309話 かごの中の子グマ Ⅳ 2
ルナは翌日、ダニエルを連れて、真砂名神社に来た。
シャイン・システムから出たとたんに、目に飛び込んできた異文化に、ダニエルは目を輝かせてルナに聞いた。
「――ママ、ここは、なんです?」
言ってから、ダニエルはしまったという顔で、頬を赤らめた。昨夜も、ルナをそう呼んだばかりだ。
ダニエルは、ここ最近、ルナの顔を見ては「ママ!」と声をかけてしまい、赤面する事態がつづいていた。
ママと呼ばれたルナは、締まりのない顔で「えへ……」と笑うので、気分を害していないことはだれの目にもわかった。
「ルナをママと呼ぶのはかまわねえが、ルナをムスタファにやる気はねえぞ」
ふくれっ面のアズラエルを見て、ダニエルは笑った。笑顔も、ほんとうに明るくなってきたと思う。
絶望的な笑みしか見せなかった子どもが。
ピエトとネイシャも連れてきてあげたかったが、残念ながら、彼らは学校だ。
鳥居からまっすぐ――ひと気のない、広々とした大路を、「広いですね!」と両手を広げて駆けたダニエルは、真ん中あたりまで走って、もどってきた。そして、ルナとアズラエルの手を取って、飛び跳ねた。
「行きましょう! あっちの、川のほうへ行ってみたい!」
「あまりはしゃぐと、また熱を出すぞ」
アズラエルの苦笑にも気づかず、ダニエルが、団子の暖簾を指さして叫ぶ。
「あれは――あれは、なんですか! パパ!」
ダニエルがアズラエルをパパと呼んだのに、一瞬動揺したルナだったが――夢のシーンがよみがえって。
ルナをママと呼ぶのは目こぼしされても、パパは危ないのではないかと、ルナは思った。
(セルゲイの予言のとおりになってる……!)
セルゲイは、予言などしたつもりは毛頭なかったが、近い状況にはなっているかもしれなかった。懐かれるのは嬉しいが、ダニエルが、ルナたちと一緒に暮らすのを気に入り、ムスタファのもとへは帰りたくないと言いだしたらどうしようと、ルナは一瞬、思った。
しかし、アズラエルは、「俺はパパじゃねえよ」といつもどおり言った。あいかわらず、子どもにも容赦のない男である。
ダニエルは、すこししゅんとした顔をしたが。
「おまえのパパは、ムスタファだ。わかるだろ」
アズラエルに抱き上げられて、こくりとうなずいた。
「おまえを世界一愛してるパパだ。ムスタファ以外をパパと呼んじゃァいけねえ」
「はい……」
ダニエルは、素直にうなずいた。でも、アズラエルとルナと、手をつなぐことは、あきらめなかった。
「ナキジンさん!」
「おおーっ! ルナちゃん!!」
相変わらず派手なおじいちゃんがそこにいた。まぶしいくらい、黄色の蛍光色に、青い星柄のTシャツを着ている。
「いったい、あのデザイン、どこで売ってるんだ……」
網膜がやられそうな色彩のTシャツを、アズラエルは五秒も見つめていられなかった。
ルナはこっそり、ナキジンに耳打ちした。
「(おじーちゃん、ダニエルは、この階段のぼっても、だいじょうぶ?)」
「ほ?」
言われたナキジンは、ダニエルをまじまじと見た。
「(ダニーはね、難病なの。原因不明の不治の病を持ってるの)」
ルナは、ダニエルが不治の病を抱えているので、よほど前世の罪も大きいのではないかと思ったのだった。
ナキジンがダメだと言ったら上がれないが、上がっても大丈夫なら、いっしょにこの階段を上がろうとした――この階段は、前世の罪が浄化される階段である。
ダニエルが上がり切ったら、もしかしたら、病気も治るのではないかと思って――。
「不治の病ィ?」
ナキジンは、怪訝な顔でダニエルを見、
「どう考えても、健康そうな、いいとこの坊ちゃんじゃが?」
ルナは、拍子抜けした。
「じゃあ、階段を上がっても、問題はない?」
「問題どころか!」
「うわあ! 綺麗な石の階段ですね!」
ルナとアズラエルがあわてるのをしり目に、ダニエルは階段を駆け上がっていった。
「ああっ! ちょ、ダニー!」
「競争です! アズラエルより早く上がるぞ!!」
ナキジンは、ダニエルの姿をまぶしげに仰ぎ見ながら、言った。
「徳にあふれた子じゃよ。将来は、なにか大きなことをしでかすぞ」
「ええっ!?」
「病の影なんぞ、微塵もないがのう……」
二人の心配をよそに、足取りも軽やかに階段を駆けあがっていくダニエルの姿があった。
ルナは予想が外れて、あっけにとられてダニエルを見つめ――「ちょ、ちょっと待ってダニー!」とあわてて追った。
あっという間に頂上の拝殿についたダニエルより、ルナのほうがよほど運動不足だった。
「アズラエルが二位! 僕が一位!」
「ひぎ、ふぎ、……」
「ママ! がんばれ!!」
