293話 白ネズミの女王 Ⅰ
ライオンやトラのように、武神の喉笛に直接歯を立てることはできずとも。
ちいさなネズミのわたしでも、武神がつまずく穴くらい、掘ることはできるのだ。
たとえあなたの胸にこの槍を突き立てることになろうとも。
ラグ・ヴァダの武神を倒します。
さよならわたしのあいするひと。
――きっと来世こそ、結ばれましょう。
(シャンデリアの象意は? 明かり――ともしび。照明――いや、ただの照明じゃない。シャンデリアは華やかなものの象徴だ。華やかな明かり、豪華、豪勢なもの。きらびやかなもの。それを“照明”の象意と照らし合わせると――)
アンジェリカはボールペンをこめかみに当てて考え、思いつくまま、ノートに書きつらねた。
(華やかな成功、あるいは華やかな発見、ひらめき、真実への到達、発見――光明。幸福へのスタート。祝賀、めでたいこと――それも、一番華やかに祝うべきこと。――なるほど)
ルナは、あの夢のあとにララと出会った。
夢の中で、遊園地の美術館に入り、「船大工の絵」をもらい、「私の宝物が燃やされた」と泣いていた八つ頭の龍に、ポケットに入っていたちいさなシャンデリアを、渡した。
ララは、当人自体が“華やかなもの”といっていいだろう。ルナにとって、ララとの出会いは華やか、豪勢なものとの出会いだった。
ミシェルにとってもそう。ミシェルにとってララとの出会いは“華やかな成功”への入り口だ。
ララにとっても、かつての恩人と運命の相手、両方に出会うことができた、一番“めでたい”ことであったのは間違いない。
そして、あの個性的なシャンデリアの形は、アンジェラがデザインしたものだった。
(アンジェラがつくったシャンデリア、ということは、アンジェラにも関係があるかもしれない)
アンジェラにとっても、華やかな出会いが約束されているはずだ。あれは、アンジェラの作ったシャンデリアだったのだから。
(――アンジェラの、華やかな成功。――華やかな、)
火のように、華やかで派手であざやかな――火。
火の祭事――。
「――!」
アンジェリカはがばっと腹筋をつかって起き上がり、あわててララに電話をした。
アンジェラが最近、とみに危うさを増したことは、ララも心配していた。
ミシェルと出会ってから、アンジェラの生み出す作品群に変化が訪れたのだ。
ララはその変化を憂えている。
アンジェラの生み出す芸術に、壮絶さが増した。彼女の名は、ますます高みを目指して押し上げられている。
――小一時間の電話を終え、アンジェリカは、呆然と携帯電話をソファに置いた。
アンジェラがたどった、壮絶な生を思って、だ。
彼女はもう、宇宙船を降りていた。アンジェリカも知らない間に。
ララやシグルスの記憶も、なくして。
アンジェリカは、アンジェラが壮絶な「最期」を遂げることを知っていた。匂わせたことはあったが、知らせなかった。知っていたのに、知らせなかったことを、ララは、一切責めなかった。それどころか、アンジェリカの身体を気遣った。
なるべく早く仕事に戻れるようにする、というと、笑って、「今まで働き続けてきたんだから、少し休め」と言った。
アンジェリカは、現在のアンジェラの様子を探ろうとしてZOOカードを目で探し、今はつかえないことを思い出して、手を引っ込めた。
アンジェリカは、ため息をついて、無意識にバターチャイのカップに手を伸ばして口に運び、中身がないことに気付いた。
カップの絵柄が目に入る。これはルナからの、誕生日プレゼントだった。ネズミたちがランタンを持って夜の街を練り歩く、お祭りらしき風景。
