307話 わがままな黄ヘビ Ⅱ 1
――フローレンスの13歳の頭では、理解しきれなかった。
いったい、なにが起こったのかをだ。
いいや、フローレンスだけではなかった。13歳の頭がどうこういうより、だれにも理解しがたいことが起こったのだ。
昨日、フローレンスは、突如降りだした雨と雷にぶつくさ言いながら、帰宅した。
自分にさんざん恥をかかせたあの連中を、もっと追いつめてやるつもりだったのに。
帰ってから母親に、「あのネイシャって女だけ、刑務所に入れられないかしら」と騒いだら、さすがに母親は、「文句の一つも言われたかもしれないけど、そこまでするものじゃないわ」とたしなめられたので、フローレンスは渋々あきらめた。
父親が帰ってきたら、あの屋敷の連中全員を降ろしてもらうことに決めていたからだ。
夕食のときに、父親にそれをねだったら、快く了承してくれたし、フローレンスは、じつにすっきりとした気持ちで就寝した。
自分に逆らうものなど、この世にあってはならないのだ。
そして、朝になり――事態は、急展開した。
フローレンスの両親も、一日で、絶望に叩き落とされたし、第一、フローレンス一家だけの問題にとどまらなかった。
地球行き宇宙船の艦長室、および地下の操縦室でも、大変なことが起こっていた。
とりあえずは、陸上で暮らす一般人の耳に届かなかったが、これが一週間も続けば、再び「地球行き宇宙船史上最大の危機」が更新されていたに違いない。
地球行き宇宙船の操縦室の機械が、まったく動かなくなってしまったのだ。
動かなくなったのは、宇宙船を運行する機械だけで、空調や、重力安定機、その他の機器に異常はなかったから、人命に問題はない。だが、地球行き宇宙船は、宇宙の真っただ中で、ぴたりと進むのをやめてしまったのである。
このあいだ、凍り付くかもしれない危機を乗り越えたばかりだというのに――。
「パパ!」
フローレンスは、鳴りやまない電話に出ることすらせず、呆然とソファに座り込んだ父に縋ったが、何もできなかった。
まず、第一のトラブル――彼女は――彼女の家族は、屋敷から出られなくなってしまった。
なぜなら、フローレンスの名も、両親の名も、この宇宙船のメイン・コンピュータから、こつ然と消えたからである。
シャインも乗れないし、生体認証によって作動する、屋敷のすべての自動ドアは、まったく動かなくなった。
屋敷の防衛と、生活補助をするためのpi=poも、停止した。
彼らの生体認証が、宇宙船の計器から消えたから――フローレンスという人間は、宇宙船には乗っていないことになっている。
フローレンスの家族は、窓もドアもあかず、食べ物すらないリビングで、翌日、執事たちの手によって助け出されるまで、震えながら過ごした。
「なにが起こった、なにが起こった、なにが起こった……」
父親は、一日、そればかりつぶやき続けていた。
「もう終わりだわ……」
夜になるころ、母親はそうつぶやいた。
屋敷から出られなくなっただけではない。彼らを絶望のどん底に陥れたのは、屋敷から出られなくなった――それだけではなかったのだ。
一度も空腹など、感じたこともないフローレンスである。
彼女は人生で初めて、食べたいものを食べたいときに食べられないという事態に直面していた。
「お腹が空いたわママ!」とひっきりなしに叫ぶ娘を、ついに母親は、苛立ちを込めて張り飛ばした。母親に叩かれたことなどない娘は、恐怖の目で母親を見つめ、やがて部屋の隅にうずくまって、シクシクと泣き出した。
妻子の狼狽ぶりを見た父親は、すこしは我に返ったようだった。
けれども、この言葉しか、口からは出てこない。
彼らをなだめる言葉も、安心させる言葉も、いっさい出てこないのだった。
「いったい、なにが起こった?」
朝、急にリビングのドアが開かなくなったとき、すぐに彼は、屋敷の外にいる執事と連絡を取った。そのときは、まだ冷静だった。
「ドアが開かなくなった――また、停電か?」
「分かりません。明日にはお助けできると思います。本当に申し訳ありません。やっと分かったことが――それが、旦那様ご家族の生体認証が、宇宙船のメイン・コンピュータから消えていまして……」
お助けできる?
