315話 バンヴィの絵と、アストロスの神話 1
かくしてバンヴィは、マ・アース・ジャ・ハーナを去らなければならなくなったが、父母ときょうだいたちは、たいそう心配した。
ゆえに、天空の神カザカンドは、バンヴィに黒きタカを授けた。とても賢く、強いタカを。敵を蹴散らし、知恵も与え、陸地を見つけるだろう。そして、バンヴィが困ったら、すぐさまカザカンドに知らせるように。
海の神ゲムは、羅針盤を授けた。バンヴィを正しいところへ導くように。
(マ・アース・ジャ・ハーナの神話/バンヴィときょうだいたち)
バンビが真砂名神社の表鳥居近くのシャインから出ると、すでにクラウドとミシェル、ルナは来ていた。めのまえにある駄菓子店のベンチで、だれかと話し込んでいる。
「おはようバンビ」
「おはようございます!!」
クラウドとミシェルはいつも通り。ルナはめちゃくちゃ元気よくあいさつをした。
キスケという、頭から足の先まで真っ白で巨大な男に見下ろされながら、ラムネというサイダーをもらい、緑が濃くなってきた山裾を眺めつつ、大路を歩いた。
「リュピーシアどう? ちゃんと動いてる? あ、ソルテって名前になったんだっけ」
ラムネを飲みながら、クラウドが聞いた。
「だれに聞いてんのよ。不具合があったらあたしが治すわ――あたしより役に立ちそうってンで、クビになりそう」
バンビは上手くラムネが飲めないようだ。クラウドは、ガラス玉を中に押し込んでやりながら、笑った。
「クビになったら、研究に没頭できる」
「店を追い出されなきゃいいんだけど。――変わった飲み物ね」
「そうだな。俺もこのドリンクは、ここでしか見たことがない。このガラス玉はなんの意味があるんだろうな?」
階段のふもとまで来たところで、シャイン・システムからルシヤが飛び出してきた。
「おはよう!! ソルテがわたしの分も働いてくれるから、行っていいってじいちゃんに言われて来た!!」
満面の笑顔で胸を張るルシヤに驚いたバンビが、腰を抜かした。
階段を上がり、参拝し、参道を歩いてギャラリーに着いたころには、クラウドは汗ばんでいたし、女の子三人はめったらやたら元気で、バンビひとりがヘロヘロになっていた。
原因は、主にあの階段だ。
「なんなの……なんなのぅ、あの、階段……」
バンビは、毎年祭りのときだけ真砂名神社に来る。人混みは嫌いだが、それを我慢できるほど、祭りというものが好きなのだ。文化ごとにさまざまな祭りがあって興味深い。ハンシックの皆と、ギャラリーを見に来たときもある。
そのときは、こんなにきつくなかったはずだ。
「もしかして、あたし、運動不足……?」
それは否めない。おまけに三十歳を過ぎてからは、体力が下降する一方だ。
「いっそ、自分をサイボーグ化しちまおうかしら……」
血管はすでに電子腺だが、あれは病気にかかりにくいだけで、筋肉が強化されているわけではない。
バンビ以外は、「バンビ、この階段上がるの初めてだったんだなぁ」と呑気に様子を伺っていた。
よろよろと縁側に倒れ込み、あおむけになって、バンビはひと呼吸着いた。
梅雨の時期のせいか、空気が多少湿っぽい気がする。木陰はバンビの汗を丁寧に冷やしてくれた。
「先に行ってて~……」
ルナたちはすでにギャラリーに上がり込んで、絵を見ている。
バンビは深呼吸を繰り返してから、おもむろに起き上がって、まっすぐにバンヴィの絵まで行った。場所は覚えている。
ギャラリーの中央あたりに、その絵はあった。
「――こんな絵だったっけ?」
バンビの姿を見つけて、ほかの絵を見ていたルナたちも寄ってきた。クラウドの感想には、ミシェル以外の皆がほぼ――賛同するところがあったようだ。
「こんな絵だったよ?」
言ったのは、前世が描いた本人であるミシェルだけだ。
絵の主役はバンヴィ――左端にいる小さな子どもで、手のひらには小さな星を持っている。これが「アルビレオ」だろうか。
