301話 天秤を担ぐ大きなハト Ⅱ 3
「……俺は赤の騎士の気持ちがわかるなあ」
エルコレは、ぼんやりと言った。
「俺もたまに、ぜんぶ捨てて、オルドを連れて、たったふたりで、どこかに行きたいって思うコトがある」
クライマックスシーンに号泣中のルナは、エルコレのぼやきを聞き逃した。
(オルド?)
――エルコレは、オルド、と言った気がする。
「“青の騎士はきっと、赤の騎士を利用すればよかったのかもね”」
ルナは、自分の口から勝手に言葉が出たのでびっくりした。
「“自分一人でがんばらないで、自分を愛している赤の騎士を愛して、王国のために奮闘させればよかったのよ”」
月を眺める子ウサギの声ではなかった。
(ルーシー?)
「“分かっているわ”」
エルコレの視線に、ルーシーは肩をすくめて言った。
「“そんなカンタンに、いかないってことも”」
「それはそうかも――でも、君の言いたいことも分かるよ」
エルコレが同意してくれた。
「――青の騎士が、赤の騎士を愛してくれさえしたなら、なんだってしてあげるのに」
それはまるで、エルコレが、赤の騎士であるかのようだった。
「“でも彼女は、騎士としてのプライドと使命感が邪魔をして、赤の騎士を愛することができないのだわ――悲劇ね”」
「それはやっぱり、プライドと使命なの?」
エルコレの問いに、ルナは答えることができない。こたえたのはルーシーだった。
「“そうね。プライドと使命って、存外、厄介なものよ”」
「……」
「“でもね、いまのあなたの場合、青の騎士は気づいてないだけなの”」
「……え?」
テレビを見つめていたエルコレが、ルナのほうを見た。
「“青の騎士が、相当のカタブツなのは、あなたも知ってるでしょ?”」
ルナのウィンクに、エルコレは、両目をぱちくりさせた。
「“わたしが、あなたの可愛い青の騎士に、気づかせてあげるわ。――それから、“あなたの天秤、わたしがもらってあげる”」
「え?」
エルコレは、さらに、目を見開いた。
「天秤?」
「“そうよ。あなたが持ってる、大きな天秤。――重いでしょ”」
最後のほうは、月の女神の声になっていた。
「天秤?」
「“そう。天秤。どうせなら、金色がいいわね”」
「……君は、黄金の天秤が欲しいの?」
首を傾げ、「不思議なものを欲しがるなァ……」とエルコレは、しばらくルナの顔を見つめていたが、
「わかった。いいよ、送るよ」
エルコレは、ルナが黄金の天秤をねだったと思ったらしい。
それきり黙って、映画を観続けた。ルナもそうした。いつのまにか、すこやかな寝息が聞こえて来たと思ったら、エルコレは眠っていたのだった。
ルナはいつのまにか、エルコレに膝を貸しているスタイルになっていた。
(これは困ったです……)
トイレに行きたくなったら、どうすればいいのだろうか。
やがて、映画は終わった。長い長いエンドロール。
ルナは、この映画のもとになった話が、マ・アース・ジャ・ハーナの神話のひとつであることを知って、目を丸くしていた。
そのとき、エルコレのポケットにある携帯電話が鳴った。エルコレは起きない。ルナはわたわた落ち着きがなくなったが、やがて留守番電話サービスに接続された。
『ピーター?』
ルナのうさ耳が立った。電話から聞こえてくる声は、オルドの声だった。
『L55のオフィスに着いたのか? 着いたなら、連絡くらいしろ』
電話はそう言って、切れた。
オルドはピーターと言った。オルドが言うピーターとは、ひとりしかいないに違いなかった。
ピーター・S・アーズガルド。アーズガルド家現当主だ。
最近のルナは、軍事惑星関連にくわしくなっていたので、アーズガルド家当主の名くらいは覚えていた。クラウドやエーリヒの会話にもたびたび登場するからだ。
「……」
ルナはアホ面をさらしたが、ぴーん! とうさ耳を立たせた。
(なんでピーターさんがここにいるの!?)
