295話 白ネズミの女王 Ⅲ 1
アンジェリカのリカバリはしておく、と告げたペリドットを残し、皆々は帰路についたわけだが、すでに事態は始まっていたのだった。
屋敷に入った途端に――ルナが一歩、屋敷に足を踏み入れたそのとき――大広間の古時計が鳴り始めた。
ボーン、ボーン、ボーン、……。
長かった。時刻は午後6時半、すなわち18時半。なのに、たしかに時計は、19回鳴った。
「……いま、19回鳴ったね」
それに気づいたのはクラウドだけだった。ルナも違和を感じ、じーっと時計を見つめているのだが、鳴った回数には気付いていないようだ。
クラウドも、時計を見つめて思考した。
(19回……K19区を示唆しているのか?)
K19区に、行けと?
時計から返答はない。あるはずもない。ルナは、穴があくほど時計を見つめていたが、それ以降はなにも起こらない。
19時になったら、やはり時計はまた、19回鳴った。
その日は、滞りなく過ぎた。
バーガスとアズラエルがつくった夕食をみんなで食べ、ルナはまた大広間の時計とにらめっこし、入浴し、ふたたび時計とにらめっこした。
なにかが起こることはまったくなかったので、ルナは部屋にもどり、ZOOカードを引っ張り出してきて、またじーっと眺めたが、だれも出てこない。
あきらめて、ベッドにもぐりこんだ。
ZOOカードボックスから、ぴょこん、と月を眺める子ウサギが顔を出したのは、みなが寝静まった深夜だった。
「リカバリ Ⅱ LUNA NOVA」
うさこはそれだけ言って、またひょこっと箱の中に姿を消した。
ルナはその夜、夢を見た。
ノワの夢だ。
しかし、ノワの前世を見たのではない。ノワが、リビングにたたずんでいた。
――椿の宿からもらった古時計のまえに。
彼は、時計を抱きかかえると、ふうっと姿を消したのだ。
ルナはあわてて、玄関から外へ出た。ノワがまるで招くように、少し離れたところからルナを見つめている。ノワのもとへ行こうとすると、彼はまた姿を消す。そのくりかえしだ。
ルナは深夜の街を、ノワを追いかけて走った――最後にノワが消えたのは、K19区の遊園地のまえだった。
なぜかルナは、大きなぬいぐるみをふたつ、両脇に抱えていた。
そこで、目が覚めた。
事態が静かに急展開したのは、翌朝だった。
ルナは、飛び起きると、アズラエルが「まだ寝てろ……」とルナをベッドに押し込めようとするのを跳ね上げ、一目散に大広間に走った。
夢は正夢だった。サイドボードにあった古時計がない。
「たいへんだ! のわが持っていっちゃった!」
ルナは頭を抱えたが、なぜ彼が時計を持っていってしまったのかは不明だ。
(……やっぱり、K19区の遊園地に行ってみよう)
ルナは朝ご飯を食べたら、すぐ遊園地に向かうつもりでいた。
リビングに、バーガスがやってきた。
ルナは、「おはよ……」とあいさつをしかけて、おかしなことに気付いた。バーガスがこちらを見ていない。彼は、ルナを見ずにまっすぐ玄関扉を開け、郵便ボックスにつまっている、大量の新聞をどさどさと運び入れてから、外で深呼吸をした――「いい朝だ!」
そして、家の中にもどってきて、ルナに気づくことはまったくなく、まっすぐキッチンに向かった。
「……!?」
ルナはあわててバーガスを追いかけ、「バーガスさんおはよう!」と叫んでみた。
だが、バーガスからいつものように、「おはよう! うさちゃん」と元気のいい返事がかえってこない。彼はひとりで野菜を刻みながら、不審な顔でキッチンのドアを見るのだった。
「今日は起きてこねえな、うさちゃん」
(……!)
