308話 かごの中の子グマ Ⅲ 3
「ところで、この家の家主は、どなただろう」
ムスタファは、コーヒーで口を湿らせてから、クラウドに尋ねた。
「家主っていう家主は――いわゆるルーム・シェアですから」
「そうか。では、君たちに話そう。じつは、頼みがあってきたのだ」
ムスタファは、リビングにいる皆を眺め渡し、それから、向かいのソファにいるクラウドとルナに向かって言った。
「ルーム・シェアの仲間に、息子を入れていただけないだろうか。二ヶ月――いや、一ヶ月でいい」
「え!?」
夢の中で、「息子を返せ!」とルナに迫った大グマが、自ら子グマを、ルナに託す宣言をしてきた。
夕方、学校から帰ってきたピエトとネイシャ、ジュリ、真砂名神社から帰ったミシェル、特訓を終えたアズラエルとグレンを待ち構えていたように、夕食の席で、家族会議となった。
「ダニエルを、しばらくここへ置いてくれって?」
アズラエルも驚いて、生姜焼きを一枚、ピエトがくすねたことに気づかなかった。
「ああ――俺も驚いた」
クラウドはそれを見ていたが、見ないふりをした。
ムスタファは、すぐに返事を求めなかった。皆で話し合って決めてくれと言い残し、今日は帰った。
「親父さんの頼みは、断りづらいな……おまえらは、どうなんだ」
アズラエルはそう言ったが、クラウドも同様だった。宇宙船に乗ったばかりのころ、ずいぶん世話になった身だ。
「あたしとセシルは、かまわないよ。ルナちゃんとも、昼間そう話した」
レオナは言った。ダニエルはいい子なので、問題はないようだ。
バーガスもアズラエルたちと同じ意見、ミシェルもジュリもオーケー。
エーリヒは、「構わん」で――セルゲイは、「ルナちゃんがいいなら」と言った。
ピエトとネイシャは、ダニエルがいっしょに住むということは、大賛成だった。ともだちが増えて、毎日が楽しくなる。
最後のグレンもあっさり承諾したが、会議は終了というわけにいかないようだった。
「俺も、べつにかまわねえよ。いまさら一人二人増えても変わらねえ――なにか問題が?」
「それがね……めずらしく、ルナちゃんが渋ってるのよ」
セシルはこっそり、隣に座っていたグレンに言った。グレンが、離れた席にいるルナを見ると、座った目をしていた。あれは、怒っているか、なにか真剣に考えごとをしている目だ。
「……たしかに、めずらしいな」
いつものルナならば、一番に賛成するはずだ。そして、それを渋るアズラエルに、「アズは冷たい!」とかなんとか言いだして、ちいさなケンカに発展する。そして、ルナの頭突きがさく裂し、おしなべて解決する、はずだ。
「ルナが渋ってる?」
――ムスタファは昼間、ルナに言った。
『君は、カレンとピエトの病気を治したと、聞いている』
ルナのうさ耳が、ぴょこん! と立った。困惑した顔だった。
『待ってください。ムスタファ――たしかにカレンとピエトの病気は治ったが、ルナちゃんが治した、というわけではないんです』
ルナが言いたかったことを、クラウドが代弁してくれた。
『ルナちゃんが魔法じみた力で治したんじゃない。――結果としては治ったが、ふたりの病を治したのは、医師の的確な治療と、薬です』
『そ、そうです。あたしじゃありません……』
ルナはやっとの思いで言った。
二人の病は確かに治った――だが、クラウドの言うとおり、それは結果であって、ルナは、病気を治そうと思って、ふたりと暮らしたわけではない。
ルナのつくった食事が薬となって、彼らを治したわけではないのだ。
ルナの言葉に、ムスタファも、苦悶を眉の間ににじませた。
『それはわかっている――だが、クラウド、私も最早、藁にもすがる気持ちなのだよ』
彼は、ダニエルを見つめて、言った。
『地球行き宇宙船に乗って早三年――いまだに、奇跡は起こらない。ダニエルの病気の正体も分からなければ、治ることもない。――病気を治してくれとは言わない。だが、カレンとピエトにしたことを、どうかこの子にも』
