310話 かごの中の子グマ Ⅴ 2
びくり!
ルナは痙攣して飛び起きた。
ダニエルが、意識を失ったように寝ている。ルナは、ネイシャとピエトを起こした。
「ルナ……?」
「どうしたの、ルナ姉ちゃん……」
「ふたりとも、あたしのいうことを聞いて。いますぐここから、ダニエルを逃がします」
ルナのいつにない緊迫した声に、ピエトもネイシャも、一気に目が覚めたようだった。
「ぜんぶ、あとから説明します。ダニーを逃がすの。ダニーはね、毒を盛られていたの。ここにいたら、死んじゃう――」
「ど、どく!?」
ピエトとネイシャは顔を見合わせ、うなずいた。
「あ、あたしたち、どうすればいい!?」
「ダニエル、ダニー、起きて!」
ルナが必死でダニエルを揺さぶった。ここには置いておけない。今度こそ、殺されてしまう。ルナはシーツごと、ダニエルを抱きかかえた。自分にそんな力があるなんて、ルナは想像もできなかった。
イーヴォも主治医も、ここにはいないのが救いだった。
「ママ……?」
ダニエルを抱え、ルナはムスタファの屋敷内の、シャイン・システムに飛び込んだ。
それを、朝の健診にきた主治医が見て仰天した。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい! どこへ連れて行くんです!?」
ルナは慌てて、行き先を考えた。屋敷はダメだ。真砂名神社近辺も、すぐばれる。椿の宿はダメ――。
まるでひらめきのように、気づいた。
(ピーターさん、つかわせてもらうね)
「大変だ! 坊ちゃまが浚われた!!」
主治医の悲鳴――イーヴォが駆けつけて、シャイン・システムに手を伸ばしたところで、扉が閉まった。
「ルナが、ダニーをさらって逃げたって!?」
アズラエルが電話口で絶叫した。
「まさに、ルナの夢の通りではないかね」
エーリヒは感心して言ったが、「そんなこと言ってる場合じゃねえ!」とアズラエルは吠えた。
『いったい、ルナさんはなにを考えている!? 絶対安静なんだぞ!?』
ムスタファは、ひどく怒っていた。
『われわれに何の断りもなくダニーを……! 場合によっては警察を動かす!』
「ま、まってくれ、親父さん」
アズラエルは必死でムスタファをなだめたが、電話は切れた。
「なにやってんだ、ルゥは。どこへ消えた?」
「われわれの知らぬ場所だ。中央区の高層マンションの一室だよ」
エーリヒが探査機を掲げて見せた。
「なんだと?」
「ルナは、この探査機があるのは知っている。われわれからは逃げるつもりはないのだ」
「どういうことだ……」
アズラエルの声に、ずっとタブレットを見つめていたクラウドが、ついに言った。
「エーリヒ、やはり君の読み通りだ。ダロズ・システムズは現在、システムインテグレーター業界のトップに名を連ねる会社だが、前身はダロズ製薬――製薬会社だ」
「は?」
マヌケ声の主は、グレンだ。
「製薬会社だよ――しかも、小児用の保険の取り扱いや、病院や医師の斡旋もしている――ダロズ製薬は、その名義で会社はべつに残ってる。つまり、ダロズ・システムズは、ダロズ製薬と、もとは同じ会社だ」
「なんだ? なんの話をしてる」
フローレンスの両親の会社で、パーヴェルが買収したダロズ・システムズ。それがいったい、どう関わってくるのか、アズラエルにもグレンにも――すくなくとも、クラウドとエーリヒ以外にはさっぱりわからなかった。
「つまりだな、結論から言うと、ダニエルがいままで飲んでいた薬は、有害物質だったんじゃないかってことだよ」
クラウドの爆弾発言に、屋敷中が凍り付いた。
「有害物質?」
「つまり――ぶっちゃけいうと――毒だ」
「毒だってえ!?」
バーガスが、フライパンを足に落として悲鳴をあげた。
「最初に、そう思ったのは、セルゲイだ」
エーリヒも解説した。
「彼は、医者の直感だと言った。だから、はっきりしたことがわかるまで、なにも言わなかったのだ。だが彼は、外科医時代、子どもと触れ合う機会が多かった――ダニエルの病について、怪しむところがあったのだと思う」
「ちょっと待て」
アズラエルが、顔をぬぐった。
