294話 白ネズミの女王 Ⅱ 2
そのころ、ルナは、屋敷のリビングで、ドーナツ研究の第一人者にでもなるかのように、ドーナツ全集という名の本を読んでいた。ギフトボックスのような分厚さの本に、これでもかとカラフルなドーナツの写真が並んでいる。
中には、ドーナツという原則そのものをくつがえすような、なにかもあったが。
ボーン。
時計が一回鳴った。先日、椿の宿からもらった古時計だ。
あれは、このあいだから動かなくなっていたはずだった。
リリザで買った、ジニーの腕時計は、十三時二十一分を指している。
「?」
ルナは古時計のもとまで行った。このあいだから、この時計はおかしい。
ふつうの古時計ならば、「壊れたかな?」と思って終わりだろうが、この古時計はいわくつきである。
十日くらいまえに、急に針が止まり、アズラエルがねじを巻こうがいじろうが、まったく動かなくなってしまった。
アンティークだし、いつ壊れてもしかたがない。リビングには、これとは別に大きな時計が掛けられていたし、これが動かなくなっても問題はないのだが。
「あっ! 動き出した!」
古時計の針が、ものすごい勢いでくるくると回り、十三時二十三分をしめした。ルナの腕時計と、ぴたりと同じ時刻を示した。
この十日間、古時計の針は止まっていたが、また動き出した。――なにか意味があったのだろうか。
ルナは古時計にキスせんばかりの勢いで顔を近づけ、にらめっこしていたが、やがてあきらめてソファにもどり、ドーナツ全集を開いた。そこには、中央に穴が開いた、中にフルーツとクリームを詰め込んだ、ホットケーキにしか見えない物体が、「パンケーキ・ドーナツ」という名で紹介されていた。
「これは、パンケーキです!!」
ルナはだれもいないリビングで、憤然と全集に向かって怒鳴り返した。
「――マクタバさんが、カーダマーヴァ村を出た、ですって?」
カザマの言葉に、ZOOカードを見つめていたペリドットとアントニオも顔を上げた。
「村を出たって――どうして」
カザマは困惑していた。無理もない。
彼女は今、カーダマーヴァ村に送ったポテトチップスが無事届いたか、確認するために電話していたのだった。村の向かいのL19の陸軍本部に連絡し、その電話を村の門まで持っていってもらって、長老と会話していた。
イシュメルが石室から出て、村人にも心の余裕ができたのか、カーダマーヴァ村の者と、陸軍本部の軍人たちとの距離は、すこし縮まっていた。門の近くに住む住民と、世間話をかわすくらいにはなった。
相変わらず村には入れないが、こうして、電話の取次ぎができるくらいには、なったわけである。
しばらくカザマの言葉はやみ、電話向こうの相手――カーダマーヴァ村の長老が、事情を説明するのに聞き入っている。
「ええっ!?」
カザマの悲鳴のような声。
「そう――そうですか。わかりました――ポテトチップスは、みなさんでいただいてください」
カザマは慌ただしくもどってきて、ふたりに告げた。
「マクタバさんが、サルディオーネになるために、村を出たそうです」
「え?」
「サルディオーネになったら、村の慣習はなくすと宣言して――二度と村にもどれないとか、そういった慣習を、ですわね。それで、パズルの道具もいっさい置き去りにしたまま、十日前に村を出たそうです」
サルディオーネになったら、また村に戻るつもりだったのでしょうね、とカザマは嘆息した。
アントニオは呆気にとられた顔で眼をしばたかせ、「……思い切ったことをするなあ」とつぶやいた。
「それで、サルディオーネにはなれたのか」
苦笑気味にペリドットは聞き、カザマは首を振った。
「いいえ。今は、ユハラム殿のところで小間使いを」
「なるほど。そりゃ、いい傾向だ」
ペリドットはカードの配置を変えながら、いい加減に相槌を打った。
「そんな、適当に仰らないでください」
カザマはたしなめた。
「どうも、宇宙儀の占術をするサルディオーネ様にお会いしたそうなのですが、月の女神さまのご指図とかで、パズルはゲルごと、燃やしてしまったのだそうです」
カザマの悲鳴の意味が、やっと分かった。
「なんだと?」
それは大問題だった。ペリドットも、適当に相槌を打つのはやめた。
「だとすれば、“パズル”の占術は、もうできんということか?」
ペリドットは、ZOOカードでパズルを起動してみた――ロビンのリカバリをしたときのように、たくさんのモニターが現れ、今度は、ZOOカードボックスがキーボードの装置に変わった。――これが、完成型「パズル」か?
