320話 セパイローの使者と、太極図の扉 1
6月21日。
その日、ルナは、お弁当をいそいそと作った。ちこたんと一緒に。
やはりちこたんは一緒に行きたがり、先にミシェルと三人(?)で、扉へ向かうことにした。
――いや、ルナの弁当の気配を察したセルゲイに見つかってしまったので、もうひとり増えた。
三人と一機で、アンジェリカがグループメールで送ってくれた地図を見ながら、鏡の間に向かった。
遊園地は、ペリドットかアンジェリカがいるかぎり、ずっとZOOカードの世界になったままだ。K19区に、相変わらずひと気がないのが幸いだった。今のところ、紛れ込んだ一般人はいないとのこと。
鏡を通り抜け、回廊を歩いて花畑に降り、迷路に向かう。最初の「不死鳥のドア」は開け放たれたままだった。
簡単な迷路を抜けると、太極図の模様がついたドアの前に、ペリドットとクラウド、エーリヒが座っていた。
三人の周囲には本が何冊も積み上げられていて、それぞれが本を読んでいた――というより、調べものをしているようだった。
三人はルナたちの顔を見て、本を置いた。
「やあ、これはいいものを持ってきてくれた」
エーリヒは、香ばしいコーヒーの香りに、真っ先に反応した。
「みんな、おつかれさま!」
ちょうど昼時だ。クラウドもペリドットも、セルゲイが持っていた大きな弁当箱に笑みを見せたし、顔は変わらなくても、エーリヒも喜んでいるのが丸わかりだった。
「一時過ぎにニックとベッタラと交代して、雷天にラーメンでも食いに行こうかと思っていたんだよ」
クラウドはそういって、フォークを配る。ルナはレジャーシートも持参していた。なにせ、ペリドットたちは地べたに座り込んでいたから。
「作ってきてくれたのか。いつもよくやるな。あまり無理はするなよ」
ペリドットは言ったが、彼がルナの弁当をけっこう楽しみにしているのは周知の事実だ。
「こっちがお弁当で、ポットが、これがコーヒーで、こっちがスープ。これはバーガスさんからのおやつ。レモンのクッキーだよ。美味しかったよ!」
「おお、これは美味そうだ」
ペリドットは、からあげとおにぎりと、玉子焼きを同時に持っていった。
「ごらんのとおり、変化はまったくないんだがな」
みんなで、扉を見上げた。それからすぐに弁当に目を移した。
ちこたんが、みんなに行きわたるように、コーヒーをカップに注ぐ。
「バンビがその――チラン島? にたどり着かないと、このドアは開かないのかな?」
「さぁ、どうだろうな」
ペリドットはおにぎりをほとんどひと口でたいらげ、「そうだ、注意事項」と言った。
「おまえたちはまっすぐこちらに来たようだからよかったが、花を見に、あちこちうろつきまわるなよ」
「えっ?」
ルナとミシェルのウサ耳と猫耳がぴょこんと立った。実は、あとで花を見てから帰ろうと思っていたのだった。
「なぜ?」
セルゲイが聞いた。
「昨日、ミヒャエルが迷った」
「カザマさんが!?」
カザマが、あの花畑で迷った? 迷路ではなくて?
「ミヒャエルは、昨日の午前中にここへきて、差し入れを置いていってくれたんだ。その足で、少し花を見て戻ろうと思ったんだろうな。だが、そのまま“迷い込んで”しまった。夜になってもママが帰らない、とミンファがアントニオに連絡を。中央役所にも戻っていない。その時点で、俺たちもはじめてミヒャエルが行方不明になったことを知った」
ペリドットの説明に、子ウサギと子ネコは絶句した。
「夜じゅう探したが、見つからない。今朝、太陽が上がった時点で、アントニオがミヒャエルを見つけ出した。彼女も、まさか帰れなくなるとは思っていなかったらしい。彼女の言い分では、ちゃんと回廊も迷路の生垣も見えている場所で、花を愛でていたらしいんだ。そんなに離れていないはずだった。なのに、戻れなくなった。理由は不明」
「お城や迷路も見えていたのに戻れないってどういうこと?」
