303話 バラ色の蝶々 Ⅳ 2
店のほうにいくと、カウンターにグレンと――久しぶりのメンズ・ミシェルの姿を見て、アズラエルも驚いた。
「久しぶりだな」
「よう、ご無沙汰」
「おまえ、ここでもバーテンダーやってんのか」
「いや。今日だけ。今日はほら――アンさんだったか? 彼女の最初のショーだから、手伝いに入ってるんだ」
オルティスはショーの準備で忙しいからな、とミシェルは言った。
「オルティスにあんな美人の母親がいたなんて、驚きだよ」
これからラガーじゃ、プロの歌手のショーが見れるってことだな、とミシェルはうれしそうに言った。
蝶ネクタイにスーツ姿でグラスを磨いているミシェルは、どちらかというと、マタドール・カフェのバーテンダーの方が似合っていた。
隣で、グラスに氷の塊とウィスキーをぶちこんでいる、Tシャツとデニム地のエプロン姿のグレンのほうが、ラガーに馴染んでいる。
「グレンのほうが、俺よりよほど由緒正しいお家柄のお坊ちゃまなのにな……」
ミシェルが残念な顔でグレンを見、アズラエルも便乗した。
「劣化の一途をたどってるぜ」
「だまれ。劣化してンのはてめえだ――自分のタトゥが増えてるのも気付かねえとはな」
「……?」
アズラエルは、自分の左腕を見た――そして、やっと気づいた。
「……!?」
ほとんど黒一色のアズラエルのタトゥに、へんないたずら書きがされている。あまりに自然に馴染んでいるので、気づかなかった。
ミシェルが、それを見て吹きだした。
「このあいだソファでうたた寝しただろ。そのときから増えてる」
グレンはバカにした口調と顔で言った。ようするに、ヤツは犯行現場を見ていたが、だまってやらせたということだ。
犯人は分かっている。
アズラエルは、こっそり逃げ出そうとしたルナの頭をわしづかんだ。
「ルゥ?」
「ばれた!」
ウサギの動きは、ウサ耳をわしづかまれたことで停止した。ルナはすばやく白状した。
「あたしです。描いたのは、あたしです」
「そんなことは分かってる」
アズラエルの左腕のタトゥの中に、マジックで描かれたウサギが紛れ込んでいる。
「水性だから、なかなか消えないよ!」
得意げにいうルナに、アズラエルのこめかみに激震が走ったが、さらなる衝撃の事実がもたらされた。
「ライオンもあるよ! さて、どこにあるでしょう!?」
「!?」
グレンが「ふごっ!!」と笑い、ミシェルも、客の注文を聞き違えるほど、おかしな吹き方をした。
「――ルゥ、話は、家に帰ってからだ」
「よし! この話はあとだ!」
ケンカを買う気満々のルナは、アズラエルにデコピンをされ、悶絶しつつ、引きずられていった。
「ルナちゃん、あいかわらずだなァ」
ミシェルが涙を拭きながら笑い転げ、グレンもリキュールの蓋を開けながら、苦笑した。
「アイツは多分、年寄りになってもあんな感じだろうな」
かつて厚いカーテンで仕切られていた一番奥の広いスペースが、すっかりリフォームされ、小さなステージができていた。酒を飲みながら、アンの歌を聞ける空間に、改築されている。
大きなグランド・ピアノが幅を取っていて、ジャズバンドも待機している。
本格的なショーが楽しめそうだった。
「へえ――これは」
ウサ耳をひっつかんでいたアズラエルは、やっと離した。ルナは、ぺっぺけぺーとみんながいる特等席に逃げた。
ステージに一番近いテーブルには、すでに来ていた屋敷のルームメンバーが座っていた。
「ママ!」
「こっちよルナ~♪」
「ルナちゃん! ルナちゃんもここ来てお飲み!」
リンファンは、すでにカクテルを半分以上あけて、出来上がっていた。エマルの横には、すでに空になったジョッキが三つ。
「アンさんの生歌聞きながら、お酒が飲めるなんて最高ね~♪」
「ドキドキしちゃうよ! はやくはじまんないかなあ……」
レオナとセシルも、さっきから、何度乾杯したかしれない。
ステージ前にたくさん置かれている花束やプレゼントの中に、大輪のバラの花束がある。
「あれは、エーリヒです」
「正解」
エーリヒではなくクラウドが言った。
「俺たち四人の連名で、花束はすでに贈呈してある」
