310話 かごの中の子グマ Ⅴ 3
二週間後、K15区の宇宙船の搭乗口には、ムスタファ親子を見送るために、屋敷のメンバーが勢ぞろいしていた。
大富豪のムスタファには、本来ならもっと数多くの見送りがあるはずだったが、ここにいるのは屋敷のメンバーだけだった。
「静かにたとうと思ってね。親しくしていたひとには、すでにあいさつはすんでいる」
ムスタファは微笑んだ。そして、ルナに頭を下げた。ルナは驚いて、ぴょこーん! と背筋を伸ばした。
「ルナさん、すまなかった」
ムスタファは頭を下げたまま、言った。
「私の宝を――息子を救おうとしてくれたあなたに対して、私はずいぶん非礼なことをした。許してほしい」
「いっ、いえ――!」
ルナはあわてて、両手を振った。
ダニエルを抱えて、ピーターのマンションに駆け込んだあの時点で、ルナはだれが犯人かはわからないでいた。疑わしいのはムスタファをはじめ、ムスタファ邸にいたすべての者だったけれども。犯人を確定してくれたのは、セルゲイやエーリヒ、クラウド、警察だ。
でも、ムスタファが怒ってダニエルを連れもどしに来るのはわかっていた。
「あ、あたしも、いろんなことがわからないでいて――なにもいわずに連れだしてしまったので、怒られるのも無理はなかった――のです」
ルナは言い、ちょっと下がって、自分も頭を下げた――ぶつかりそうだったので。
「ほんとうにすみませんでした」
ムスタファはようやく、頭を少し上げた。
「――君は、命の恩人だ。息子の。――いや、私の」
そして、そのまま、ちらりと横を見た。
「私が独り占めしているわけにはいかないな。息子があなたと話したいだろう」
ムスタファの苦笑。
屋敷の面々と別れを済ませ、大きな花束を持ったダニエルが、少し離れたところでじっとこちらを見ていた。
ルナは深々とお辞儀をして、ダニエルのほうへ向かった。
「アズラエル、クラウド」
ルナがダニエルのほうへ行ったのを見届けてから、ムスタファは、ルナとともにいたふたりに声をかけた。
「親父さん、どうか達者で」
「あまり、お力を落とされないように」
アズラエルとクラウドの励ましに、ムスタファは、ふと涙を見せた。ほんのわずかばかりだが。
「君たちを息子に持った親は、幸せ者だな」
なんとなく、ふたりにもわかっていたことだった。ムスタファは、なぜか、とても自分たちを気にかけ、可愛がってくれた――そのことが不思議だったが。
息子のように、思われていたのかもしれないと。
「それはどうかな……」
「俺は親孝行だって自覚はありますけどね」
アズラエルとクラウドは、まったく反対の感想を口にした。ムスタファはようやく明るく笑い、「君たちにも世話になった」といった。
「とんでもない。世話になったのは俺たちのほうだ」
「いや、確実に私のほうが、だよ。――アズラエル、クラウド」
ムスタファはあらたまって、告げた。
「もし、この先、――ララ殿とのかかわりのなかで、またなにか不都合なことが起きた場合は、私を頼ってくれ」
ムスタファは真剣だった。
「私が君たちに、――ルナさんに、なにかしてやれることがあるとしたなら、そのくらいだが。話半分には聞かないでくれ。必ず力になる。覚えておいてくれ」
ふたりはムスタファと固く握手を交わし、「ありがとうございます」と言った。
「イーヴォも、苦しんでいたと思います」
ルナたちの屋敷にいたころと同じく、健康体にもどったダニエルは、あろうことか、ピエトの身長を越していた――1センチだけ。それでもネイシャよりは小さかったが、ダニエルはまた、大きくなった。
身体も――心も。
「イーヴォは、僕の顔を見るたび悲しそうにすることがありました。僕の病気がなかなか治らないためだと思っていた。でもあれは、きっと、自分を責めていたんですね」
「……」
「夜中、イーヴォが泣いているのを、僕は見たことがあります。僕が、なんで泣いているのと声をかけると、イーヴォは、『申し訳ありません』と言って、さらに泣くんです」
