310話 かごの中の子グマ Ⅴ 1
事態が急変したのは、翌日の夕方だった。
いままでにないくらい狼狽したムスタファの電話を受け取ったのは、ルナだ。
「――大変だ! 助けてくれ――ダニエルが!!」
ルナたちがムスタファの屋敷に駆け付けると、息も絶え絶えのダニエルが、ベッドに横たわっていた。
顔は赤黒く、主治医も狼狽を隠せない顔だった。
「熱が、下がりません」
「なんてことだ――ダニー! 私のせいか!? 私が、君たちの屋敷から連れ出したから……!」
「落ち着いてください、親父さん」
アズラエルがなだめた。
「君たちの屋敷にいたときは元気だった――帰ってきたときも、そりゃあ別れの後だったから、さみしげだったが――だいじょうぶだったんだ。元気だったんだ! だのに、急になぜ――」
「親父さん」
「だんなさま……」
イーヴォとアズラエルに支えられ、隣室に席を移したムスタファは、両手で顔を覆った。――絶望に。
「ダニーは私の、大切な跡取り息子だ……!」
ムスタファは涙した。
「これは、私に課せられた罰なのか? 教えてくれ――」
「ダニー、しっかりしろ」
ピエトは、ダニエルの手に、お守りをにぎらせた。ピエトがルナからもらった、真月神社のお守りだ。
「おまえにやるよ――だから、がんばって」
ピエトのほうが、死にそうな顔をしていた。弟のピピの姿と重なるのだろう。
「死なないで……ダニー!」
ネイシャも、涙をこらえながら、ダニエルを元気づけるように、その熱い手を握った。
いますぐにでも、ダニエルをルナたちの屋敷へ移動させたがるムスタファを、イーヴォと主治医は、苦心してなだめた。
今は熱が高すぎて、動かすことですら危ういと。
とにかく、ダニエルの寝室は大パニックだったので、だれも気付かなかった。
セルゲイが、ダニエルの枕元にある薬を、ほんのちょっぴり、持参の小瓶に移し替えたことを――。
「ムスタファさんに、階段を上がってもらうってのはどう」
帰りのリムジンの中で、ミシェルが提案した。
「どうしてそうなった」
アズラエルが呆れ声で言い、ミシェルは、「だって、ムスタファさん、私の罪か? っていってたじゃない」と言った。
「おまえも混乱してるのは分かってる」
俺も混乱しそうだ、とアズラエルは言った。
ダニエルは、本当に健康体だったのだ。つい先日まで。
病気は治ったと、中央区の医者も、主治医も、口をそろえてそう言った。だのに、ムスタファの屋敷に帰った途端に高熱がぶりかえし――。
「宇宙船を降りたくない気持ちがそうさせたとか」
ミシェルはさらに言ったが、アズラエルは否定した。
「そうかもしれねえが、それにしたって極端だろ」
「そうだね。……今まで、どんなに熱は上がっても、」
クラウドは言いかけ、なにかを考えるようにやめた。
ダニエルは、血まで吐いたのだ。ムスタファが狼狽したのは、そのせいだ。今までだって、熱は高かったが、血まで吐いたことはなかった。顔色も、尋常ではなかった。青白いを越えて、熱のために赤黒く染まっていた。
「やっぱり、セルゲイせんせが最初に言ってたとおり、べつの病気がかくれていたのかなあ……」
ミシェルは、嘆息した。
「でも、病院の先生は治ったって――う~ん――病気の正体が分からないから、難病なんだろうけど――」
アズラエルは、帰るはずの人間がひとり足りないことに気づいて、クラウドに尋ねた。
「なあおい? セルゲイはどこ行った?」
「調べたいことがあるからって、病院に直行したよ。シャインで」
ルナは、ムスタファに懇願されて、ダニエルの部屋に残っていた。ピエトとネイシャもだ。ダニエルのそばで、心配疲れで眠ってしまった二人の子どもの髪を撫でながら、ルナの心中は、焦りでいっぱいだった。
(いったい、なんなの……なにが起こったの?)
ルナも泣きそうだった。信じられないくらい、ダニエルの手が熱い。
「水……みず……ママ、あつい、あついよ……」
「だいじょうぶだよ、ママはここにいるよ」
ルナは涙を拭きながら、ダニエルの手をにぎった。水を飲ませても、飲ませたそばから吐いてしまう。どうしようもなかった。
ルナは、水を含んだ真綿で、ダニエルの唇を湿らせてやりながら、必死で願った。
(うさこ――うさこ、ダニーを助けて!)