セパイローの末子であるバンヴィが、親の気を引きたいがために勝手に星をつくり、その罰として神世を追放されようとしている――絵だ。
バンヴィを囲む大人の姿の神たち。男神も女神もいる。だれもが、どうにも悩ましい顔をしているのだ。
困っているような。怒っているような。悲しんでいるような。
右端上に、親であるセパイローが玉座に座っているのだが、ひとりだけなんだか大きさが違い、遠近法がおかしい。バンヴィより小さくて、奥にいる。真正面を向いていて、背後に光が描かれているのだ。光背というやつか。
さらに、セパイローの右手は、あらぬ方向を指している。指さす方向は不自然で、だれを指しているのか、いまいちわかりにくい。
「なんかさ」
ルナがポツリと言った。
「この神様たち、バンヴィのこと心配してるような顔してない?」
「心配だって?」
クラウドが首を傾げた。
「だって、彼らはバンヴィの兄や姉たちなんだろう? 心配はすると思うぞ」
ルシヤも当然のように言った。
「お嬢、これ、そういう話じゃ……」
バンビは言いかけて黙り、そのまま考え込んでしまった。
五人そろって、しばらくその絵を眺めていたが、だれも何も言わなかった。
絵を眺めてばかりいても埒が明かないので、五人は縁側に戻った。
日差しは来たときより陰っている。木陰だからというわけではなく――雨が降りそうだ。天気が崩れなければいいなと思いながら、外に足を投げ出すようにして座った。
「あたしが来るといつも雨になるよね……」
ミシェルが不貞腐れた。最初に来たとき、予言の絵を見てぶっ倒れ、そのあと土砂降りの雨に見舞われて、風邪をひきかけたのは、ついこのあいだのような気が。
「レインガードを持ってくればよかったかな。山は天気が変わりやすいし」
バンビも空のご機嫌を伺いながら、持ってきていたバックパックから、ノートパソコンほどの大きさの画集を取り出した。
「あれっ!? これ、このギャラリーの画集!?」
真っ先に食いついたのはミシェルだった。
「うん。前、シュンたちと来たとき、入り口で売ってたから買ったの」
「えーっ!? それっていつ!? もう売り切れちゃったかな。今は売ってないよね?」
「どうだろう……あたしがこれを買ったのは、お祭りの日で」
「それなら社務所のほうに置いとるよ。あと、大路の書店にもある」
「ホント!?」
今すぐ走り出しそうなミシェルの足を止めたのは、イシュマールじいさんだった。
「そうそう売り切れんわい。そんな高い本。ミシェル、こたつの上に味噌汁鍋があるから、持ってきてくれんか」
「うん!」
おじいさんの休憩所がどこにあるか知っているのは、いつも絵を描きに来るミシェルだけだ。
彼女はまっしぐらに廊下を駆けて行って、お鍋をもって早足で歩いてきた。
その後ろから、アンジェリカが、いくつかのお椀と箸、濡れ布巾だのを乗せたお盆を持ってくる。
「アンジェ!」
「あたしも握ったの。あんま上手くないけど」
おじいさんが持っていた大皿の上には、すでに海苔が巻いてあるおにぎりがたくさん。
「これがシャケで、こいつは梅やな……おかかと、塩昆布。どれやったっけ。いくらが二個しかないからケンカせんようにな」
「いただきまぁす」
ミシェルは真っ先にシャケを。ルナはいくらを取ると思いきや、おかかを取った。
クラウドはいくらを。アンジェリカは塩昆布を。
ルシヤは首を傾げながらルナを見習っておかかを取り、バンビは迷ったすえに梅干しをつまみ上げ、おじいさんはシャケを取った。
「ほんで、せっかく本物があるんに、なんで画集なんぞ見とるんじゃ?」
おじいさんの疑問も、もっともだった。
「絵の観察はしたのよ。でも、見れば見るほど分からなくなっちゃって……」
「なにがや。絵の由来がか?」
味噌汁は豆腐とわかめだった。バンビは肉類が入っていないことを確認し、椀を口元に持っていって、飲み物みたいに飲んだ。飲みつけない味噌の味だが、なかなか美味だ。
「絵の由来――っていうか、なんだか、どうしても、『こんな絵だったっけ?』って疑問ばかりが湧いてきちゃってさ」