すがるような目で見つめられ、ルナは困惑した。
『どうか、頼む。息子を、助けてくれないか』
ルナの目は座ったまま、ほっぺたはぷっくら――怒っているのではなく、リスのように膨らんだほっぺたの中身はごはんだったが、皿の上の生姜焼きとキャベツ、ポテトサラダを半分以上残して、ルナはごちそうさまをした。
ルナはしばらく部屋にこもっていたが、一時間もしないうちに、みんながいるリビングに降りて来た。
ピエトとネイシャが駆け寄ってくる。
「なあルナ――やっぱりダメ? ダニーがいっしょに暮らすのは、ダメか?」
「あたしたち、ダニーが熱をあげたら、看病するよ。騒がしくしないように、気を付けるから」
ルナは困り顔をした。
「ルゥ、どっちにしろ、明日には返事をしなきゃならねえ。おまえの決心がつかねえならもうちょっと待ってもらうことはできるが、ダメならダメで、」
アズラエルも言ったが、ルナは眉をへの字にしたまま、つぶやいた。
「あたし以外のみんなは、いいんだよね?」
だれも、それを否定しなかった。ルナ以外の全員は、ダニエルを受け入れる意思を見せている。
「――ルナちゃんは、なにが不安?」
セルゲイが聞いた。
夢のことか。ダニエルをこの家に住まわせて、ムスタファの怒りを買うことにはならないだろうか、という不安か。
「ルナちゃんの不安ももっともさ」
レオナが、ルナをおもんばかるように言った。
「病気の子だって言うんだもの。しかも金持ちでさ――なにかがあったら、あたしたちのせいにされるかもしれない」
「ムスタファは、そんなこたァしねえよ」
バーガスが妻をなだめた。
「そもそも、ダニエル君って子は寝たきりだったっていうんだから、すぐホーム・シックになっちゃうんじゃないかねえ」
セシルは、みんなが了承しても、ダニエルがすぐ帰りたがるのではないかと思っていた。
なにしろ、入院以外で外泊などしたことがない子どもである。
「あたしが治したんじゃないもの……」
ルナのつぶやきは、明確に、ルナの心配ごとを表した。
「ムスタファは、病気が治ることを期待しちゃいねえ――いや、期待はしてるかもしれないが、ダメだったらしかたないと、言ってるんだろ」
アズラエルも言ったが、ルナは腕を組んで、また目を座らせた。その恰好は、いつぞやの、イシュメルを彷彿とさせた。
「――なにか――なにか、気になるの」
「いったい、なにが気になるっていうの?」
ミシェルも聞いたが、ルナは首をかしげるばかりだった。
「この家に来るのは、ダニエル君だけ?」
ルナは、思いついたように聞いた。
「ああ。世話役のイーヴォは反対したようだが、ダニエルひとりだけ寄越すって――それがどうかしたのか?」
「……気になるのです……」
ルナはそれしか言わない。
けれども、ほっぺたをぱんぱんに膨らませたルナは、やがて、「ダニー君のお部屋はどこにする?」と聞いた。
その台詞は、ルナも了承したということだ。
ピエトとネイシャは、「やった!」と両手を叩きあった。
「ルナちゃん、心配しなくても、きっとすぐダニエル君の方が帰りたがるよ」
セシルは、ルナの不安を取り除くように、頭を撫でてくれた。
「ルナちゃんの了承も得たことだ――二階の空き部屋を、整理しておくか」
「そうだね。あたらしい毛布と枕を用意して」
バーガスとレオナは、さっそく腰を上げたが、ルナの困惑顔は、消えてはいなかった。
それを、セルゲイが、黙って見つめていた。
「よ、よろしくお願いします」
次の日、ダニエルは屋敷にやってきた。ずいぶんな大荷物だった。ダニエルほどもあるトランクが三つに、スーツケースが五つ。
バーガスとアズラエルが二階の部屋に荷物を運び、ピエトとネイシャが、さっそくダニエルの手を取った。
「ダニーの部屋、ちゃんと用意したんだぜ!」
「ほんと!?」
「どうか、どうか、坊ちゃまをよろしくお願いいたします」
心配そうな顔のイーヴォは、何度も、何度も、家中の皆に頭を下げ、ダニエルを頼んだ。ムスタファも、息子の手を心配そうにとり、「みなさん、どうか、息子をよろしくお願いする」と言って、最後までダニエルの顔色を見つめながら、屋敷を出た。