ボーン、ボーン、と時計の音が鳴り響いた。ルナがはっとして周囲を見ると、壁に、アンティークのハト時計が飾られていた。時刻が午後九時を指している。響くほどではない――遠慮がちな低い音が、九回鳴った。
「――あ」
ルナは唐突に、ひらめいたのだった。
あわてて、屋敷に電話をした。出たのはバーガスだった。
「バーガスさん!」
『お、おお、ルナちゃんか。ダニーの具合は……』
「お願いします! リビングの古時計を、持ってきてください!」
ムスタファの屋敷には、ミシェルが時計を持ってやってきた。イーヴォがそれを受け取り、不思議そうな顔で、ダニエルの部屋にいるルナに、それを手渡した。
「いったい、この時計は、どうされますので?」
「す、すみません。あの、だいじょうぶです……」
ルナはよくわからない返答をした。頭の中は、夢のことでいっぱいだった。
(ノワ、セプテンおじいちゃん)
ルナは膝の上に時計を抱えて、願った。
(あの夢を、スローモーションにして)
ルナは、眠った。ダニエルのそばで、時計を抱えて――。
K19区の遊園地に、ルナはたたずんでいた。
入り口からすぐの大広場は、めずらしく、たくさんの動物でごったがえしていた。
(スローモーションになってる……)
椿の宿の古時計は、時間を操る時計。
ルナが願ったとおり、ルナ以外の時間は、おそろしくゆっくり流れていた。動物たちの動きがひどく遅い。
ルナは人ごみを走り、野外劇場まで来た。すべての動きが停止したように遅いが、動いてはいる。ものすごく、ゆっくりな、速度で。
(いた)
大きなクマのぬいぐるみが、王座ともいえるべき椅子に座って、悠然とワインを傾けている。周りには、着飾ったキツネや、サル、フラミンゴ、孔雀――、とても華やかな動物の着ぐるみたちが、王様クマを囲み、優雅に談笑している。
その王様クマの隣に、鳥かご。
中には、小さな子グマがいた――ダニエルがいる。
ルナは一生懸命、怪しいところがないか観察した。
黄ヘビはやはりどこを探してもいなかったし、鳥かごの周りのお菓子やおもちゃをひとつずつ手に取って観察したが、なにもおかしいところはない。
王様のワインを覗き込み、周りにいるひとりひとりを、顔を近づけて、じっくり観察した。
どこも、おかしなところも、ピンとくるところもない。
「お――薬――を」
スロー再生のせいで、間延びした声とともに、真っ黒な老ヤギが、うやうやしく子グマにスプーンで薬を飲ませる。子グマはわずかに口を開けてそれを飲み、またかなしげに眼を閉じた。
それらが、おそろしくゆっくりの速度で行われ――。
「ああっ!!」
ルナは思わず声を上げた。
ついに、見つけた。
一瞬だけ見えた、薬の小瓶――ルナはヤギから小瓶を取り上げた。
ルナは見た。
瓶に貼られている、まっくろな「ドクロ」のシールを。
そして、ドクロ―マークの下に、はっきりと、「毒」と書かれているのを――。
こんなところにいてはだめだ。
このままでは、子グマの病気は治らない。
ルナは、冷静に、そう思った。
そう思った意味が分かった。
ダニエルは、毒を盛られていたのだ。
ずっと、ずっと、長いあいだ――。
病気ではない。
致死量には至らない毒を、毎日薬に混ぜて、すこしずつ、盛られていたのだ。
ルナたちの屋敷にいて健康体に戻ったのは、毒を盛られなかったからだ。
おかしいと思っていた。ずっと納得いかなかった。
医者もさじを投げた難病が、食生活を変えただけで治るなんて、ルナは思わなかった。
セルゲイは、ダニエルの飲んでいた薬は風邪薬だと言ったけれども、あの屋敷に医者がいるのは分かっているから、毒入りではなく普通の風邪薬を持たせたのだろう。
セルゲイはもしかしたら、ダニエルが毒を盛られているかもしれない可能性を、見破っていた。
だから、怪しんだ。
持たされた野菜ジュースも捨てた。毒が入っているかもしれなかったから。
ダニエルをわざわざ、べつの病院に連れて行ったりした。
でも、ルナたちの屋敷にいた時分は、ふつうの風邪薬を飲んでいたから、調べても分からなかったのだ。
中央区のお医者さんも、ダニエルを健康体だと言った。
あたりまえだ――毒さえ盛られなければ、ダニエルは健康だったのだ。
(いったいどうして!?)
ムスタファも、イーヴォも、真剣にダニエルを愛していた。ダニエルが健康になったときの、ふたりの涙が偽物だとは思いたくない。
けれども。
ルナはこの後の展開を思い出した。
ルナは、ダニエルを連れて逃げ――ムスタファが追ってくる。
やはり、ムスタファは、ダニエルを殺そうとしているのだろうか。
病気に見せかけて、徐々に弱らせて――。
それがばれたから、怒っているのだろうか。
ルナは、ためらわなかった。子グマの入った鳥かごを持ち上げた。そのまま、走り出す。
急に、時間がもどった。
「な、何をするんだ! 私の息子が! 跡取り息子が!!」
「つかまえてくれ!!」
ルナは、人ごみの中を走った。
「だれかそのウサギを捕まえろ! ピンクのやつだ!!」
ルナは懸命に走った。大きな手が、追ってくる。大きなクマの大きな手が、ルナと鳥かごを捕まえた。
「さあ、わたしの息子を返せ!!」