まさか、ダニエルに応援されるとは思ってもみなかったルナだった。
拝殿でお参りを済ませ、ルナはなんだか煮え切らない気持ちを抱えながら、川沿いを散歩した――イシュマールとミシェルは、今日は川原で絵を描いていなかった。
ミシェルとイシュマールがいたなら誘おうとしていたのだが、それもいなくて拍子抜けで、三人は、裏通りのステーキ店に向かった。ルナがセルゲイに連れて行ってもらったところだ。
ダニエルは、二百五十グラムのヒレ・ステーキをぺろりと平らげ、さすがにアズラエルをも驚かせた。前菜、パンにスープ、デザートも――残さず、ぜんぶ食べた。
「おまえもう、病気治っただろ!?」
「僕も、そう思います」
けろりとした顔で、ダニエルは言った。
あっというまに月日は過ぎた。
ルナは、まだあの夢を見続けていた。
「うさこ、ダニーはもう、良くなったよ!」
ルナはZOOカードボックスに向かってそう言ったが、うさこは、出てこない。
夢は、毎夜見続けた。
謎は、まだ解けていないのだろうか。
ルナはさすがにうんざりした。
(なにがあるっていうのうさこ? あの夢に?)
ダニエルは、勉強の遅れもすっかり取りもどした。まだ学校には行けずとも、屋敷には、勉強を教えてあげられるたくさんのおとながいたからだ。
クラウドにエーリヒ、セルゲイ……ジュリまでもが、ダニエル専門の、算数の教師になったことを知ったグレンは、「あのジュリが、ひとに教えられるまでに成長したとは……」と感動していた。
ある日、ダニエルのために学習ドリルを買って帰宅したルナは、ダニエルの姿が見えないので、
「え? あれ? ダニー?」
と、あちこち探し回った。
「心配いらないよ、ママ。セルゲイと出かけたんだよ」
レオナが笑って言った。
「セルゲイと?」
最近、ダニエルは、ルナを憚りもなく「ママ」と呼ぶようになった。だれも止めない。ピエトすらもだ。
ルナとアズラエルのベッドには、息子がふたり、潜り込んでくることが多くなった。
「セルゲイと――どこに?」
「ただいま」
セルゲイが、ダニエルと一緒に帰ってきた。なんだか、ダニエルの表情が、おかしい。
「おかえり――どうしたの、ダニー」
ルナが聞くと、「ママ」とダニエルは、思いつめた顔で言った。
「僕は、病気に見えますか?」
「え?」
今のダニエルを見て、病気だという人間はいないだろう。青白かった頬は子どもらしい健康さを取りもどし、身長もちょっぴり伸びたし、体重は格段に増えた。
ルナは、やっと、ダニエルのZOOカードが「クマ」だということを、実感してきたのである。
ダニエルは骨格が大きいので、確実にピエトやネイシャより大きくなる、とセルゲイは言った――そのとおりになりつつあった。
最近は、ピエトが、ダニエルに身長を越されやしないか、ヒヤヒヤしている。
「セルゲイ、いったいどこに行ってきたの」
「病院だよ、中央区の」
セルゲイはジャケットを脱いで、ソファに放り投げた。
「立派な主治医先生がついてるのにかい?」
レオナも言ったが、セルゲイは、「難病だというなら、セカンド・オピニオンがあってもいいだろう?」と彼にしては、柔らかくない口調で言った。
「セカンド・オピニオンも、サード・オピニオンも、ありました」
ダニエルはおずおずと、言った。
「でも、彼らにも、僕の病気の正体は分からなかった」
「で、診断結果はどうだったんだい」
レオナがきくと、ダニエルは沈んだ顔を見せた。
「……中央区の先生にも、僕の病気の正体は分からなかった」
「というより、どこも悪くないって」
セルゲイが付け加え、レオナが鼻息を吹いた。
「だったらよかったんじゃないか。病気は治ったんだろ?」
「……」
なにか言いたげなセルゲイを、ダニエルも見た。
微妙な空気になってしまったのを混ぜっ返すように、おやつがあるよ、とレオナはダニエルをキッチンに連れて行く。
ルナは、セルゲイの隣に座った。
「セルゲイ、なにか、気になることがある?」
「うん……でも、確信できるまでは、不確かなことは言えない」
セルゲイもルナと同様だった。
――なにかがおかしい。
けれども、その正体が、わからないのだった。
五月も終わろうとするころだ。
ダニエルはいよいよ、健康そのものとなって、ピエトやネイシャと泥だらけになって遊んでも平気になった。五月は一回も熱をあげなかった。
なので、屋敷の者は、みんなそろってバーベキュー・パーティーを決行することに決めた。
キラは二月に出産を終えたばかりなので、ロイドとともに、今回のパーティーには来られず、メンズ・ミシェルは来たが、リサとは連絡が取れなかった。
(リサ――どうしてるの?)
