309話 かごの中の子グマ Ⅳ 1
ダニエルは、終始はしゃいでいて、はしゃぎすぎてよろめくこともあったが、倒れなかった。
ピエトといっしょにお風呂に入り、子どもだけでゼランチンジャーのDVDを見たり、カードゲームをしたりした。
すぐに就寝時間の午後九時が来たが、ダニエルは、「まだ寝たくない」と駄々をこねた。しかし、あまりに顔が赤くなってきたので、アズラエルが抱きかかえて部屋に連れて行った。
その日、ダニエルは、ルーム・シェア初日だったので、さみしくないようにと、ピエトとネイシャがいっしょに寝たが、次の日からは、いっしょに寝ることは許されなかった。
もしピエトが風邪を引いたりでもしたら、すぐダニエルにうつるからだ。ピエトは抵抗力があるから軽い風邪で済んでも、ダニエルは重症になることがある。
ルナは、『病気の人がひとりいるというのは、カンタンなことではないのよ』という母親の言葉を実感することになった。
初日の興奮がいけなかったのかもしれない――ダニエルは、次の日、高熱を出した。
それから、ルナの怒涛の看病生活がはじまった。
とにかく、ダニエルは、一日じゅう寝っぱなしだった。長く起きていることすら、困難だった。
ルナは、ダニエルから目を離せなくなった。
放っておけば、トイレに出たときに、廊下で倒れていることもあるからである。
イーヴォから言い含められた通り、きちんと薬を三度が三度、飲ませて――それは、ピエトのときからやっていたことだったので負担はなかったが、アバド病がひどかったときのピエトより、ダニエルは手がかかった。
ルナは、うさこに頼んで、「満月」の呪文をしてもらって、イシュメルのよみがえりの魔法を食事に混ぜ込んでもらえないか、ZOOカードをめのまえにして頼んだのだが、そういうときにかぎって、うさこは出てこない。
イシュメルも無反応だ。
ルナは分かっていたので、あきらめて、ふつうに看病することにした。
最初の二週間は大変だった。
環境が変わったせいもあるだろう。ダニエルの熱は、上がったり下がったりを繰り返した。それも、極端に高熱を出す。
ルナは、ダニエルの看病以外のことを、ほとんどできなかった。
それでも、ダニエルは、「うちに帰りたい」とか、「パパやイーヴォに会いたい」とは、一度も言わなかった。
ルナは、ピエトを引き取った初期のころのように、毎日ムスタファ邸へ連絡をしていたが、イーヴォのほうが、ダニエルが心配で、いてもたってもいられないようだった。
だが、ムスタファからきつく言い含められていたらしい。ルナたちに任せるといったのだから、決して口出しはせず、ダニエルが「帰りたい」と言ったとき以外は、会うこともしてはならないと――。
レオナとセシル、それにpi=poたちが屋敷の掃除やら、こまごまとしたことをぜんぶやってくれて、ルナはほんとうに助かった。ルナは、ダニエルの看病以外のことを、ほとんどできなかったからだ。
バーガスも、ダニエルの口内が荒れて、まともな食事をとれないときは、どろどろのサプリ入りオートミールではなく、美味しいリゾットを作ってくれた。
いつもそばにいてくれるルナを、熱にうなされた頭では、勘違いするのだろう。
「ママ、ママ」とルナの手をにぎって離さないダニエルを、放っておけなかった。
「ルナの母性がマックスにさしかかってるわ~」
呑気に言うミシェルも、真砂名神社で病気平癒のお守りや、ダニエルの好きなプリンを買ってきたり、ルナと交代で、一日、そばにいてくれたときもあった。
真夜中、ダニエルの熱が急激に上がり、彼の主治医を呼びつけたことも二、三度ではない。ルナは、夜もほとんど眠れなかった。
ちこたんとヘレンには、医療用と介護用アプリも備わった。
ルナは、ミシェルがダニエルのそばにいてくれた日、久々に昼寝をした。
ひさしぶりにぐったりと、自分のベッドで眠り――また、あの夢を見た。
大グマと、子グマの夢を。
はっとして飛び起きた。
ダニエルの介護に必死で、このところ、ZOOカードのことも、夢のことも、まともに考えていなかった。
(うさこ?)