ルーム・シェアのメンバーが一人増えて、新しい生活が始まった。
その日、ダニエルは、夜になるまで一度もベッドに入らなかった――この事実は、ムスタファとイーヴォも驚愕する事態だった。そして、また歓喜したに違いない。
なにしろ、一時間も起きていれば、すぐ倒れてしまう子が、午後いっぱい、一度もベッドに入らなかったというのだから。
夕食は、大人たちはたくさんの惣菜と酒、子どもたちのメインはカルボナーラだった。
ピエトとネイシャからの、リクエストがあったからだ。
バーガスが、コブサラダのエビをフォークに差したまま、茶化した。
「よう、ダニー。うちじゃ、フォアグラやキャビアは出ねえぞ。ついでにいや、外から順番につかっていくほどのナイフとフォークはない」
「僕は、オムライスのほうが好きです! このパスタも美味しい!」
ダニエルは、上品なしぐさで、カルボナーラをフォークですくい上げ、嬉しげに口に運んだ。
「ダニーのうちでは、オムライスとか、カルボナーラは出ないの」
ネイシャが聞くと、ダニエルはうなずいた。イーヴォに持たせられた野菜ジュースを口に運びつつ。
「出ません。僕は、健康のために、朝食はサプリの入ったオートミールです。管理栄養士のいうとおりに食事をとっています。毎食、野菜ジュースはかかせません。昼食は、お腹が空かないからあまりとらないし――夕食も、パパと食べるときはあるんですが、いつも野菜中心のリゾットとか、消化にいいものです。フォアグラもキャビアも食べたことはあるけど――味を覚えていません」
ピエトとネイシャは、カルボナーラを掻きこんだ体勢のまま、固まった。あわてて飲み込んで、ネイシャは言った。
「好きなもの、つくってもらえないの」
ダニエルみたいなお金持ちは、好きなものを、好きなだけ食べられると思っていたネイシャとピエトだった。ダニエルは苦笑して、首を振った。
「僕は、ずっと病気だったから。好きなものとかもわからない。アレルギーはないみたいだけど、パパがすごく気を遣っていて――あまりかわったものは食べさせてもらえなかったし――お菓子も制限されていたし――パスタも、消化にいいように、どろどろに煮込んだトマトスープにはいったのしか、食べたことがないんです」
ダニエルは、カルボナーラを、感慨深く見つめて言った。こんなおいしいものを食べたことがないという顔だった。
「僕が、オムライスを食べたと聞いて、帰ったら、夕食にオムライスが出てきたんですが、ルナさんがつくったオムライスのほうが美味しかったです」
「……!」
ルナのうさ耳がぴょこたんと跳ね――幸せそうにぺったり、垂れた。
「えへ……よかったです」
「ダニー、ここにいるあいだに、いっぱいいろんなものを食えよ」
アズラエルがダニエルの頭を撫でた。
ムスタファは、ダニエルのすべてを、全面的に、「ルナにまかせる」と言った。食事制限もないし、この屋敷では、皆と同じものを食べ、同じ生活をするようにと。
心配がちなイーヴォは、いつも飲んでいる野菜ジュースもひと箱持たせてきたが、ムスタファは、それも必要ないと最初は言った。
「ハンバーグとか、バリバリ鳥のシチューとか! からあげとか、カレーとか! えーっと、生姜焼きに、ギョウザ!!」
「バリバリ鳥ってなに? おいしそう!」
ピエトが指折り数えて言うのに、ダニエルは顔を輝かせた。
「ラークのシチューもうまいよ! あと、じゃがいものグラタンとか」
ネイシャも負けじと便乗し、ジュリは「ハンバーグ食べたい!」と叫び、ミシェルも言った。
「鮭の料理、最近食ってないよ~。鮭のムニエルとか、クリームシチューとか、そうそう、鮭のクリームパスタも最高よ?」
みんながダニエルにお勧めするメニューで、一ヶ月のメニューが埋まりそうだった。
「おいしそうなものばっかり――僕、ぜんぶ食べたいです!」




