303話 バラ色の蝶々 Ⅳ 1
「ばあちゃん、K34区は危ねえから、ひとりで来るなっていったろ」
K34区の街の入り口にあるカフェに、アズラエルとルナが到着したのは、待ち合わせ時間より五分は早い時刻だった。
「ひとりで来ちゃいないよ。さっきまで、テオさんがいっしょだったんだから」
テオドールは、ツキヨとアンの担当役員である。
外にいくつかのテーブルが並んでいるオープン・カフェ――K34区ではめずらしい店構えだ。ここはK34区とK35区のはざまにある店で、K34区らしくない、といえばそうかもしれない。
K34区は、宇宙船内の「スラム」といっていい区画である。極端な言い方をすれば、だが――もっとも、スラムにしてはあまりに清潔で、治安はよかったが、ルナやツキヨがひとりで出歩くのはおすすめできない区画ではあった。
「まあ、さすがに、昼間はいいといしても、夜はうろつきたくない場所だねえ」
ツキヨも、あたたかい紅茶を手にして、アズラエルの言葉に同意した。K34区は、日中のひと気は少ない。このカフェは、K35区の住民も来るのか、それなりの人数が来店していたが、カフェから向こうの通り――K34区はだれもいない。
ルナは無人の通りをながめて言った。
「エレナさんとジュリさんも、このへんに住んでいたんだよね」
「ああ――この通りを左に曲がって、すぐの住宅街だ」
これからバーへ行くのに、カフェで落ち着く必要もない。ルナとアズラエルは座らなかったし、ツキヨは紅茶を飲み干して、立った。
「じゃあ、行こうかね」
ふだんなら、K34区にほとんど用などあるはずもないツキヨとルナである。アズラエルだって、昼間に来ることなどそうそうない。
彼らが今日、ここで待ち合わせをした理由は。
「えーっ!? じゃあ、オルティスさんは、ヴィヴィアンちゃんをアンさんに見せてなかったの」
「そうなんだよ」
ツキヨはやせた肩をすくめて、大げさにうなずいた。
ラガーまでの道すがら、ツキヨは、今日の目的をルナたちに話した。
「オルティスさんの気持ちも、わからないでもないがねえ……。アンさんは、幸せにしてあげたくて子どもをたくさん引き取ったのに、軍事惑星から逃げるときも、E353で逃げたときも、一気に養い子をなくしちまったわけで……。今回は、マルセルさんまで……だろう? だから、当分子どもの姿は見たくないだろうって、オルティスさんはわざとヴィヴィアンちゃんを、アンさんの目には触れさせないようにしていたわけだよ」
ヴィヴィアンは、オルティスとヴィアンカの子――まさに、アンにとっては孫ともいうべき存在である。
「あたしゃ、それを聞いたときは、逆効果だと思ってねえ! まさか、オルティスさんにお子さんがいたなんて、あたしも寝耳に水さ!」
それならさっさと、アンさんに孫の顔を見せてやりゃよかったんだよ、とツキヨは威勢よく鼻息を噴いた。
「ヴィヴィアンのことは、アンさんは知らなかったのか?」
アズラエルが聞くと、ツキヨは首を振った。
「いいや。知っていたよ。でも、アンさんも、マルセルさんを失った悲しみでいっぱいで、ヴィヴィアンちゃんのことはすっかり忘れていてね。ずっとまえから話には聞いていたそうなんだけど」
「ヴィアンカが、黙ってるはずねえと思うけどな」
あのメスライオンが、おとなしく引っ込んでいるはずはない。
「ヴィアンカさんも、オルティスさんに、ヴィヴィアンを見せていいかって聞いたらしいけど、ダメだっていうんで、大ゲンカさ。あのひとも頑なでねえ。困ったヴィアンカさんが、あたしに相談しにきたってわけさ」
「わかった」
アズラエルは、早とちりをした。
「今日は、ヴィヴィアンとアンさんの、初対面ってわけだな?」
「バカをお言いよ! そんなものはとっくにすませたさ」
ツキヨはあきれ顔で言った。今ごろなにを言っているという顔である。とにかく行動の早いおばあちゃんなのだ。
「子はかすがいって言うけど、この場合、孫はかすがいだよ――アンさんが、孫の顔を見たくないなんて思うもんか。オルティスさんの考えすぎさ! 案の定、あのひとは、ヴィヴィアンの存在を思い出したら、目に見えて明るくなってねえ……自分からオルティスさんのとこに押しかけて、ヴィヴィアンちゃんに会いに行ったよ」
ヴィアンカとツキヨが思っていたとおり、ヴィヴィアンをその手に抱いたときから、アンの様子は、目に見えて変わってきた。アンの元気が出たことで、オルティスも、腫れ物に触るような態度が徐々になくなった。
アンは、毎日のようにラガーに顔を出し、ヴィヴィアンの面倒を見ることを引き受けた。ヴィヴィアンを背負って店に出ていたオルティスは、それをしなくてよくなったわけで――店は、もとの営業時間にもどった。
ヴィヴィアンさまさまである。
「じゃあ――今日は、なにをしにいくの」
ルナがツキヨに尋ねたところで、ラガーに着いた。
「ついてからの、お楽しみ」
ツキヨはにっこり笑って、自ら、ラガーの大きなドアを開けた。
「いらっしゃい――おお! ツキヨさん!」
店長が満面の笑顔で、でかい身体を丸めてカウンターから出てきた。