彼は、ただのコンピュータの故障だと思っていた。
お助けできる、のあとに続いた執事の言葉に、彼は絶句した。
「わたしたちの生体認証が消えた?」
不安げに、妻子が彼を見た。
「だれのしわざだ」
「それをいま、調査中なのです」
「生体認証が消えるなんてことはあるのか」
「いいえ。船内でもはじめての事態です」
「わたしたちの分だけ?」
「ええ――そうです」
執事も、電話の向こうで首を傾げている。
「どうなってる――おかしいぞ。――そもそも、こんなことは、異常だ」
父親は、言っていて、異常な事態だということに気づいた。そうだ、これは異常だ。宇宙船から生体認証が消える――。
「警察は。警察はなにをやってる」
艦長は。艦長に連絡を取れ! 責任者はどこだ!
「ハッカーか? それともウィルス――わたしの事業に文句があるヤツのしわざか」
わめきたてる男に、執事は焦りながら早口で説明した。
「ウィルスの問題も、ハッカーでもないのです。旦那様方の生体認証は、だれかが消したわけではなく、消えていたんです。コンピュータの事故としか……」
「バカな!!」
いったい、どういう確率だ。
星のような数の生体認証がある中で、スカルトン家族の分だけが消える?
執事は電話の向こうで、そんなことはたいしたことではないという意味の咳払いをした。
すくなくとも、彼らは明日には救出される。
たしかに、それどころではない事態も起きていた。
「とにかく旦那様、それだけじゃないんです。E.S.Cの本社のほうから、理事を解任するとの連絡が……」
「え!!」
「会社の方でも問題が……ダロズ・システムズとスカルトン航空が、L55の会社に買収されたんです」
さすがに、寝耳に水だった。
「ちょ、ちょっと待て――なぜ!?」
「分かりません。買収したのは、両方とも“セプテントリオ”という会社です。上場企業ではないようですが――」
「聞いたことがないぞ、そんな会社――なにが起こっている!!」
「分からないんです、なにが起こったか――ぜんぶ、今日起こったことです。本社のほうもパニックで――」
次には、別の声が向こうから響いた。
「大変です――臨時株主総会で、社長の代表取締役の任を解くとの決議が――!」
「旦那様、旦那様!?」
エーディトは、震える手で、電話を置いた。
様々なことが重なって、夜を迎えた。窓も開かない――室内は密閉状態で、空気すら薄い気がした。おまけに、みんなそろって、朝から水も飲んでいない。
「フロー!!」
いままで聞いたことのない父親の怒り声に、部屋の隅にうずくまっていた少女は全身を揺らした。
「とんでもないことが起こってる! 分かるか!!」
父親は取り乱して、娘を揺さぶった。
「やめてあなた!」
さっき、自分が張り飛ばしたばかりである。母親が止めに入ったが、父親の形相はすさまじかった。
「おまえのわがままも、パパの会社があってこそなんだぞ! おまえのせいで、すべてが崩されようとしている!!」
屋敷から出られなくなり、生体認証が消え、E.S.Cの理事まで解任された。おまけに、たくさんある持ち会社のうち、一番株価が安定して高い上場企業二社が買収――。
入札に回した企業でなく。
「どうして、あの会社が入札リストに?」
わからない。まったくわけが、わからない。あのふたつの会社は、幸いにもなんとかスカルトン・グループの屋台骨を支えている利益高の会社だ。
本社のものが、勝手にリストに入れたのだろうか。いやまさか。
「だれが、こんなことを……」
これだけのことが、たった一日かそこらで起きたのだ。
尋常ならざる事態であった。
「フローのせいではないでしょ!?」
「こいつのせいだろう!!」
父親は目を充血させ、唾を飛ばして怒鳴った。
「ネイシャとかいう親子や、原住民の子どもを降ろさせろと、フローが言っただろう!!」
「で、でもそのことと、なにか関係が、」
「ないとでもいうのか!?」
たしかに、それらのほかに、なにも変わったことなどしていなかった。
宇宙船の艦長が、真砂名神社のイシュマールのもとに、相談に来た。宇宙船が動かなくなってしまったということを――。