ルナはあわてて、クローゼットからZOOカードボックスを出してみたが、まったく様子は変わらなかった。
怒涛の二週間が過ぎた朝。
ダニエルの熱が、ようやく平熱に戻るきざしを見せた。まだ微熱はあったが、ダニエルは二週間ぶりに、自分の足で立って、食卓まで来た。
ルナと一緒に、キッチンに顔を出したダニエルを、バーガスは大喜びで抱え上げた。
「元気になったか、ダニー!」
バーガスに高い高いをされて、ダニエルは嬉しげにはしゃいだ。
「はい! 熱が下がりました」
「マジかよ、熱、下がったのかダニー!」
ピエトが駆けつけて、ダニエルの額に手を当てた。ダニエルが「つめたい!」と首をすくめた。
「下がってる!」
「うん!」
「ダニエル! ゼラチンジャーごっこして遊ぼうぜ!」
「うん!」
「こらこら、病み上がりだから、あまり無茶しないでね!」
ルナは、そう子どもたちの背に呼びかけてから、ダニエルの薬がなくなったことに気づいた。
「いけない、ダニーのお薬、主治医さんに頼まないと」
ちこたんを呼ぼうとしたルナを、セルゲイが止めた。
「これ」
セルゲイが、紙袋をふたつ、ルナに渡した。
両方とも薬の袋だったが、片方は、ダニエルの主治医のサインがある薄い緑色の紙袋で、中には半透明のボトルに入った、シロップ状の薬が入っていた。いつもダニエルが飲んでいる薬だ。
もう片方は、クリーム色の袋に入っていて、中央区の病院の名前が記されている。
中身は、同じボトルに入った、小児用の風邪薬だった。
「ダニーの主治医から処方箋をもらって、同じ薬を、病院で処方してもらった」
セルゲイは、なんだか難しい顔で、薬を見つめていた。
「ただの、――風邪薬、なんだよね」
「え?」
「ダニーの薬」
小児用の、ちょっと強い熱さましだと、セルゲイは言った。
「ムスタファさんも、薬の正体は知ってる。原因不明だし、とにかく、いままでいろんな薬をためして、何も効かなかったから、いまは熱を下げるのが目的で薬を飲んでるみたいなんだけど――」
彼はそれ以上何も言わなかったが、考え込むようにして、だまってしまった。
ルナは、様子のおかしいセルゲイに不審を感じたが、とにかく眠かった。ダニエルと一緒に朝食を取ってから、三十分ばかり眠ろうと思った。
ダニエルがいつも飲んでいる野菜ジュースをさがしに、クローゼットを開けたが。
「あれ?」
クローゼットにしまいこんであったはずの野菜ジュースのケースがなかった。パックが三十個は入っていたはずだ。初日にダニエルが一本飲んだだけで、なくなるというのはあり得ないのだが。
「バーガスさん、ここに置いてあったジュースは?」
「ああ、それな」
バーガスは、ルナにこっそり、耳打ちした。
「セルゲイ先生が、捨てた」
「――え!?」
バーガスも、理解できないという顔で、肩をすくめた。
さて、二週間ぶりに起きたダニエルは、玉子料理と、スープとサラダ、パンの朝食を食べ、アズラエルに連れられて、近所に散歩に出かけた。
その日、ダニエルの熱は下がりもしなかったが、上がりもしなかった。
それからだ。
――奇跡のようなことが起こり始めたのは。
ダニエルの病気は、みるみるよくなった。
よくなった、というよりか、つまり、熱が上がらなくなった。
ルナがつきっきりだった二週間を過ぎ、その後一週間も、はしゃぎすぎて夜に熱を出すことはあったが、次の日の朝には下がった。
ダニエルは、見違えるように変わっていった。
まず目の下からクマがなくなり、顔色がてきめんによくなり、体重が増えた。食欲も増進してきたし、四週間目の後半は、一度も熱が上がらなかったのである。
二週間ごとになくなる薬は、定期的にムスタファ宅から送られてきたが、セルゲイは、「熱が上がっていないんだから、飲まなくていい」と言った。
現に、薬を飲まなくても、ダニエルは熱をあげなかった。
約束の一ヶ月――正式には四週間後が、やってきた。
ダニエルの顔を見たときのムスタファの顔と言ったら――なかった。
ムスタファの涙を見ることになろうとは――彼は、屋敷中の皆の手を取り、「ありがとう、ありがとう!」と百回も言ったにちがいない。