アンジェリカはなんとなく和んだ気持ちになって、つくっておいたバターチャイをカップに入れるために立ち上がった。
「あっと!」
脇に積んである、ZOOカードの記録帳が、バサバサと崩れた。
飾り気のない学習ノートが二十冊以上。アンジェリカの歴史がそこにある。
アンジェリカはもう一度ソファに座り、パラパラとノートをめくった。そして、また小さく嘆息した。
相変わらずZOOカードは、さっぱり動く気配を見せなかった――先日、ルナが助ける人物が更新されたことの報告以外は、今までのままだ。
(でも、イシュマールさんも言ってたけど、あたしがZOOの支配者でなくなったなら、箱はもとの鉄箱にもどるはずだ)
アンジェリカのZOOカードは、まだ神秘的な紫の光を宿したままそこにある。カードも出せる。
ただ、動かない。占いができないだけ。
ルナの場合は勝手にカードを出そうとすると、手が弾かれると言っていた。
(あたしは、ZOOの支配者でなくなったわけではないんだ)
ペリドットの話では、これはZOOの支配者の正当な試練である。
サルーディーバの提案に従って、月の女神に祈ってもみた。アンジェリカのZOOカード、「英知ある灰ネズミ」の支配者である夜の神にも祈った。
だが、動かない。
アンジェリカの|真名も、まだあきらかにならない。
(八方ふさがりだ)
アンジェリカはソファに寝そべり、天上を見上げた。
最近は、ZOOカードの記録帳を一から見直したり、気になっているところを調べ直したりすることに精を出していた。気ばかり急いて、どうにもならない。
(年もあけちゃったしな)
今年の十月には、アストロスに着いてしまうのだ。
アンジェリカは、もう一度マグカップを見つめた。
(ルナのことは、大好きだ)
それは間違いない。でも、この複雑な気持ちはなんなのだろう。嫉妬なのか、ひがむ気持ちなのか――冷静でいられない気持ちが、心のどこかに、しこりとなって残っている。
それは、ルナが「ZOOの支配者」になったときに、決定的な杭となって、アンジェリカの胸に刻み込まれた。
マ・アース・ジャ・ハーナの神は、自分の代わりに、ルナを「ZOOの支配者」に任じた。
アンジェリカは、そのことに驚き、しばらくはなにも手に着かなかった。アンジェリカとマリーが、人生をかけて築いてきたものが、苦労知らずのL77の少女に奪われた、そんなふうにさえ思い、自分にはそんな偏見があったのかと、うろたえもした。
ルナとは育ってきた環境が違うだけであり、苦労自慢をしたいわけではない。
その上、ルナは「ZOOの支配者」とは名ばかりで、自由にZOOカードを使えるわけではない。
こんなことは、ZOOの支配者だったころは、微塵も思わなかったことだ。アンジェリカは、自分がどれだけZOOカードに支えられてきたかを悟った。
ZOOカードがなくなれば、自分は自分を見失い、こんなに醜いことまで考えるようになる。
(まるで、小さなころに、もどったようだ……)
アンジェリカは、陽気でやんちゃな子どもだった。だが、ある日を境に、ひどく弱くなった。卑屈と怯えに支配され、まともに外も歩けなくなった。
ツァオに、「おまえほど不細工な女はいねえ」と罵られてからだ。
だが、それはキッカケであって、アンジェリカが、本当に自分の顔は美しくないのだと、そう自覚したときからだった。
ただでさえ、周囲を、特別美しい人間に囲まれていた。
姉サルーディーバをはじめ、幼馴染みのマリアンヌも、貴族たちの憧れの的であったし、婚約者となったメルーヴァも、男とは思えないほど美しかった。