ペリドットのZOOカードでは、パズルは起動できるようだった。
「まずったな。マクタバに、パズルのくわしい操作を聞こうと思ったのに」
ペリドットは惜しい顔をした。
「ルナさんにご連絡して、月の女神さまを呼んでいただきますか?」
「いや、それより先に、“賢者”を捜さんとな」
ペリドットは腕を組んだ。
年は、あけてしまった。今年の十月には、アストロスに着いてしまうが、アンジェリカの不調を改善する手立てが見つかっていなかった。
ルナのところにも、ペリドットのところにも、それらしき通達はまったくない。
今日アズラエルが持ってきた回覧板には、先日ルナのもとに月の女神が現れて、いろいろ話していったことが書かれていたが、ペリドットが読み終わった途端に、回覧板はいきなり燃え上がって焼失した。
太陽の神の気配があった。いよいよアストロスが――メルーヴァが近づいているせいで、ラグ・ヴァダの武神に気取られることを避けたのだろう。これからは、回覧板は回せない。
どこか、ラグ・ヴァダの武神に気づかれない場所で、相談しあうことはできないものか。
夢の中での、ZOO・コンペティションだけでは限界がある。
シャンパオは、夜の神の加護が強く、絶好の場所であることはたしかだが、あそこは飲食店である。つまり、金がかかる。しかも料理がうま過ぎて、みんな、小難しい話から遠ざかってしまう。緊張も失せる。
金がかからない、集合場所――神の加護の強い場所。
ペリドットは、その場所も捜さなくてはならないし、「賢者」捜しもしなくてはならない。
「賢者」がいなくては、「白ネズミの女王」を助け出せない。
アンジェリカの、おそらく真名である「白ネズミの女王」――。
彼女は牢獄に閉じ込められている。
おまけに、彼女を牢獄から救出しようとするのを、ネズミたちが邪魔している。ネコや犬の助力もあって、邪魔をするネズミたちを間に合わせの牢獄に閉じ込めているが、なにしろネズミ――かなり数が多い。
白ネズミの女王が閉じ込められているのは、ZOOカード世界の遊園地のアトラクションで、城の地下にある牢獄だ。そこに行くにはチケットが五枚必要で、牢獄のまえには結界が敷かれている。さらに奥には、チェスのような駒があるのも見えた。
そこまでが、分かったことだ。
それ以外はまったく謎のまま。
ネズミたちが邪魔する理由もわからないし、とにかく、結界は抜けられるだろうが、その先に行くには、おそらくチェスの勝負が待っている。
「賢者」の位を持つカードがチェス盤をつくったとなると、「賢者」でなければ勝負に勝てない。
だからペリドットは、「賢者」の位を持つカードを捜しているのだが、頭の良さでは最高位をあらわす「賢者」を頭文字に持った人物は、なかなかいない。
「賢者――賢者――賢者って――いねえもんだなァ」
ペリドットは苛立たしげに頭を掻いた。
「クラウドは結局、“賢者”じゃないの」
アントニオに聞かれ、自分がまとめたファイルを辿っていたクラウドは、顔を上げた。
「うん。俺は、もしかしたら“賢者”じゃなくて、“生き字引き”系じゃないかと踏んでいたんだけど」
そのとおりだった。
「クラウドは、“生き字引きのライオン”だった」
ペリドットが残念そうに言った。
「俺は頭がいいっていうよりかは、記憶力に特化した能力だからね。IQ180なんて、科学の星に行けばごまんといるし」
「ルナちゃんって、いま忙しいの」
アントニオが、ベッタラと刀剣を打ち合わせているアズラエルへ声を放り投げると、彼はいったん打ち合うのをやめて、汗を拭きながらドリンクを手に取った。
「いや? 今日は家で、本でも読んでるんじゃねえか。ドーナツ全集とか借りてきてたぜ」
「ルナちゃん、そんなにドーナツ好きだっけ?」
「さあ。最近は、ドーナツにハマってる」