ダニエルは、みんなからもらった花束に、顔を埋めた。
「イーヴォは、たしかに僕のことも愛してくれていました。イーヴォが僕を殺そうとしていたなんて、僕はきっと、一生信じることができません」
ルナもそうだと思った。だって、ダニエルの病気が治ったときの、イーヴォの喜びは、――本当の笑顔だったと思う。
あれがウソだとは、ルナは到底思えなかった。
「僕のママが、イーヴォに殺されたというのに、僕は、イーヴォを憎めないんです」
静かに、ダニエルはルナに告げた。
「ずっとずっと、焦がれていたママでした。もういないとわかったときはショックでしたが――イーヴォがいなくなることのほうが、僕はつらい」
イーヴォは、心を引き裂かれていたのかもしれないとダニエルは言った。
ダニエルの母を手にかけ、ダニエルをも殺害しようと、毒薬を盛り続けていたイーヴォ。
ムスタファをだまし、ダニエルをだまし、自分すらも、おそらく欺いていた。
ルナは、ダニエルにこそ言わなかったが、イーヴォが心神喪失のため、もはやまともに調書もとれない状態にあることを、クラウドから聞かされていた。
高齢もあり、すでに言葉も不明瞭で――病院に搬送されている。
ルナが見たイーヴォのZOOカードは、ダニエルが言ったとおり、引き裂かれていた。
先日、やっと出てきたジャータカの黒ウサギは、痛ましい目で、カードを見つめた。
『……心が引き裂かれると、こうなるの』
彼女が出てこなかった理由は、なんとか、イーヴォのZOOカードに、毒を盛るのをやめさせようとがんばっていたからだった。
しかしダメだった。
イーヴォのZOOカード、「忠実な黒ヤギ」は、もう、あともどりはできないと、涙ながらに告げた――イーヴォが逮捕されたその日、カードは引き裂かれたのだった。
ダニエルはもはや、イーヴォに会うことは、ないだろう。
父よりも、母よりも、だれよりも近くにいて、ダニエルを慈しんだ執事は、もういない。
たしかに彼は、ダニエルを愛し、慈しんだのだ。
そうでなければ、ダニエルが、これほどまでに気高く、強く、ルナたちも驚くほど、ひとの心を慮る子供に、育つはずはなかった。
「イーヴォは、僕の、たいせつな育ての親です」
ダニエルは、涙した。だが、そこには、信じられたものに裏切られて絶望した顔は、なかった。ダニエルの強靭さは、病と闘い続けてきた日々が証明していた。彼は、これからも、何度となく裏切られ、悲しみに直面するだろうが、そのたびにきっと、強靭さを増していく。
「そう、信じます」
ルナは、ダニエルを抱きしめた。
「僕の偉大な父は、ムスタファです」
ダニエルは、言った。
「でも、アズラエルとルナさんを、宇宙船の父と母だと、思ってもいいですか……?」
アズラエルとルナは、否定しなかった。
ルナは「もちろん!」と言い、アズラエルも、「ああ」と笑った。
ダニエルは、ふたりに向かって飛びつき、今度こそ、声をあげて泣いた。
ムスタファは、ふたりに抱きしめられるダニエルを、あたたかい目で見つめた。
『L系惑星群L80いきのL355便、搭乗ゲートが開きました』
何回聞いたかしれない、アナウンスが鳴る。
「俺たち、ずっと、ともだちだ」
「いつかきっと、また会えるよね」
ダニエルは、ピエトとネイシャと、固く握手を交わした。
「うん――ピエトとネイシャは、一生のともだちだ」
「君たちと出会えてほんとうによかった」
ムスタファも、見送りに来た皆と握手を交わした。
「この宇宙船は、奇跡を起こす場所だ――ほんとうに、そうだった」
ダニエルは、屋敷の皆に見送られながら、担当役員やムスタファとともに、回廊を歩いた。
何度も、何度も振り返りながら――。
(元気で、ダニー)
不思議とルナは、涙が出なかった。
別れの悲しみより、うれしさが上回るのは、ダニエルがこれから進んでいく未来に、希望しかないから。
ルナはいつまでも手を振った。ミシェルやピエト、ネイシャたちと一緒に。
(また、会う日まで)