実は、アンジェリカは、ほんのすこしだけシェハザールに憧れていたことがある。彼がマリアンヌを愛していたのを知っていたし、ただの憧れでしかなかった。身の程を、アンジェリカはわきまえていた。
けれども、カタブツと有名のシェハザールでさえも、アンジェリカがメルーヴァの婚約者となったことを知ったとき、
「あんな醜女をどうしてメルーヴァ様の妻に……」
と言っているのを聞き、ショックで、生きていることさえ嫌になった。
自分は、それほどまでに醜いのか。
どうして同じ姉妹に生まれながら、姉と自分の容姿はここまで違うのかと、親を恨んだこともあった。
その深いキズは、アントニオが愛してくれたことで、消えたような気がした。
しかし、そんな気がしただけだった。
アントニオは、自分と同じくらい姉も愛している。もし、姉がアントニオの愛に応えていたなら。
(あたしは、見向きもされていなかったかも)
それは想像であって、現実ではない。だが、そんなことを考えてしまうほど、アンジェリカは、ずっと不安定だった。
自分が「醜い」ことから立ち直るには、だれよりも努力して、自信をつけるしかなかった。
いつ、そう思えるようになったのかはわからないが、アンジェリカは、劣等感と戦っているのが、自分だけではないということに気づいた。
いまだかつてない「女」として生まれてきたサルーディーバである姉も、自らの劣等感と戦っていた。
アンジェリカは、そんな姉を、支えたいと願った。
そして――ひたむきな努力のすえに、つくることができたZOOカード。
それは、アンジェリカに自信を与え、彼女本来の力を取り戻した。
(そうだ)
劣等感と戦っているのは、自分や姉だけではない。ルナもそうだった。いつだって、卑屈な自分と戦っていた。
ルナは、たしかにL77の平凡な少女だが、その数々の前世を見たとき、アンジェリカはルナでなくてよかったと、痛切に思ったものだ。クラウドの記録にはない、あまりにも悲劇的な人生がいくつもある。
その幾多のかなしみを乗り越えた先に、今のルナがある。
ラグ・ヴァダの武神を倒すため、三千年目に、あの姿を持って生まれてきたのも、なにか意味があるのだろう。
L77という、どこよりも平和な星で、おだやかに育ってきたのも。
ルナは、数々の前世で、セルゲイと、アズラエルとグレンとの宿命に振り回されてきた。
しかし、因縁を断ち切る道ではなくて、幾星霜も経て、おだやかに帰結する道を模索してきたのだ。
その圧倒的な気の長さに、嘆息したくなる。
アンジェリカは、今日何度目か知らないためいきをつき、ZOOカードの記録帳をめくる。
なぜ、ZOOカードが動かなくなったのか、どうしてもわからない。
ただひとつわかることは、ペリドットが「試練」を受けたときも、ここまで動かなくなることはなかった、ということだけだ。
すくなくとも、ペリドットはZOOカードの世界を「見る」ことはできた。
どの動物も出てこず、なんの反応も示さなくなったわけではなかった。
支配者として、動物たちを動かせなかっただけであり、「遊園地」は見ることができた。
なぜ、アンジェリカの箱だけ、動かなくなったのか。
ネコと犬たちが、ネズミを捕まえたから?
アンジェリカが、真の「ZOOの支配者」ではないから?
「真名」が見つからないから?
そのどれもが正論ではあるが、もっと別のところに、理由がある気がした。
ZOOカードの世界は、“たましい”の遊園地――その世界を、“見ることができなくなった”ということは。
(あたしが感じているのは、たましいの“欠落”なのか?)