いままで、どんな名医に見せても治らなかった息子が、血色もよくなり、すこし太った気さえする。
「パパ!」と抱き付いてきたダニエルの身体を、しっかりと抱きしめて、ムスタファは、はばかることもなく、大声で泣いた。
「――神よ!」
「さあ、坊ちゃま、帰りましょう」
イーヴォがリムジンのドアを開けたが、ムスタファは止めた。
「待ちなさい」
涙を拭き、元気になった息子の顔をしっかりと見つめて――言った。
「どうだろう――もうひとつき、預かってもらうわけにはいかないかね?」
「だ、だんなさま……!」
ムスタファの言葉に、イーヴォがうろたえた。
アズラエルは、屋敷の皆を見回したが、だれも反対する顔をしていなかった。
「俺たちはかまいませんが、――ダニー、いいのか?」
「いいんですか!?」
ダニエルだけでなく、ピエトとネイシャの顔も輝いた。
ムスタファは、涙をハンカチで拭きながら、微笑んだ。
「どうか、頼む」
「イーヴォは、さみしゅうございます……」
世話役はそうつぶやいたが、これ以上ムスタファに言える言葉もなく――ダニエルは、もうひとつき、屋敷でお預かりとなった。
「イシュメルは、なにかした?」
『いいや? わたしはなにもしていない』
ルナはZOOカードに向かって言ったが、めずらしく返事が返ってきた。イシュメルが、ルナの隣に座っていた。
「のわも? うさこも?」
『すくなくとも、われわれは、なにもしていないよ』
「――そう? でも、おかしいよ」
ルナは言った。
「なんだか、おかしい」
四週間目には、アズラエルとグレンに連れられて、K33区に行って、原住民の子どもらと遊んでくるまでになった――ネイシャとピエトにくらべたら、まだ格段に身体は弱いが――運動をしても、無理をしなければ、熱も上がらなくなった。
たしかに、カレンとピエトにしたことと、同じことをした。完璧にとは言えないが、栄養バランスの整った食事を三食提供し、薬もちゃんと飲ませた。
だが、それだけで、ずっと抱えてきた、原因不明の難病が治った?
ルナのほっぺたはぷっくり。
つまり、納得していないのだった。
ピエトの場合は、あの当時、メリッサとタケルに対する反抗心から、薬をちゃんと飲んでいなかったし、食事も適当で、滋養のあるものを取っているとは言い難かった。
二日か三日に一度、ジャガイモを数個、食べるだけ。母星で、一日なにも食べない日もあったというピエトの食生活は、ひどいものだった。それを、L7系の一般人と同じレベルの食生活にしただけだ。
ルナはレトルトだってつかうし、外食だって行く。管理栄養士とはちがって、完璧ではなかった。それでも、ピエトのいままでの食生活とは、格段に違った。
ピエトのアバド病は、最初から、医者に、「ちゃんと栄養を取って、薬を飲めば治る」と言われていたものだ。そのとおりにしただけで、変わったことはしていない。
カレンも、たしかに毎日、ルナの愛情がたっぷりこもった、栄養バランスのいい食事はとっていたと思う。けれども、バランスのいい食事だけですべての病気が治るのなら、この世界に医者はいらなくなるし、難病もない。
「なんか――ひっかかるのです」
『それは、おまえがまだ真実に到達していないからだ』
意味深な言葉を残して、イシュメルは消えた。
(真実?)
ルナはその日、また夢を見た。
遊園地で、子グマの鳥かごを持って、大グマに追いかけられる夢を。
ルナは子グマの鳥かごを持って、必死に逃げる。
大グマが、ルナを捕まえようと迫ってくる。
『さあ、わたしの息子をかえせ!』
ルナは、ふたたび飛び起きた。
「……ママ? どうしました?」
ダニエルまで起こしてしまった。ルナは今夜、ダニエルの、はにかみながらのおねだりに負けて、一緒のベッドで眠っていた。
時刻は、深夜を回ったばかりだ。
ルナは、「なんでもないよ」と言ってダニエルを寝かしつけ――そして、決意した。
もう、迷うのは、やめた。
納得はいかずとも、ダニエルが元気になったのは事実だ。
どんなに考えようが、分からなかろうが、ダニエルが屋敷にいるのは、あとひとつきだけ。
(あたしにできることを、してみよう)