「なぜダニエルを……? だれがだ。親父さんがか? まさか……」
「犯人は、コイツだ」
クラウドが、タブレットを見せた。全員の目が見開かれた。
「ルナを助けに行かねば」
エーリヒが立った。
「ムスタファは、息子可愛さに軍でも動かしかねない勢いだ。ルナは、セルゲイとは別の方法で、このままではダニエルが殺されると悟って、逃げたのだろう。――真実を、ムスタファ氏に告げねばなるまい」
「信じるかよ!? 親父さんが?」
バーガスが叫んだが、エーリヒは冷静に言った。
「セルゲイが間に合えば、問題はない」
ルナは、シャインで、ひといきにピーターのマンションまで飛んだ。ベッドにダニエルを寝かせ、中央区の病院から医師を呼んだ。ルナにしては、信じられないスピードだった。
「急患なんです! 急いでください」
医者は、五分と経たずに来た。
ダニエルの状態を見るなり、「救急車を!」と彼は叫んだが、それを阻む人間たちが、なだれをうって、シャイン・システムから飛び込んできた。
ムスタファが、「ダニエル!」と叫んで寄ってきたが、ルナはダニエルを庇うように、ムスタファとダニエルの間に入った。
「ダメです!」
「いったい、君は何をする気なんだ!」
ムスタファは恐ろしい顔で吠えた。
「私の息子は危篤だ! いますぐそこをどけ!!」
「嫌です! ダメですっ!!」
ルナは突き飛ばされたが、すぐダニエルにすがった。
「だって、ダニエルに毒を持ってるんでしょう!?」
ルナはついに叫んだ。
「!?」
ムスタファは、びっくりして、ダニエルにしがみつくルナから手を離した。
「な、なにを言っているんだ!? 君は!!」
「ダニーに飲ませていたのは毒でしょう!? 知ってるんだから!!」
ルナは涙目で叫んだ。中央区の主治医も、ムスタファが連れて来た主治医も、イーヴォも、警察官たちも――ムスタファを見ている。
「いったい、どういうことです?」
中央区の医者が言った。
ムスタファは、焦って叫んだ。
「なにを言っているんだ!」
ルナを押しのけようとするムスタファ――。
「さあ、私の息子を返せ!!」
ルナは、襲いかかるムスタファの大きな手から、ダニエルを庇って目を閉じた。
そのときだった。
シャイン・システムの扉が、ふたたび開いた。
さらに押し込むようにして、警察手帳をかざした役員たちが、駆け込んできた。
「イーヴォ・Z・“スカルトン”、ダニエル氏殺害未遂容疑で、逮捕する!」
手錠が掛けられたのは、老人の手だった。
「イーヴォ……?」
ムスタファは、信じられない顔で、執事を見つめた。
「い、いったいなにが起こっている? イーヴォ、おまえ……」
「だんなさま」
老人は、まったく抵抗しなかった。警察に連行されていく間際、イーヴォは、何の表情もない顔で、ムスタファを見つめた。
「ダニエルさまは、お見限りくださいませ」
「――!?」
ダニエルは直ちに病院に搬送され、熱さましではなく、有害物質除去の手術を受けることになった。
イーヴォ老人は、警察署で、あっけなく自白した。
その自白の内容と、混乱を極めたムスタファが、かけつけたクラウドから受けた説明の内容は、だいたい合っていた。
ダニエルは、三歳のころから、イーヴォとその主治医によって、毒を盛られつづけていたのだ。
病を治すための薬は、じつは毒だった――。
イーヴォが、ダニエルに、致死量には至らぬ毒を盛り続け、いずれ衰弱死させるつもりであったことを知ったムスタファは、頭を抱えた。
「イーヴォは、私の幼いころからの世話役だったのだぞ……!」
ムスタファは、イーヴォに全幅の信頼を置いていた。
そしてイーヴォも、ムスタファのためだったと告白した。
「もともと、ムスタファさまは、子どもをつくりにくいお体でありました」
まったく無理だというわけではないが、ほぼ九十パーセント、子をなすことはできないだろう――それは、ムスタファが若いころに分かった。先天的なものだった。
「ですから、ムスタファさまはお若いころ、ずいぶん奔放でありましたし、わたしたちも目こぼししておりました。お子をなすことができないお身体、間違いはないだろうと」
