280話 バラ色の蝶々 Ⅰ 2
アン・D・リュー。
本名は、アンドレア・F・ボートン。
傭兵出身の歌手で、軍事惑星群では大人気の有名人だった。
「アイアン・ハート」はもともと彼女の曲で、彼女自身が作詞作曲したもの。最初にカバーしたのがミンシィで、彼女がカバーしたことによって爆発的ヒットとなり、軍事惑星群の外にも、曲が知れ渡った。
おかげで、ほかの星では、ミンシィの曲だと思われている。
「アン・D・リュー……」
ルナが名前を復唱した。
「さいきんのひと?」
「いや、ずっと昔だ。もし彼女が生きていたら――?」
セルゲイがすこし考えるような顔をし、エーリヒが、「おそらく七十代にはなっているだろう」と言った。
(生きていたらってことは、もう亡くなっているのかな?)
「軍事惑星群では、ミンシィよりアンのほうが有名だよ」
デレクがいそいそと便乗してきた。そういえば、デレクも軍事惑星群出身なのだった。
「このアルバムは、“バラ色の蝶々”かね」
曲はアイアン・ハートから、次の曲に変わっていた。
「そう! 貸してあげようか」
デレクが奥に引っ込み、店内を流れるアンの声が止んで、すぐにクラシックがかかりはじめた。
デレクは、一枚のCDを持ってテーブルにやってきた。
ルナが受け取った、古びたアルバムのジャケットは、バラに囲まれた、美しい女性のアップ写真だった。
「このひと綺麗!!」
ルナは叫んだ。
「アンは、キレイだよ。ホント」
デレクがうっとりと言った。
ふんわり丸顔を覆うプラチナブロンドに、薄紅色の唇、子犬のような瞳で、口元の小さなほくろが色っぽい。可愛さと色気の中に、意志の強さを伺わせるものがあった。
甘めの顔を引き締めている、キリリとした眉だ。
「このひとのCDってこれだけ?」
ルナは聞いた。
「アンが出したアルバムは、これ一枚なんだ」
デレクが、もったいないという顔をした。
「アンの曲はネットじゃ売っていない。CDは、軍事惑星で売っているけど、ほかの星じゃ絶版になっているから、船内のアンティーク・ショップでこれを見つけたときは、即買ったよ」
ずいぶんな値段だったけど、とデレクは肩を落とした。
ルナはアルバムの曲名を見た。
「アイアン・ハート」に、アルバムタイトルにもなっている「バラ色の蝶々」。ほかに8曲あるだけ。
「すごく綺麗な声なのに、このひともミンシィといっしょで、いっぱい曲を出せなかったんだね……」
ルナが言うと、デレクたちは顔を見合わせた。
「アンは――100曲近く歌を出してるんだ。でも、CD化されたのは、たったこれだけ」
デレクの、もったいないといわんばかりの顔の意味が、ルナにもわかった。
それにしても、亡くなっているなら、たとえばその人の命日などに、あらためてベスト・アルバムが発売されたり、話題になったりすることも多い。
100曲も持ち歌があるなら、もっとCD化されていてもいいはずだ。
「そういうのもないの?」
ルナの疑問に、軍事惑星出身者たちは、だまった。やがて、デレクが、肩をすくめて言った。
「……アンのアルバムは、政治的事情があって、これ以上出ないんだ」
「え?」
「ルナ。君は、バンクスの本を持っているんだろう? 二冊目は読んだ?」
エーリヒの問いに、ルナは首をかしげた。
「二冊目?」
「少年空挺師団事件と、“アンドレア事件”を書いた、二冊目だ」
ルナは思い出した。「バブロスカ ~エリックへの追悼にかえて~」だ。
「……本は二冊とも持ってるけど、ぜんぶ読んでないの」
ルナは正直に言った。とくに二冊目は、空挺師団の事件のくだりを読むのにまだ抵抗があって、読めていない。
「アン・D・リューは、“アンドレア事件”の、アンドレアだよ」
「え?」
「本を読めば、なぜアンがCDを一枚きりしか出せなかったかが、書いてある。持っているなら、ぜひ、読みたまえ」
「……!」
「ルナちゃん、バンクスの本持ってるの? すごいなあ」
軍事惑星の子でもないのに、とデレクは感心したあと、マスターに呼ばれて、テーブルをあとにした。