「歩いても歩いても、回廊に戻れなかったそうだ。進んでいるのは分かるんだ。周辺の花々が違うものに変化している。ようやく、迷ったことに気づいたときは、遅かった。夜になっても戻れずに、ミヒャエルは歩き続けて、ひと晩を明かした」
「まじで」
ルナとミシェルはぶるぶるっと震えて抱き合い――ちこたんもルナにしがみついた。
「声をかけてくれれば、一緒に探したのに」
セルゲイは言った。だが、ペリドットは首を振った。
「人を呼ばなかったのは、おまえたちも迷いかねないからだ。ミイラ取りがミイラになる。俺もこの場所から動かずに、ZOOカードで探した」
たっぷり野菜が入ったスープを、カップになみなみと注いで、ペリドットは嘆息した。
「この世界は、俺でもまだまだ知らない部分がたくさんある……。今朝はルシヤとシュナイクルが来たから、一応注意はした。バラのアーケードのほうに行ってみたいといっていたからな」
「……あたしたちも行こうとしてた」
ルナとミシェルは青くなってつぶやいた。
あの美しい花畑が、迷路になってしまうなんて。
生垣の迷路は単純だったのに、外の迷路のほうが怖かった。
「このことはグループメールで注意喚起するとして。ここへ来るときは必ず三人以上で、とか、決めたほうがいいかもな」
「そうだね。子どもだけで来るのも危険だ」
エーリヒが、メールを打ちながらつぶやいた。すぐに、先ほどの注意事項が、メールに流れてくる。
グレンから「了解」のメールが真っ先に届いた。つづいてアズラエルからスタンプが。このライオンのスタンプは、どこで見つけたのだろう。
「それはそうと、ルナ」
「ぷ?」
明太子おにぎりをもふっていたルナは顔を上げた。
「おまえ、明日終日、ここにいれないか」
「あした?」
「ああ。明日はアンジェリカも仕事が入っているし、俺も、すこし調べたいことがある。ここを離れたい」
「らいじょうぶれす!」
ルナはたこさんウィンナーをかじりながら、大きくうなずいた。
「そっか。ルナも一応、ZOOの支配者だもんね」
「一応ね」
ルナは眉をへの字にしてうなずいた。
「ここで“ムンド”を開いていなきゃならんからな。朝八時から夜の八時まで。どうか頼む。便所は“望めば出てくる”。夜は俺が来るからいい」
「わかりました!!」
「“望めば”……?」
ミシェルの問いが終わるか終わらないかのうちに、ホテルのトイレみたいな豪華絢爛なトイレが、迷路の壁をぶち抜いて現れた。
クラウドが低い声で言った。
「イメージするなら、なるべく豪華なほうがいい」
「ああ。それに、イメージは、なるべく文明人にまかせること」
「文明人?」
「ベッタラがイメージしたトイレは、俺たちにはあまり衛生的じゃないってことさ」
ルナとミシェルは、顔を見合わせた。
「いったい、いつ開くんだろうね……」
昼食も終えて、眠気も襲ってくるような時間帯――ミシェルがあくびをしながら扉を見上げた。
「バンビの話じゃ、チラン島に着くのが、こっち時間で22日の昼頃だと。そこから封印の場所を探すのに、どれだけかかるか――」
「じゃ、それまで見てなくていいんじゃないの?」
「変化はなんのタイミングで起こるかわからん。ミヒャエルのようなこともあるしな……。まぁ、おまえは、無理はするな」
「うん。ミシェルはふだん通りに暮らしていていいよ」
クラウドも言ったが、ミシェルは口を尖らせた。
「でも、肝心な時に出遅れるのは嫌なのよね……」
別行動をとって、ハンシックのみんなとの出会いが遅れたミシェルは、二度と出遅れまいと決めていたのだった。
「それはそうと思い出した。聞きたいことがあったんだ、ルナ」
「ぷ」
ルナはふたたび、クッキーを貪っていた顔を上げた。
「“カンテンのウサギ”ってのは、いったいなんなんだ?」
ペリドットが唐突に聞いた。クラウドもエーリヒも、本や端末を手放したのをみると、どうやら調べものはそのことだったのだろうか?