けれども、その残り十パーセントの確率が、実ってしまった。ムスタファが手を付けた女が、ムスタファの子を身ごもったのだ。
「ダニエルさまの母は、ろくでもない女です。とてもではないが、ムスタファさまの妻として迎えられるような方ではありません」
ムスタファも、それは認めた。ダニエルの母親は、金目当てにムスタファと寝た。そこには愛もない、ビジネスすらない、身体だけの関係だった。彼女はムスタファとの結婚を、一度は望んだ。それは、離婚の際、多額の慰謝料をせしめるためである。
ムスタファは、自分の血がつながった子ども欲しさに、彼女の希望をかなえた。
彼女は金目当てにムスタファと結婚し、ダニエルを生み、離婚した。
「私は、ダニーを、金で買ったようなものだ……」
ムスタファは、ぽつりと言った。
ムスタファが嘆いた罪とは、そのことだったのだろうか。
「女は、慰謝料をたっぷりもらったあと、たった三年で、金を使い果たし、ムスタファさまに金をせびりに来ました……!」
憎々し気にイーヴォは言った。
「ダニーが毒を盛られ始めたのは三歳――三年後――」
ムスタファは、思い出したように、つぶやいた。
「そうだ。ミメルが、ふたたび、私のもとに現れたあとだ」
ダニエルの母ミメルに、また法外な金額を渡したあと、彼女の消息は途絶えた。
「――まさか」
ムスタファは、とんでもない想像に行きついて、うろたえた。
ムスタファの想像は当たっていた。
「ミメルという女は、わたしが殺しました」
老人は、ふたたび驚愕の告白をした。
「わたしは、ムスタファさまに、すぐ別の妻を迎えていただきたかった……!」
悲壮に言った。
「ですが、ムスタファさまは、あの忌々しい女の息子を、跡取りとまで……」
ダニエルさまが成人し、ムスタファさまの後を継いだならば、あの金の亡者が、今度はダニエルさまを揺するにちがいない。
老人の手は、わなわなと震えていた。
ほとんど、正気をなくした顔つきだった。
「ダニエルさまにも、消えていただかねばなりません! ……ムスタファさまに、きちんとした奥方を迎えていただくためには」
ですから、わたしは、ダニエルさまをお見限りしたのです……!
老人は、泣いて伏せた。
すべては、イーヴォ老人の策略であった。
彼の親戚であるスカルトン家のダロズ製薬を通じ、主治医はそこから選んだ。
セカンド・オピニオンもサード・オピニオンも、四番目も五番目も、すべて同じところからの紹介。
医者も、みんなグルだったわけである。
イーヴォを信頼していたムスタファは、疑うこともしなかった。
調査が進み、もっと驚愕の事実があきらかになった。
フローレンスの父エーディトが、ミメルの死体処理に関わっていたことが、イーヴォの供述により発覚した――彼は、ミメルの殺害に関しても、ダニエルの件にしても、イーヴォ老人に協力していたという、事実だ。
ダニエルが死んだ場合の保険金の一部が彼に入るように、証書が用意されていたことを知ったムスタファは激怒した。
エーディトは、「わたしは、ダニエルを殺すつもりはなかった」と主張したが、証書はすべての罪をあきらかにした。
イーヴォ老人に加え、ムスタファ邸からは医者が一斉に消え、料理人まで事情聴取のために連行された。
セルゲイがくすねた薬からは、けっこうな量の有害物質が検出されたのだ。
その後の調査によって、ダニエルがあの夜熱を出した原因は、薬だけではなく、食事にも含まれていた毒であったことが発覚した。
イーヴォ老人は、ひさしぶりであったために、毒の量を間違えたのだ。
「なんてことだ……」
鳥かごに入れられ、触れるのはほとんど黒ヤギばかりだった子グマ。発覚するわけもなかった。ぜんぶ、黒ヤギの手の内だったのだ。
医者の施術は間に合い、ダニエルの命は、助かった。
ほんとうに、危ないところだった。
ムスタファは、多忙のために、イーヴォに任せきりにしていた自分を責め、涙ながらにダニエルに謝った。
一週間で、ダニエルは全快した。
もう彼に、毒を盛る者はいない。
――ルナは、やっと、夢を見なくなった。




