた。閉じたはずの扉が、向こうにあったのだ。
後ろを振り返ればだれもいず、先ほど歩いてきた石畳の小径が見える。
四人が立っているのは、先ほどと同じ円形の広場だ。
――ラグ・ヴァダ、アストロス、地球とは?
レリーフから、突然声が響いて、ルナたちは驚いた。
「謎かけかい?」
ニックが顎に指を当てて考え込む。
『イアラ。三ツ星のきずな。過去と現在と未来』
ペリドットが言ったのかと思ったが、ペリドットではなかった。ペリドットのそばには、真実をもたらすトラが立っていた。彼が言ったのだ。
――では、地球行き宇宙船とは?
『キヴォトス』
ニックではなく、言ったのは白いタカだった。いつもの甲高い声ではなく、厳かにも聞こえる――神秘的な声だった。
――それでは、天然総生産とは?
『“たどり着くもの”』
ルナの隣に、月を眺める子ウサギが、立っていた。
澄んだ声が、粉雪みたいに降ってきた。
――ガチャリ。
鍵が、開いた。
鍵が開いた音は、ルナたちだけでなく、扉の向こう側に残されたアズラエルたちにも聞こえていた。
「――開いたぞ! 聞こえたか?」
扉に全身を押し付けて、耳をそばだてていたクラウドが叫んだ。
「聞こえた!」
「ああ、俺にも」
「開いた!!」
「――向こうで、何が起こっているのでしょう」
サルーディーバとカザマが、ほっとしつつも、不安そうな顔で見つめあった。
ルシヤは、いよいよ最後の謎かけが来て、自分のそばにも自分の魂が来て答える――というのをワクワクしながら待っていたのに、謎かけは終わってしまい、自分の本体も現れなかったので、ちょっぴりガッカリした。
ピエトは自分のZOOカードに何度も会ったことがあるのに、ルシヤは一度もないからだ。
ちょっぴり不貞腐れたルシヤだったが、すぐに、そんなことも吹っ飛ぶほどの恐怖に見舞われることになった。
――見事なり。
女神のレリーフが、はっきりと笑顔になった。
――征け。“たどり着くもの”たちよ。
――たどり着いてみよ。
「ルシヤ!!」
ルシヤは、がくん、と身体が沈んだ気がした。
地面が消えた――ルシヤの意識としてはそれだ。急に無重力空間に放り出されたような――足場がなくなって、自分が落ちたのだと分かったときには、全身に汗をかくほどぞっとした。
世界が、変貌していた。
落ちるルシヤの手を、ルナが握りしめていた。必死で、両手でもってしがみつく。
レリーフも、石畳も、花畑もない。
空は黒く赤く、まるで地獄の様相に変化していた。ルナがいる「足場」も、冷えた溶岩が重なって積み上げられたように不安定で、禍々しい。
「上がって!」
「うっ、うん!!」
ボディガードとしての気勢は消し飛んでいた。必死でよじ登り、あまりにせまい――ルナと、自分しかいられない、平たくもない足場。ひゅっと喉が音を立てた。数十センチしかない足場の周辺は、断崖絶壁だった。
昏く、漆黒の、底の見えない世界が真下にひろがっている。
その無間から、ごぽごぽという、あまり気分の良くない音や、人の悲鳴や、断末魔が聞こえる気がするのだ。
ルシヤは、恐怖のあまり声も出ず、足が震えた。ルナも震えていると思って見上げたが、意外とルナは、怖がっていなかった。
「夜の神様は、これを見越して、持たせてくれたのかな」
「え?」
ルナのつぶやきは、小さすぎて聞こえなかった。彼女はポケットから何か取り出し、大口を開けてかぶりついた。
「パルキオンミミナガウサギ!!」
ルナが、呪文のように唱えた言葉は、聞こえた。
ルナの姿が、一瞬にして変貌する――「ルシヤ」に。
「ル、ルナ……?」
「うん!」
声は、ルナだ。
「下を見ないで! 上だけを向いてて!!」
ルシヤをおんぶしたルナは、走り出した。ルナとは思えないスピードだった。不安定な足場は狭く細く、いきなり途切れていたりする。しかしルナは跳躍した――信じられないバネだ。ルシヤだって、こんなに高く跳べたことはない。
「ルナ……?」
ルナであって、ルナではない。ルシヤを抱き上げ、足場の悪い断崖絶壁の道を飛び、駆け抜けているのは、映画で見た「ルシヤ」だった。いや、あの女優の顔とも違う。さっきのレリーフのよう。見たことがないようで、見たことがある顔。
記憶の、片隅にある顔。
ルナは、ルシヤだったのか。
ルシヤは唐突に、それを悟った。
「母さん」と言いそうになって、ルシヤは、ルナにしがみついた。
「――ルナ!!」
走り飛ぶルナに抱えられたルシヤは、ルナの背後がはっきりと見えた。
岩場が、崩壊していく。ルナたちが駆け抜けるそばから――不安定な岩場は、ふたりを追い込むように音を立てて崩れていく。
「しっかりつかまって!!」
道は、道というにはあまりに頼りなく、一本道ですらない。いきなり道が途切れ、高い場所に次の足場があったりする――もし、ルシヤひとりであっても、ここを通れたかどうか。
恐怖に震えた足では、どこかでもつれて、真っ逆さまだったかもしれない。地の底に何があるのかなんて、考えたくもない。
「出口が見える!!」
ひときわ高い場所に飛び乗ったルナは、小休止した。やっと出口が見えてきた。小さくはあるが、白く光る場所がある。あれが出口だろうか。今まで通ってきた岩の道が、完全に崩壊していくのを見て、ルシヤはルナにしっかり抱き着いた。
――どうした。
ふと、ルシヤの耳に、声が飛び込んできた。地の底ではない。遠くもない。まるで、自分の内側から響いてくるような声だった。
――おまえの勇気は搔き消えた。どうしたというのだ。
「ルナ――何か言った?」
「え?」
ルナではない。ルナは周囲を見渡していて、何もしゃべっていない。
ルシヤにだけ聞こえているのか。
――生まれたときから薄弱で、難病をいくつも患い、それでも七十七の天寿を全うした。親を失い、姉を失い、家族を失い、それでも生き抜いた。想像を絶する孤独と忍耐の人生。その末に、おまえの魂は芽吹いた。しかし遠い。遠すぎる。
――おまえが、遠すぎる。
だんだんはっきりと聞こえてくる声に、ルシヤは耳を澄まし、辺りを見たが、ルナと自分以外にだれもいない。
(まさかこれは)
わたしの、魂の声か?
「ペリドットさんたちは、どこに――」
「ルナちゃん! ルシヤちゃん!!」
ルシヤははっと我に返った。
大きな白い鳥がこちらへやってくるのが見える。ニックとペリドットが、その背に乗っていた。白いタカは、ニックの化身だ。ふたりは無事だった。
「ニック! ペリドットさん!! よかった」
ルナはほっとして叫んだ。
いきなり訪れたこのすさまじい世界のせいで、ルシヤはふたりのことをすっかり忘れていた。
どこからともなくしていた声はやんだ。けれど、胸に手を当てると、ほのかに熱い気がした。