今回のパーティーの特別ゲストは、ムスタファだ。無論、イーヴォも来た。
ムスタファのおかげでもあるが、K08区の湖のほとりで、いつもよりセレブなバーベキュー・パーティーとなった。
炭火に並ぶ、分厚いリブやステーキ肉、霜降り牛肉、海鮮に、ミシェルやジュリははしゃぎっぱなしだったし、氷の器に冷やされた高級シャンパンが、次々に空けられた。
ムスタファの大盤振る舞いは、一ヶ月ぶりにダニエルを見た瞬間の喜びが、形になったものだった――あろうことか、ちょっぴり陽に焼けたダニエルを見て、ムスタファは歓喜のあまり、小躍りした――ほんとうに、踊ったのだ。
「なんてことだ! なんてことだ――奇跡だ!!」
彼の夢が叶った瞬間だった。
ムスタファは、健康になった息子と、したかったことをした。湖畔で釣りをしたり、ボートを湖に漕ぎだして、長い話をした。
息子が、欠片すら食べきれなかった肉の塊をたいらげるのを、驚き顔で見つめた。
ダニエルは、ピエトとネイシャと湖で泳ぎ回っても、倒れるどころか、けろりとしてつめたいジュースを飲んでいる。おなかをくだすから、冷たい飲み物など厳禁だったのに――。
「もう、君たちにはお礼の言いようがない」
ムスタファは、涙もお礼も、止めどなくあふれさせた。
「息子の命を救ってくれた――大恩人だ」
ムスタファは、バーベキュー・パーティーに集った皆のグラスに、酒を注いでまわった。そのたびに、礼と、喜びの言葉を口にした。
だれにとっても喜びあふれたバーベキューは瞬く間に終わった――高級食材と酒をこれでもかと堪能した者たちと――健康になった息子に歓喜した父親と――健康を手に入れ、友達と遊ぶことができたダニエルと――ずっと煮え切らなかったルナでさえ、この日だけは、素直に「よかった」と喜び、ひさしぶりに、バーベキューを楽しんだ。
このあいだは、偉大なる青い猫の訪問待ちで、ZOOカードの動きが気になって、バーベキューどころではなかったし。
バーベキューの日は、ルナたちの屋敷に帰ったダニエルだったが、次の日は早々に、イーヴォが迎えに来た。
ついに病が治ったのである。ダニエルは、ムスタファのもとに帰ることになった。ダニエルは帰ることを了承したが、目にはいっぱい涙がたまっていた。
そこには、皆との、長い別れが待っていたからである。
「宇宙船を降りることにする」
と、バーベキューの日に、ムスタファは言った。
もともと多忙なムスタファだ。息子の病を治すために、あらゆる業務より優先して地球行き宇宙船に乗った。息子の病が治った以上、長居は無用なのだった。
すぐに降りるというわけではないが、一ヶ月後には、という話を聞くと、ピエトもネイシャも、さみしそうな顔をした。
「毎日でもいい。遊びに来てくれ」
息子と、思い出をつくってやってくれ。
ムスタファは、ピエトとネイシャにそう言った。
「もう一日、ここにいたい」とねだったダニエルのわがままを、ムスタファは許可した。
バーベキュー・パーティーから二日後、盛大な送別会をして、ダニエルは、屋敷を去った。
「さみしくなるねえ」
遠ざかっていくリムジンを見送り、そうつぶやいたのはレオナだった。そう思っているのはみんなだ。
「びっくりするくらい、いい子だったよ」
セシルは言い、短い間だったが、先生としてダニエルと仲良くしていたジュリも、いつまでも泣いていた。
「ダニー、まだ、バイバイじゃねえぞ!」
「ガッコ終わったら、遊びに行くから!」
ピエトとネイシャは、ダニエルが乗ったリムジンを追いかけた。
アズラエルだけが――ルナが泣いていないことを不思議に思った。ルナも、精いっぱい手を振りながら、悲しみがこみあげないのを、不思議に思っていた。
ダニエルが去った悲しみより、落ち着かない気分のほうが上回っていた。
ルナは首をかしげた。今回は、もやもやすることばかりだ。
それが胸騒ぎだったということを――ルナは、翌日になってから、自覚することになる。