このあいだも来たばかりである。
「そんなもん、わしに言われてもなあ」
イシュマールは、機械のことはよくわからない。
「ですが、ほかの計器に異常はないんです――この宇宙船はゆっくり進みますから、到着予定に間に合わないということはないんですが、もう三日になります」
調べても、調べても、異常は見つからない。艦長たちは途方に暮れて、イシュマールに相談に来たのだった。
「ルナを降ろせっていったからじゃないの」
イシュマールからすこし離れたところで、ぷんすかしながら絵を描いていたミシェルは言った。
「え?」
「は?」
艦長と、イシュマールが目を丸くした。
「ルナを降ろせって言ったから、神様が怒ってるのよきっと!!」
ミシェルが一番怒っていた。
「ど、どういうことですか? ルナさんに降船命令が?」
艦長も、青天の霹靂だった。
そもそも、船客を降ろすかどうかは、ほぼ担当役員に一任されている。もめるようなことになれば、担当役員同士の話し合いになり、調査の結果、最終決議はL55の本社がくだすので、艦長はそこまで関与しない。
艦長は、あくまで宇宙船の運行についてのみ、権限があるのだ。
「ルナに降船指令が」
イシュマールは、それは仕方ないという顔をした。
「そりゃァ、こんな事態にもなるじゃろうなァ……」
「それは、知らなかったな」
艦長も焦り顔になった。
「ルナだけじゃなくて、アズラエルもピエトも、セシルさんもネイシャもよ! バッカなわがまま娘のおかげで、とんでもないことになってるの!」
ミシェルは絵筆を洗浄液に突っ込み、怒鳴った。
ミシェルの話を聞いた艦長は、ただちに五人の降船を取り消した――そもそも、「ルナ」という人物は、絶対に降ろしてはいけない、地球行き宇宙船の未来さえ背負っている船客である。
L55から降船指令が出たことが不思議で、よく調べてみたら、ルナたちのことをまったく知らない役員が――スカルトン家族と懇意にしている役員が、勝手に決めたことだった。
セシル親子も傭兵、ピエトは原住民、ルナたちもそんなに「ご身分の高い船客ではない」ということで、彼の一存で降船を決定したのだった。
「株主であるフローレンス家族に、多大なる迷惑をかけた」という理由で。
実態はもちろん、その真逆だったが――。
無論、L55の本社ではまだ受理されていなかったが、彼は、とっくに申請が通ったものと思い込んでいた。
カザマたちの猛反発を食らった役員だったが、なぜそこまで反発されるのか、彼は最後まで分からない顔をしていた。彼にとっては、権力者のいうことは絶対で、他はどうでもいいのである。
それが周知されてしまった彼は、ただちに解雇された。L55からの正式な解雇だ。
しかも彼は、フローレンスの家族から、ずいぶんな金を受け取り、彼らが気に入らない船客を、何度も勝手に降船させていたことが発覚した。
おまけに、このことで、E.S.Cの株主であるエーディト・V・スカルトンも、理事を解任された。解雇された役員のとのあいだにあった、贈収賄の罪が理由である。
彼の理事解任は、E.S.C のL55本社に、「ルナたちの降船」が申請された時点で、決定された。
E.S.Cの本社でも、「特別船客」ルナ・D・バーントシェントの降船が申請された時点で即座に調査をはじめ、すぐに彼らの贈収賄容疑にたどりついた。
フローレンスの父親エーディトは、理事を解任された理由が分からなくて、うろたえていたが、そのとき「逮捕」されても、結末は同じだった。
彼には、これから「あきらか」になるもっとも大きな罪をはじめ――余罪はたっぷり、あったのだから。
五人の降船を取り消すと、急に宇宙船は動き出した。
艦長と副艦長たちは、なにか言いたげな――それでも、言葉にならない目つきで、互いを見合ったのだった。
真砂名神社で、イシュメルとノワが、にっこり笑っていたことは、だれも知る由もない。
ちなみに、フローレンス家族の生体認証を「見えなく」したのはノワで、宇宙船を止めていたのは、イシュメルだった。