「寒天のウサギは、寒天のウサギなのです」
「ところがだ。調べても、そのカンテンのウサギとやらが出てこんのだ」
アンジェリカもお手上げだった、とペリドットは言った。
「カンテンって、あの、海藻類から作り出す、ゼリーの素みたいな成分のこと?」
クラウドの問いに、ルナは困り顔をした。
「覚えてないんですよ! ちゃんと名前が覚えられなかったの。フサノスケくんは知ってると思うんだけど」
「フサノスケ?」
「ウワバミさんです!」
ルナの答えに、ペリドットはますます困り顔をした。
「大路の連中か……。まいったな」
「たしかに、あのあたりの人たちはほとんど“神様”だって、おでん屋の主人も言っていたしね」
クラウドが思い出して苦笑する。
「あそこも、ここの庭レベルに、深遠な場所なんだ。俺からすればな――ウワバミなんてまだいいほうだ。ウサギだってことが、面倒なんだ」
「どういうこと?」
ミシェルが聞いた。ペリドットは、少し考えてから、説明を始めた。
「……ZOOカードには、想像上の生き物もいる。そう多くはないが。たとえば不死鳥、ペガサス、ユニコーン、龍……」
「九庵之不死鳥さんと、布被りのペガサスさんは知ってる」
ルナが言った。
「ユニコーンは見たことないなあ」
「ララは八つ頭の龍だろ」
「ああ。麒麟なんかもいるか……ウワバミだって、ほとんど想像上の生物だ。神話に出てくるオロチってやつな。規格外にでかいヘビ。つまりだな、ZOOカードで想像上の生き物を冠しているヤツは、生きてる人間のほうも規格外なんだ。外見とか、能力とかが――あとは、天命がでかい。大きく時代を動かす人物だったり」
「うん」
ルナとミシェルだけではなく、エーリヒたちも――ちこたんまで真剣に聞いていた。
「つまりな、分かりやすいんだよ。想像上の生物のZOOカードが出てくれば、あ、コイツはなんかやらかすなと。王様とか大臣とか政治家、芸術家とか、大企業家とか、生きてる人間もまぁ目立つし。この“布被りのペガサス”なんかは、ペガサスってだけで目立つから、布を被って隠れてるわけだ」
ペリドットは呼びだしたカードを見て、「謙虚なのかな」と首を傾げた。
「なるほど」
クラウドがうなずいた。
「だが、たまに、そういった想像上の生物がまったく敵わない、本物の“神”がいる」
「本物……?」
「ああ。――つまり、おまえやミシェルみたいな人間だ」
「あたしたち!?」
ルナとミシェルは仰天して、それぞれの耳を跳ね上げた。
「むしろ“本物”は、“平凡”の中にまぎれてるんだ。ウサギにネコ、犬、ネズミ、小鳥……圧倒的多数の、しかも弱そうな動物の中にいる。そいつらはな、特に世界を動かすような業績を残すわけでもなく、英雄になるような才能があるわけでもなく、平凡で、目立たず、まったく普通だ。生き方はかなり地味。だが、一歩踏み出した足が、うっかり世界を救うボタンを押しているということが、ごくまれにある」
「……」
ルナとミシェルは絶句していたが、エーリヒは納得したようだった。
「なるほど。そういうことかね」
「そいつらは、別に世界を救おうと思って歩いているわけじゃないんだが、犬も歩けば棒に当たるんだ。世界を救うスイッチを押して回っている。なにかの拍子に」
「なにかの拍子に!」
ミシェルが叫んだ。
「ミシェルはいつでも俺の女神だけどね」
クラウドは微笑んで言ったが、ミシェルはいつも通りスルーした。
「つまりだ」
ペリドットはコツコツとドアを拳で叩いた。
「このドアを開ける“キー”を持っているヤツも、そういう人物である可能性があるってことだ」
「それが寒天のウサギさんなの!?」
ルナは耳をさらに伸ばしたが、残念なことにアンテナはなにも受信しなかった。
「俺たちに、まったく縁がないってことはないと思うんだ」
ペリドットは、自分のZOOカードボックスを見ながら、悩まし気に嘆息した。
「今のところ、俺たちの周りで、意味不明なZOOカード名があるとすれば、ソイツくらいなんだ」
エーリヒにクラウド、セルゲイがルナを見たが、ルナの耳がゆったりと垂れさがるのを見ただけだった。
「きー……」
ルナはぽかっと口を開けた。
「きー、き? きを、き……きを見るは?」
あのウサギは、なんて言っていたっけ。
ルナは一生懸命考えたが、それ以上は出てこなかった。
6月22日。
ルナは約束通り、午前八時から午後八時まで扉の前にいて、一時間ごとに「変化なし」のメールを送り続けた。
ミシェルとアズラエルとクラウド、ルシヤとちこたんといたし、なんだかトランプなどしていたので、そんなに退屈はしなかった。
夕方、「チラン島に着いた」とバンビのメールがあったあと、彼からは音沙汰がなくなった。
少し不安だったが、ペリドットが様子を見ようと言ったので、そのままになった。
シュナイクルが持ってきてくれた昼食の差し入れは大変おいしかったし、夕食は屋敷のメンバーも合流して、雷天でラーメンを食べた。
以上。
――変化が起きたのは、6月23日の昼前だった。
ルナはその日、昼食の差し入れを焼きうどんにしようと思って、冷蔵庫を物色していた。
「キャベツがないねえ」
「たまには、あたしらと買い物でも行こうか」
レオナとセシルの提案には、もちろん乗った。
「あ、じゃあ俺も……」と財布を持ったバーガスは、「女子会してくんだよ!」とレオナに怒鳴られ、グレンと寂しくふたり、待つことになった。
ルナは「いいの?」と聞いたが、彼らは先日、セシルとレオナを置いて飲みに出かけたので、いいのだということだった。
屋敷はいつも通りの日常が繰り広げられていたが、大路では、大変なことが起こっていた。
どちらかというと、「世界」にとっても、大変なことが――。