「あ、もしかして、昨夜はアズラエルとアレか」
ニヤケ面でひとりごと。ルナは思わず、バーガスの尻に向かって頭突きをしてみた。
「うおごっ!?」
バーガスがのけぞり、不思議な顔であたりを見回す。ルナは確信した。バーガスに、ルナが見えていないのだ。
ルナはあわてて、部屋に戻った。
「あじゅ! あじゅ、あじゅ、あじゅっ!!!」
ルナは寝こけているアズラエルを揺り起こした。
「なんだ? どうした」
「あたしが見える!?」
また朝からカオスか。
アズラエルはうんざり顔で目を開けた。アホ面のウサギがいる。
「見えるがどうかしたか」
「バーガスさんに、あたしが見えてない!」
アズラエルはうなりながら起き、やっとルナの言葉を認識した。
「――は?」
「じゃあ、ルナちゃんが見えるのは、アズラエルとグレンと、ピエト、エーリヒだけなんだね」
クラウドは、だれもいない席のまえに置かれたプレートの中身が減っていくのを、不思議な面持ちで見つめた。その席には、透明人間になったルナがいる。
そう――透明人間という言葉がいちばんしっくりくる。
ルナは見えないだけで、たしかにそこに存在している。触れば、いるのが分かるのだ。ルナの頭突きが、見事バーガスのでかい尻にヒットしたように。
「ルナ姉ちゃん、透明人間になっちゃったの!?」
すげーと言いながら、ネイシャがつついている。
「あたしにも見えないってどういうことなのよ」
ミシェルもつつきながら言った。アズラエルから見たルナは、「ぷにぷにしないでっ」とむずがっているが、ルナの声は周囲に聞こえないので、攻撃されっぱなしだった。
「不思議なことにはもうすっかり慣れたけど、今度のことは極めつけだね」
レオナが呆れたように、ルナがいる“らしき”方をながめた。
「ルナちゃん、ちょっとは加減してくれな」
バーガスは、ルナの頭突きが相当痛かったらしい。まだ尻をさすっている。
「ルナがごめんって言ってる」
ピエトが訳した。アズラエルとグレン、ピエト、エーリヒ以外には、ルナの声も聞こえないのだ。
ちなみに、ちこたんをはじめ、pi=poは、ルナの姿を認識できるようだ。
「いったいどうして、こんな状況になった」
アズラエルが落ち着きなく、コーヒーカップを持ったり置いたりした。
「たぶん、ノワがリカバリされたんじゃないか」
クラウドが明快に、疑問を解決してみせた。
「昨夜のルナちゃんのカオス発言のせいで中途になったけど、K19区の遊園地が、おそらくノワの墓と呼ばれるものなんだよ。ノワ自身が、その名の通り新月――つまり、“見えない月”。だから、決まった人間にしか見えないんだ」
「ルナ姉ちゃんが透明人間になっちゃったから、今日は学校を休もうかな」
適当なことを言いだしたネイシャに、セシルはすかさず言った。
「バカ言わないの」
「だって、雨も降りそうだし」
ネイシャは窓の外を指さして言いわけした。
たしかに、今日は一日、天気がくずれそうだ。外は、まるで夜みたいに真っ暗になっているし、雷の音も聞こえる気がする。
クラウドが、「ルナちゃん、ノワの前世の夢は見た?」とだれもいない席に向かって話しかけた。
「見てねえって。そのかわり、ノワが――」
また、ピエトが訳した。
「ノワが?」
「ノワが、椿の宿の時計を持っていっちまったって」
ピエトの言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、全員がいっせいにリビングへ駆けた。
「ほんとうだ」
サイドボードには、時計がなかった。そして皆は、今日の朝食の席に、一名足りなかったことに、やっと気づいた。
「ちょっと待って」
クラウドが言った。
「セルゲイは?」
グレンが朝方までバイトをしていたり、バーガスやアズラエルが、飲みに行った翌朝はいなかったり、セシルとネイシャがベッタラのもとへ行ったりしている――食事の席に全員そろわなくても、気にしない。
でも、セルゲイが朝食の席にいないのは、めずらしかった。
おとなたちは二階のセルゲイの部屋に突進した。透明ウサギは、アズラエルの小脇に抱えられて移動した。
セルゲイの部屋のドアは、開いていた。
「失礼!」
クラウドが部屋に入ると、ベッドの毛布が跳ね上げられていた。あきらかに、飛び出したようすだ。部屋の鍵はかけられていない。セルゲイはどこにもいなかった。
「いつ家を出た?」
「今日はまだ、だれもでかけてねえはずだ――屋敷のどこかに?」