アントニオがくれた深い愛情でも埋められなかった、“なにか”の欠落。
ZOOの支配者ではなくなり、ただの「アンジェリカ」にもどったとき。
アンジェリカは深い喪失を感じていた。それは、ZOOの支配者でなくなったからだと思っていた。
だが、違う。
逆だ――この喪失の正体が見つからないかぎり、アンジェリカは、「ZOOの支配者」になれないのだ。
(ルナは、ずっと、運命の相手に翻弄され、そして、いつも悲劇的な結末に終わる人生を歩んできた)
セルゲイに“縛られ”、アズラエルに“殺され”、グレンには、愛されるが、けっして幸せにはなれない道を。
ルナ自身がグレンを呪った。グレンが、父や一族に縛られ続ける呪いをかけたのは、ルナだ。
アズラエルに、愛するものと決して結ばれない呪いをかけたのも、ルナ自身。
そして、その代償として、ルナ自身も、兄神に縛られ、けっして愛する人と結ばれない呪いを受けた。
(そして、あたしは)
アンジェリカは目を瞑った。
(ルナと同じく、きっと、“たましい”になにかの制約を受けている)
これは直感だった。いままで、ZOOの支配者として生きてきた、経験からの直感だ。
(“ラグ・ヴァダの武神が倒されなければ、運命の相手と結ばれない”呪いを、持っているのかもしれない)
ふとアンジェリカは、メルーヴァを思い出した。
婚約者となったその日、メルーヴァは、待ちかまえていたように、アンジェリカにキスをねだった。アンジェリカとキスをするために、ぜったいにほかの女に唇を奪わせることはしなかった、と頼りない幼馴染みは言った。
『わた――私は、アンジェがいちばん、好きだったんだもの』
頬を赤らめ、消え入りそうな声でつぶやくメルーヴァ。
キスを許したら、飛び上がって喜び、感激のあまり涙ぐんだメルーヴァに、呆れさえした。
――でも、ほんとうは、とてもうれしかったと言ったら、メルーヴァはなんというだろうか。
(メルーヴァ)
あんたは、こんな不細工なあたしを、好きだと言ってくれたはじめてのひとだった。
可愛いといってくれた、はじめてのひとだった。
今でも、そう思ってくれているだろうか。
(どうして、あたしを、置いて行ったの?)
アンジェリカは矢も盾もたまらなくなって、ジャケットをひっつかんで玄関に走った。
ペリドットのもとに行こうとしたのだ。
「――!?」
アンジェリカは、戸惑った。おかしい。玄関ドアが開かない。外側から鍵がかかっているわけではない。内側からもだ。
「?」
アンジェリカは、ガチャガチャとドアノブを動かした。その途端、玄関のドアが消えた。
「なに!?」
驚いて一歩下がった途端、部屋が変化した。
クリーム色の壁紙の内装が、石造りの壁面に変わっていく。ソファも、棚も、あらゆる家具が消えた。
なにが起こったかわからず、うろたえたアンジェリカは――ここが、塔の中だということに気づいた。
いきなり右手に現れた半円形の窓から、外の光景が見えたからだ。夜の遊園地――これは、ZOOカードの世界だ――遊園地の中にそびえたつ、ずいぶん高い塔のてっぺんに、アンジェリカはいた。
――まだよ。
アンジェリカの奥底から、声が聞こえた。
――まだ出てはダメ。
いつもの見慣れた玄関扉ではなく、窓と同じ形の半円形の、大きな観音開きの扉がめのまえにある。塔の一番てっぺんである。眼下には遊園地――ふつう、こんなところに玄関口などない。
けれどもアンジェリカは分かった。
自分はここから出ていくのだ。
時が来たら、ここから出ていく。
――そして。
アンジェリカの目から涙がこぼれた。
それは、この扉から出て行くときに成さねばならぬ、自分の使命のためだった。
……もう少し、あと少し。
もうすぐ、ラグ・ヴァダの女王と、メルーヴァ姫の一行が、やってくる。
王さまが「シャトランジ」をアリーヤと姫に託し、
わたしが「グングニル」をラグ・ヴァダの女王に託したら、用意は整う。
そのとき、わたしは塔から出て行きます。
「白ネズミの王」がつくったシャトランジ。
千年の長きにわたり、塔から睥睨してきた盤上よ。
わたしこそが最後の穂先。
誓いのグングニル。
泣かないで、わたしの仲間たちよ。
誇りなさい、微笑みなさい。
決戦は、アストロスの武神とメルーヴァ姫に託せども、
わたしたちは、大地を掘った。
ちいさなものよと蔑まれたわたしたちが、皆で大きな穴を掘ったのです。
待たせたわね、アンジェ。
もうすぐ、扉は開きます。
未来永劫、わたしとともにあれ。
わたしがよみがえることによってあなたが得るものは、「ZOOの支配者」のみならず、子孫である「アノール族」すべてを動かす位をも持つのです。
あなたの真名は、「白ネズミの女王」。
アノール族、すべての祖。
ラグ・ヴァダの女王に仕えたまいし宰相、アリタヤが妻、シンドラ――。