「ルナちゃんに、アズラエルも! 今日はありがとう!」
オルティスはいそいそと、凶悪な顔に満面の笑みを浮かべ、三人と握手をした。
「なんだよ、あらたまって」
「今日はいいんだ。特別な日だからな」
アズラエルは、真っ昼間だというのに、けっこうな客の数があることに驚いた。
「今日、なにかあるのか」
オルティスに聞くと、彼は目を丸くした。
「ツキヨさんから聞いてねえのか――まあいいさ。すぐわかる。それより、ちょいとこっち来てくれ」
ルナたちは、店内ではなく、厨房のほうに通された。
「ツキヨさん――ルナさん! アズラエルさん!」
そこには、真っ赤なドレスを着て――ヴィヴィアンを抱いたアンが、それこそ頬を「バラ色」に紅潮させて、立っていた。
「アンさん」
ルナは目をぱちくりさせて、言った。
「すごくキレイ!!」
「ありがとう」
八十近い年齢とは思えないほど、今日のアンは特別に美しい気がした。ルナがデレクから借りたアルバムジャケットの写真と、まるで変わっていない気がする。
「座ってくれ」
オルティスは、ルナたち三人に椅子に座るよう勧めた。椅子が足らず、アズラエルはビールケースに腰かけることになったが。
アンは、ヴィヴィアンをあやしながらそばに立っていた。ヴィヴィアンを見つめるアンの目は、慈しみにあふれている。
オルティスは、店の帳面が置いてある戸棚へ行って、通帳と銀行の認証カードを持ってきた。それを、そのままルナに渡した。
「ルナちゃん、これを受け取ってくれ」
「――え?」
びっくりして、ルナは通帳とオルティスを、交互に見つめた。オルティスがうながすので、ルナは通帳を開いた。そこには。
「四千……三百五十万デル……!?」
通帳に印字されている数字は、まぎれもなく、その金額を示していた。ルナはあわてて顔を上げた。
「オルティスさん!!」
「頼む。なにも言わねえで受け取ってくれ、ルナちゃん」
オルティスは、ルナの手に押し込むようにして、グローブみたいな手でルナの手を包んだ。
「こりゃァ、アンの分のチケット代だ。地球行き宇宙船のチケット代は、正規で買えば、八千七百万デル。ちょうど半分――どうか、受け取ってほしい」
「でも……」
「ルナちゃんが、そんなつもりでチケットをくれたんじゃねえってこたァ、オレもアンもじゅうぶんわかってる――だけど、これは、オレの二十年の結晶なんだ」
「……!」
オルティスの声が、詰まってきた。
「オレだけじゃねえ――オレと一緒にがんばってきたニコルの想いも詰まってる。こいつを手放しちまわないと、オレは、先へ進めねえ……!」
ルナの手をにぎるオルティスの手が、ルナの手を握りつぶしそうな勢いだったので、アンが苦笑して、止めた。
「オルティ、ルナちゃんの小さな手がつぶれてしまうわよ?」
「お、おう――すまねえ」
オルティスはあわてて手を離し、一度立って、鼻をかんだ。それから、泣いたのをごまかすようにドスドス、足音も荒くもどってきて、どすん、とビールケースに座った。
そして、今度は笑顔を見せた。
「残りの一千万で、店を改築したんだ」
「改築……?」
「ああ。今日は、アンのひさしぶりのコンサートだ」
「……!」
ルナのウサ耳が勢い良く立ち、アンを見、オルティスを見、ツキヨとアズラエルを見た。
「そうだったのか」
特別な日というのは、そういうことか。
アズラエルも、腕を組んでうなずいた。
「受け取ってくれ、ルナちゃん」
オルティスが、もう一度言った。
「……」
ルナは、手の中の通帳を見た。
「いただきな、ルナ」
迷い続けているルナに、ツキヨは、静かに言った。
「あんたは、このお金で、もしかしたらまた、あたしやアンさんみたいなひとを宇宙船に乗せてあげることができるかもしれないじゃないか」
「……!」
思いもかけないことだった。
そもそも、あのお金は、ルナの知らないところで動いたので、あのチケットもルナが購入したものではない。
けれども、ツキヨのためにチケットを購入しようと思っていたのは、ほんとうだった。
ただ、あまりに大きな金額だったために、本当に使っていいのか迷っていたし、ツキヨにも話しそびれていたし、さまざまなことがあったせいで、ぐずぐずしているうちに、今年の宇宙船の乗船期限が近づいてしまっていた。
その点では、ルナはペリドットに感謝していた。勝手に使われたことにはお怒りだが、おかげで、ツキヨは今、地球への帰路についている。
(マルセルさん)
あのとき、ルナにこのお金があったなら、もう一枚チケットを買って、マルセルを乗せてあげることができたかもしれない。
ルナは、目を潤ませた。そして、オルティスを見て、言った。
「おゆてぃしゅしゃん……」
ぺこりと、頭を下げた。
「ありがとう。――あたし、このお金、お預かりします」
ルナが受け取ったことで、オルティスの顔が輝いた。
「よかった――よかったよ。オレァ、やっとこれで、先に進める!」
オルティスは、もう一度鼻をかみに立ち、鼻声で言った。
「みんなの分は、特等席を取ってある! ステージの真ん前で、アンの歌を聞いていってくれ」