「おじいちゃん、アストロスの人なんだから、おじいちゃんに聞いたらよくない?」
ミシェルの台詞に、バンビは鼻から味噌汁を吹きかけ、クラウドは噎せ込んだ。
「ン!? ――え!? あなた、アストロス人!?」
「そ、そうだった……! そういえばそうだった!!」
「いやあたしは、イシュマールさんに聞くためにここにきたんだけど」
アンジェリカの平たい目が、クラウドを見ていた。なにも知らないバンビはともかく、クラウドが忘れていたなんて。
「あなた――アストロス人なの? じゃあ、正確な、アストロスのマ・アース・ジャ・ハーナの神話を……!?」
梅干しの酸っぱさにもうひとつ悲鳴をあげてから、バンビはそう聞いた。バンビの形相を見て、ルシヤは梅干しおにぎりに手を出すのをやめた――二個目はいくらにして、笑顔になる。
「ルナ! みそしるっていうスープは美味いな!! この白いゼリーみたいのはなんだ?」
「お豆腐だよ」
ルナが梅干しを手に取ったのを見て止めようとしたルシヤだったが、遅かった。ルナの顔がしわしわになるのを無事見届けてから、三個目――シャケを手に取った。
「アンジェ、やっぱり海苔は、食う直前に巻いた方がパリッとして美味いんやないか」
「え? あたし、このしなっとした海苔の感触けっこう好き……」
「ほうか」
「明太子があったら最高だったなあ」
「わしな、けっこうアレ、ツナマヨ好きなんじゃが」
「えーっ。あたしあんまり、あれはちょっと」
「出汁巻きも残っとったから入れたろ思うたらアンジェに止められての……」
「玉子焼きいれるとか信じらんない」
「玉子焼きはぜひ入れてほしかったのです!!」
ルナが猛然と主張した。
「アズはあんまりおにぎり好きくないけど、ケチャップのやつと、オムライス風とか、お肉巻いたのとか、唐揚げいれたやつは食べるよ!」
「ねえ、ねえねえねえちょっと待って。おにぎり談義はあとにして」
バンビは止めた。
「よかったら、正確なアストロスの神話を聞かせてくれない?」
バンビの勢いにだいぶ反して、おじいさんの返答は冷めたものだった。
「おまえさん、正確な神話なんぞ、この世に存在せんわ」
「――え?」
「神話は神話じゃ。記録やない。歴史じゃって残ったもんが都合よく書き換えとるとこもあるし、“正確”な伝承や神話なんぞ存在せん。神話っちゅうのは、そういう読み方をするもんやない。そう思っといた方がええ。――まあ、それは、それで」
イシュマールは最後のシャケおにぎりを取った。ミシェルはそれを横目でうらめしそうに見つめ、おかかを取った。
「おじいちゃん、このシャケめっちゃ美味しかったね……」
「ハラミの部分炭火で焼いたからの」
「まじで!? 家でもやろ! 家でも――」
「それは、それで?」
バンビは食いさがった。油断していると、話題はすぐおにぎりにそれてしまう。
「それは、それで。まぁ、おまえさんらが、だいぶ神話を勘違いしてとらえとるのは分かった。さっきアンジェから聞いてのう」
「勘違い?」
「うん。だから、アストロス人として、間違っとるとこは正してやらんと思ってな」
「興味深いな」
クラウドが食べ終えて、箸をおいた。彼は結局二個しか食べなかったけれど、一番たくさん食べたのはルシヤだった。五個も食べていた。
「じいちゃん、いくらのおにぎり作ってくれないかな」
「シュンさんのおにぎり、おっきかったねえ」
「シャケもいくらもおいしかった!!」
「美味かったか。よかったよかった」
「お嬢、おにぎりなら、あたしが色んな種類のおごるから!」
バンビの焦り具合に、ようやくルシヤはだまった。
大切な話をするときは、口をはさんではならないと、祖父から言い聞かせられているためだろう。こういうところは素直だ。
「まぁ、そう焦らんと」
イシュマールは立ち上がり、大路のほうを指で差した。
「たいせつな情報を流すときは、報酬もらっとかんとな」