エルコレという偽名を名乗ってまで。
エルコレことピーターは、ルナが身じろぎしたので、目覚めてしまった。
「……すごいな。夢を見ない」
ピーターは、目を丸くして、ルナを見つめていた。
「オルドがただものじゃないって言ってたけど、本当だ。――夢を見ない眠りにつけたのは、はじめてだ」
寝癖がついた髪をかきあげて、ピーターは起きた。
「ピーターさん……」
「ン? いつ気づいた?」
ピーターは呑気にあくびをして、背伸びをした。
「で、でんわがはいってますよ……オルドさんから」
ピーターは、ポケットに入っていた携帯電話を取り出し、留守電を聞いた。それから、手早くメールを返し、また、伸びをした。
「ほんとに、気づかないで眠ってた。君、すごいな」
ピーターは感激したように顔を輝かせ、「君はバクなの?」と言った。
「ばく?」
「夢を食べちゃう動物さ」
ピーターは、エルコレと偽名をつかったことも、――最初から、ルナを「ルナ」だと知っていて接触したということも、なににも触れずに、立った。
ピーターは、話す気がないらしい。なぜルナをここに連れて来たのか。どうしていっしょにいるのか。
ルナが帰ると言ったら、ピーターは引き留めるのだろうか。
ルナもルナで、どうして自分がこんなところにいて、ピーターと過ごしているのか、まるで理由など分からなかった。
「夕ご飯はなににしよう? フルコース以外で」
ピーターは、室内の電話の前で、眠たげにあくびをした。
「外に出たくないんだ……だから、室内で取れる食事。フレンチ、イタリアン、和食、中華――なんでもあるよ」
一時間後。
ルナは、キャンディフレッシュライムポメグラネードミルキーシルクローズプレミアムとかいうバスオイルが入った広い浴槽に浸かりながら、無心で白い水面を見つめていた。
キャンディフレッシュライム(以下略)という、マミカリシドラスラオネザの名前にも劣らない高級バスオイルは、ピーターがなにを思ったのか、瓶の中身を全部浴槽に突っ込んだので、ルナは頭の先から足の先まで、匂いがついてしまった。悪い匂いではないが、香り過ぎて酔いそうだ。
「……」
ピーターはなにを思ってルナを連れまわし、この部屋まで連れて来たのか。ルナが一度も、違和感を持たないで来られたのも、ピーターがいうように、彼がゲイで、ルナに手を出す気は、毛頭ないからなのだろうか。
結局、あちこちから食べたいものだけ注文したピーターは、残すことなく料理はすべて平らげた。ルナのためにと、デザートにアイスケーキまで頼んでくれた。
お風呂から上がり、これまたルナのためだけに買ったのだろうか――ルナサイズのシルクのパジャマが用意されていた。なにしろ、有名ブランドの紙袋に入ったそれが、同じブランドの下着とともに、脱衣所に置かれていたからだ。
「……」
ルナが紙袋からそれらを出すと、すでにタグは取られていた。こんなものまでルーム・サービスで注文できるとは。
「それ、嫌いだった?」
「ぷぎゃっ!?」
いきなり脱衣所のドアが開き、ルナはタオルを手に悲鳴を上げたが、ピーターは「あ、ごめん」とふつうに言って、ドアを閉め、ドア越しに言った。
「軍事惑星じゃ、君くらいの子に人気のブランドなんだけど。君はそれで、だいじょうぶ?」
派手な花模様がモチーフの、この高級ブランドは、どちらかといえばリサやキラが好きなブランドだが、ルナはこだわる性質ではなかった。
「だ、だいじょうぶですよっ!」
「そう」
そもそも、このパジャマですら数万デルのしろものだ。ルナはあきれ顔で下着とパジャマを見やり、いそいそと着た。
浴室を出て、寝室まで行くと、ベッドに寝そべったピーターが手招いていた。
「寝よう」
まるで当然のようにピーターが言うのに、さすがにルナは戸惑った。
「い、いっしょに!?」
「嫌じゃなかったら、といいたいところだけど、できれば、といいたいところでもあるけど、俺は多分、君が別の部屋で寝ていても、お邪魔すると思うよ。君は寝心地がいいから」
ピーターはさらに言った。
「俺が抱きたいのは、オルドだけだから」
「……」
「それでもいやかな?」
「……」
「う~ん、隣の部屋に、もう一台ベッドがあるよ」
「……」
ルナは、おずおずとベッドまで来て、ピーターのとなりに潜り込んだ。
ピーターが、嬉しそうな顔をした。