口々に言い、今度は屋敷中、セルゲイ捜しをすることになった。
「セルゲイ先生まで透明人間になっちゃったの?」
ネイシャが青ざめたが、「まさか!」とセシルは励ました。
「セルゲーイ!」
「どこにいるんだ、出て来い!」
「風呂かな?」
みんなが必死で屋敷中を捜していると、玄関ドアがバタンと開いて、――そこには、息を切らした、スウェット姿のセルゲイがいた。
「ルナちゃんが、いない」
開口一番、彼は言った。
セルゲイは、ルナを捜しに出ていたのか? しかし、朝食の席には、セルゲイはいなかった――つまり、今朝、ルナとセルゲイはまだ接触していないはず。
バーガスが、セルゲイを落ち着かせるように、言った。
「それが、落ち着いて聞けよ? 実はルナちゃんは、」
「ルナちゃんの気配が消えた!」
アズラエルは、このセルゲイのテンパったようすを、どこかで見た気がした――そうだ。かつてヘルズ・ゲイトの連中がグレンを拉致しようとしたとき――「ルナに危険が迫っている!」と騒ぎだしたときと、とてもよく似ている。
「セルゲイ! ルナはここだ!」
アズラエルが、小脇に抱えたルナをセルゲイのほうへ放り投げた。もちろん、セルゲイが受け止めることを想定して、だ。
「ぷぎゃっ!!」
ウサギの鈍い悲鳴。ルナはソファに、べちゃっと落下した。
――セルゲイを、すり抜けて。
「!?」
その光景に目を見張ったのは、ルナを見ることができる連中だけだった。
「いひゃい……」
涙目でうずくまっているウサギがいる。
「ここって、どこ!?」
セルゲイが悲鳴のような声を上げて、周囲をキョロキョロと見回し、「いないじゃないか!」と叫んだ。
ルナは絨毯を這うようにしてセルゲイに近づき、その身体に触れようとする。だが、ルナが完全に空気にでもなったように、彼の身体に触れられない。
ルナは、口と目を真ん丸にして、アズラエルのほうを見た。
「ルナちゃん! ――ああっ! もう!」
セルゲイは一度、ぶんぶん首を振ると、そのまま壁に突進していった。自らそうしたように見えた。彼は壁に頭をぶつけると、一度よろめいて――「ご、ごめん」とよろけながらつぶやいた。
「よ……夜の神が怒ってる」
「なんだって?」
セルゲイは冷静に告げた。頭を押さえながら。
「ルナちゃんの気配が消えた、消えたって、焦って捜してる――」
「……」
「あ、ルナちゃん! いるじゃないか!」
セルゲイはルナを見つけたが、すぐに焦り顔で、ひとり芝居のようなことを始めた。
「どこにって――そこに! あ、また見えなくなった! だから、あなたには見えないんですよきっと! でも、ルナちゃんはいますから! みんなには見えてるし――しょうがないな、もう!」
エーリヒとクラウドは顔を見合わせた。やはり、夜の神には、まったくルナの存在が感知できなくなっている。
昨日クラウドが想定したように、「新月」は、夜には見えない。すなわち、夜の神には見えないのかもしれない。そして、姿が見えないだけではない――声も聞こえないし、その存在に触れることもできないらしい。
セルゲイ「だけ」になれば、ルナは見える。だが、「夜の神」が装着されると、まったく見えなくなるらしい。
「アントニオとペリドットを呼ぼう」
クラウドが自分の電話を取りに走ったところで、インターフォンが鳴った。
そばにいたので、あわてて開けた。玄関扉の向こうにいたのはカザマだった。彼女もずいぶん急いで来たようだ。息が乱れていた。
「おはようございます! 実は、夜の神様が――セルゲイさん!?」
セルゲイが、頭を押さえてうずくまったところだった。カザマはお邪魔しますを言うのも忘れて屋敷に飛び込み、セルゲイに駆け寄った。
「まもなく、アントニオが来ます!」
カザマの勢いに怯みつつ、バーガスが、やっと返事を返した。
「そ、そうか」
「今朝がた、真昼の神がわたくしを起こして、夜の神が荒れている。このままでは、宇宙船の運行にも支障をきたすほど荒れ狂うかもしれない、と仰いまして」
窓の外で、ぴしゃり、という稲光と、すこし遅れて鳴った雷のごう音。
そういえば、さっきから、外の様子が不穏だった。
やがて、打ち付けるような大雨が降りはじめた。
「夜の神だけではないのです。――昨夜、アンジェリカの身にも大変なことが起きまして」
「なにかあったの」
クラウドの言葉に、カザマは深呼吸をし――やっと言った。
「家から、一歩も出られなくなってしまったのです」