クラウドが示した先には、一番大きなフラワーアレンジメントが飾られていた。ドアくらいの大きさがあるやつだ。
「クラウドたちは、いつからこのことを知ってたの」
ルナはふて腐れて口を尖らせた。店に来るまで聞かされていなかったのは、ルナとアズラエルだけだ。
「俺たちが知ったのも今朝だ。今夜のショーに招待されているのは常連だけさ。ルナちゃんには、オルティスが特別な話があるってことだったから……」
クラウドが詮索しようと、ルナに話の内容を聞きたがったところで、ミシェルのタイミング良い割込みがあった。
「ところでさ、ミシェルがバーテンダーやってたの、見た?」
「うん、見た見た!」
「探偵より、バーテンダーやってるほうが似合うよね」
クラウドは、あきらめた。
ルナは空いた席に座った。オルティスが注文を取りに来る。
「ルナちゃんは、なにを飲む?」
「いちごしぇいく!」
「おお、イチゴ・シェイクな」
初めてラガーに来たときに、オルティスがつくってくれたイチゴ・シェイクは、とてもおいしかったのだ。
アズラエルが遅れて席に来る。ルナは「ツキヨおばあちゃんは?」と聞いた。
アズラエルが親指で後方を指す。半分開けられたカーテンの向こうに、おばあちゃんがヴィヴィアンを抱いて立っていた。
ステージを向いて、ヴィヴィアンの手を取って振った。
「さあ、これから、おばあちゃんが歌いますよ」
ヴィヴィアンは、きゃっきゃと嬉しげにはしゃいでいる。
「あんたのおばあちゃんは、素敵な歌を歌う、とっても綺麗なおばあちゃんだ」
よぉく、見ておおき。
店内の照明がふっと落とされ――ステージにスポットライトが当たった。
アンが現れた。きらめく真っ赤なドレスの裾を引きずって――。
興奮で騒がしかった店内が一斉に静かになり、やがてためいきのような、密やかなざわめきが、空間を満たした。
アンを知る者も、知らない者も、ステージに立つ美しい彼女に、見とれた。
「アン・D・リューです」
マイクから流れるアンの声は、幸福に満ちていた。
「今日は――ありがとう」
アンは、ルナを見つめ、ツキヨと孫を見つめ――それから、一度目を伏せた。
「わたしを、この宇宙船に乗せてくれたひとたちへ――わたしの、仲間たちへ――子どもたちへ。――それから、オルティに」
オルティスは、厨房で、それを聞いていた。とてもではないが、顔が大洪水で、客の前に出られるご面相ではなかったのだ。
「“バラ色の蝶々”」
ピアノの前奏が始まったら、ヴィヴィアンの動きがぴたりと止まった。真顔で、アンの姿を見つめている。
「あら、このこったら」
ツキヨが微笑んだ。
「おばあちゃんのお歌を聞く用意ができているよ」
ピアノの独奏から、急にジャズのにぎやかな音楽が重なりゆき――アンの歌声が、ふくらんで、弾けた。
「“バラ色の蝶々 だれよりもうつくしい蝶々 だれもがあなたに手を伸ばす だれもがあなたに焦がれる”」
エマルとレオナとセシル、リンファンが、肩を組んで、口ずさんでいた。
「“鮮やかなあなたにだれもが惹かれる バラ色の蝶々”」
バラ色の蝶々――まるでアンの人生そのもの。
アンが歌い、踊る姿は、可憐な蝶が舞う様に似ていた。
(マルセルよ、ニコルよ――見ているか)
オルティスは、厨房の影から、アンの歌う姿を見た。涙であふれていってしまいそうな映像を、目に、しっかりと焼き付けるように。
(アンが歌ってるぜ。もう一度、歌ってる)
ルナはそっと目を閉じた。
アンの優しい――それでいて、力強い声が鼓膜を震わせる。
ルナのまぶたの裏に浮かぶのは、海岸で見た光景だった。
海に向かって歌声を響かせるアンと、それにうっとりと聞きほれる、マルセルの姿。
「“バラ色の蝶々 あなたとずっと暮らせるのなら、どうなってもかまわない すべてがバラ色 どんな不幸もバラ色 バラ色の人生”」
――俺の人生は、バラ色だった。
マルセルだけではない。アンを愛した皆が、そう思っているに違いなかった。
アンは、すべての想いを受け止めて、いまステージに立っている。
だからこそ、こんなにも心が震えるのかもしれなかった。
「“そう なにがあっても わたしの人生もバラ色”」
――あなたがいるから 世界はバラ色 わたしの人生はバラ色――