アズラエルたちに知れたらたいへんなことになりそうだし、手を出さないというのはほんとうかどうかわからないが、なんとなく、だいじょうぶな気がした。今のルナには、イシュメルという超強力な防犯探知機がついているし、ルナが助けを求めたら、なんとかなるだろう。
それに、ピーターはなんだか、子どものように見えるのだ。
毛布にもぐりこんだルナを抱きしめ、ピーターは髪に鼻先を近づけて、「うえ」と変な声を出した。
「……すごい匂いだね」
「ピーターしゃんが、ぜんぶいれたからです……」
「俺のせいだったな。ごめん。おやすみ、ルナ」
ピーターは、ルナを抱きしめて、すぐに眠りについた。あっさりとしたものだ。
ルナはピーターを抱き返してやりながら、なんとなく分かった。
星のように大きなハトさんだ。もっと大きな、惑星みたいに大きな月の女神じゃないと、抱きしめてあげることはできないんじゃないかと。
超高層マンションで目覚めた次の日の朝、ピーターはすでにいなかった。
ルナはもしょもしょと目をこすりながらピーターをさがし、きのう彼がきていたコートがないことに気づくのはすぐだった。いっしょに映画を観たソファのまえのテーブルに、書きおきがあった。
「朝食は、ルーム・サービスで注文して。遠慮しなくていいよ。それからパジャマはここに置いていって。君のものだけど、置いておけば、勝手にクリーニングしてくれる。君がこの部屋に来たときつかうといい。
君のシャインカードの認証をさせておいたから、君はいつでもこの部屋に入れる。好きにつかっていいよ。黄金の天秤は、できたら送ります。
昨夜はほんとうに夢を見なかった。熟睡したのは二十三年ぶりだ。ありがとう。
まるで、ママに抱かれて眠ったみたい。
出会えてよかった。じゃあね、ルナ。エルコレ」
ルナはアホ面をさらし――「二十三年ぶり!?」と絶叫した。
なんなのだろう、この具体的な数字は。
熟睡したのが二十三年ぶりというのは、どういうことだろう。
ピーターは、最後まで、エルコレで通した。ピーターがなんのためにルナとひと晩を過ごしたのか、最後まで分からなかった。
まさか、ほんとうに、安眠のためだけに?
ルナは首をかしげたが、徹頭徹尾、ルナにとっては、ピーターは男ではなく、ピエトと同じ、子どもの印象だった。
それもまた、不思議だ。ピーターはかっこいい成人男性で、終始おだやかな調子は、セルゲイに並んで、ルナが好きなタイプだった。
一緒に寝たり、手をつないだりしたのに、トキメキとかいうものはまるでない。ピエトに手を引かれたり、一緒に寝るのと同じ感覚だった。
「……?」
とりあえず、月を眺める子ウサギが言ったとおり、「黄金の天秤」は、彼にお願いすることができた。
ルナがというよりは、ルーシーがお願いしたようなものだけれども。
(“天秤を担ぐ大きなハト”)
ルナは、あんな大きな動物を見たのははじめてだった。八つ頭の龍よりおおきなハト。
ピーターも夢を見なかった、と言ったが、ルナも安眠した気がする。
まるで、大きなハトの懐に包まれたように。
(エルコレ……)
ギリシャ神話の英雄ヘラクレスの別名。
神と人間のあいだの子であるヘラクレスの。
ピーターがそれを知っていて、エルコレと名乗ったのか、ただの偶然か。
ピーターは、ヘラクレスのように、神様と人間のハーフなのだろうか。
ルナは考えたが、クラウドではないので、なにも分からなかった。
ルナは書置きをバッグに入れて、着替え、室内にあるシャインの装置で、K38区の自宅にもどった。
帰ってきたルナを、アズラエルたち三人や、ミシェル、ピエト、みんな勢ぞろいで、「心配させやがって!」ともみくちゃにしたので、ルナは、あの部屋で朝食を食べてこなかったことをほんの少し後悔した。
昨夜は早めに夕食を取って就寝したので、ずいぶんお腹が減っていたのだ。
髪からは、まだ昨夜のキャンディフレッシュライム(以下略)の匂いがする。当然家に帰ったら、どこにいたのか追及されるだろうことは、ルナは覚悟していた。だが、だれも、なにも聞かなかったので、ルナは拍子抜けした。
ピーターのことを話していいものかどうか迷っていたので、ルナとしては助かったが。
もしかして、クラウドの探査機で、ルナがだれといたかは分かっているのだろうか。
ルナは、バーガスの作った朝ごはんを食べ、やっと、「ただいま」ということができたのだった。