アズラエルはスポーツドリンクを飲み干した。
「家にいないとすりゃ、エーリヒとその辺で茶を飲んでるはずだ」
「エーリヒ?」
ペリドットが聞き返し、クラウドがはっと気づいた顔をした。
「最近、あのふたり、べったりなんだよ」
グレンも忌々しげにミネラルウォーターを呷った。
「エーリヒさんは、アントニオもお会いになられたでしょ。“地獄の審判”のときに、ルナさんのそばにずっとついていらっしゃった――」
「ちょ、ちょ、ちょ!」
クラウドが焦り顔でペリドットの腕をつかんだ。
「エーリヒのZOOカードをさがして! “英知ある黒いタカ”っていうんだけど!」
「――英知ある黒いタカ」
つぶやいたペリドットは、目を大きく見開いた。
「もしかして、“賢者”か!?」
「もしかしたら!!」
「これからあたし、ツキヨおばーちゃんのところに行くの」
ルナは揚げたてほやほやのドーナツをかご一杯に詰めたのをぶらさげ、電話に出ていた。
通りすがりのエーリヒが、ドーナツを一個かっさらって、もぐもぐしていた。彼にしては、行儀の悪い所作である。
「ルナ、ツキヨ嬢の見舞いに行くまえに、どこかでお茶を」
エーリヒは小腹が空いていた。このままではドーナツが食べつくされそうだった。
「ちょ、ちょっと待って――クラウド! エーリヒ! だめです! ああ、うんとね、でかいタカにドーナツが食べられそうなの! ええ? だから、あたし、ツキヨおばーちゃんのとこにいくの。ドーナツも揚げちゃったし」
『そのドーナツを持って、ぜひ来てほしい。こっちには、腹をすかせた野獣どもがうようよしている』
電話口でクラウドは言った。
「野獣の巣になんか行かないよ!」
ルナは絶叫したが、エーリヒが横から電話を取り上げた。
「なにか用かねクラウド」
『ほら、やっぱりエーリヒもいた』
クラウドは背後に向かって言っていた。
『エーリヒ、とにかくルナちゃんとドーナツを連れて、K33区まで来てほしいんだ。待ってるから』
「承知した」
エーリヒは、ウサギの襟首をひっつかんで、シャイン・システムに乗り込んだ。
「たいへんだ!」
ドーナツは、エーリヒに持たせておくべきであった。
ルナが到着したとたん、野獣の群れがドーナツに襲い掛かり、カザマが思いもかけぬ脚力で野獣どもを追い払い、平等に分けなければ、ちっちゃなうさこちゃんはもみくちゃにされ、ドーナツごと消失していたかもしれなかった。
「カザマさん!」
野獣どもにむしり取られたドーナツかごを見捨て、ルナはカザマに飛びついた。ずいぶん早い帰還だ。
カザマの帰りは、もっと先だと聞いていた。
「帰りも、数日、冷凍睡眠装置をつかいましたの」
「えっ!? だいじょうぶ? 一年のうちに一回以上つかっちゃいけないんでしょ?」
「ええ。乗るまえに、お医者様に診ていただきましたから。健康上問題ないということで、一週間分の冷凍睡眠装置のチケットを手配していただきました」
「カザマしゃん、いろいよと、あじがとうごじゃいまひた……!」
ルナの顔がみるみる、ぐしゃぐしゃに崩れた。カザマが無理を押して、冷凍睡眠装置でカーダマーヴァ村に飛んでくれたからこそ、ルナもイシュメルも助かった。
そうでなければ、ルナはまだ、階段の真上で眠り続けていたかもしれない。
「よろしいんですのよ。ルナさんが無事で、よかったわ」
「ふぎ……」
ルナとカザマの感動の再会をよそに、ペリドットはエーリヒの前にたたずみ、じっと凝視していた。
「……なんだね、君は」
「おまえの魂が、出てこん」
初対面の人間に、あいさつも自己紹介もされず言われたなら、即座に通報しているレベルの台詞だった。
クラウドがあわてて、紹介をした。
「エーリヒ、彼はペリドット。ZOOカードの正式な術者だよ」
「ほう」
エーリヒはうながされるまま、切り株に腰かけた。