ルナはCDジャケットを見つめ、ルナに向かって微笑むアンドレアの人生に、思いをはせた。
――アンドレア・F・ボートン。
彼女の出自ははっきりしない。白龍グループ系列の傭兵グループ出身であろうといわれているのは、彼女を終生にわたって後援したのが白龍グループだったからだろう。
彼女の死後、彗星のように現れたミンシィもまた、白龍グループの後援で歌手デビューした。ミンシィも白龍グループの出自だ。そのことからも、やはりアンドレアは白龍グループの傭兵だった、と考えるのが一番真実に近いかもしれない。
アンドレアの本名より、アン・D・リューという芸名のほうが有名だ。
アンは、ミンシィのように、突如音楽界に現れて、その歌声と美貌でわれわれを魅了した。
彼女はL18のアカラ第一軍事学校卒業後、L5系の都会で歌手となるために、資金を貯めていた。
彼女が傭兵の仕事をしていたかどうかは、あいまいだ。わずかな期間、白龍グループに在籍していた記録がある。傭兵としての仕事よりも、歌う仕事のほうが多かったのは確かだが。
L19の、白龍グループが経営するバーで歌うシンガーだった彼女の歌声を聞きつけた音楽会社が、――それは、軍事惑星群のものだが――彼女をひろった。
場末のバーから、一気に、貴族軍人が集まる高級クラブで歌声を披露できるようになった。軍事惑星群では、コンサートも開かれ、連日満員となった。
彼女はすばらしい歌声の持ち主であり、なによりその美貌と愛らしさ、深く甘く、まさに鉄の心臓をもとろかすかのような声音で、だれをも魅了した――傭兵、軍人の隔たりなく。
ファンレターやプレゼントは部屋が埋まるほど届けられたし、将校たちは、彼女を愛人にするために、どれほど骨を折ったかしれない。
彼女は、それだけ魅力的だった。
だが彼女は決して、自身のネームバリューを、恋の相手となった将校たちを、その美貌と名声を、政治のためにつかいたかったわけではない。
彼女の本来の目的は、L55に出て、歌手となること――それは、なかなか叶わなかった。
音楽会社との契約のため、軍事惑星を離れられない。そしておそらくは――彼女の後援であった白龍グループが、彼女がL55に行くことをよく思わなかった。
傭兵出身者でありながら、傭兵だけではなく、将校にも多数のファンを持つ彼女を、手放したくはなかったのかもしれない。
音楽会社も、彼女の歌声で稼ぐために、なかなかCDを出さなかった。
彼女のコンサートは、つねに満員となる。CDがないからだ。彼女の歌を聞くにはコンサートに来るしかない。彼女の歌声は希少性を極めていった。
やっと出たのが、アルバム「バラ色の蝶々」だ。彼女はすでに三十八歳になっていた。
CDは爆発的に売れ、彼女の名を不動のものにした。音楽会社の懸念は不要だった。CDでアンのファンはますます増え、アンの名声は、軍事惑星群全土にひろがった――。
(中略)
名声が最高潮のときに、彼女は歌手活動をやめた。
契約終了と同時に、彼女が選んだ道は、だれをも驚愕させるものだった。
アンは――いきなり、傭兵グループをつくったのである。
「ラ・ヴィ・アン・ローズ」という、まるで彼女の歌の歌詞にでもありそうな名のグループは、傭兵グループとは名ばかりの、戦災孤児となった傭兵の子を養うためのグループだった。
親を戦争で失った傭兵の子どもたちを、立派な傭兵として育て上げる。
そのために、ラ・ヴィ・アン・ローズには、やり手の傭兵が数名いた。
アンは、自身の資産を、子どもたちを養うために費やしたし、ラ・ヴィ・アン・ローズの傭兵たちは、仕事のかたわら、子どもたちを傭兵として育成した。
アンは、親しかった傭兵たちとともに、ラ・ヴィ・アン・ローズのような傭兵グループがもっと増えることを願い、活動した。そして将校を通じて、そのような傭兵の子どもたちの保護施設をつくろうとした。
ラ・ヴィ・アン・ローズの活動を、もっと広範囲に、軍事惑星全土に普及させようとした――。
その夢は、叶うかに思われた。
彼女が四十歳になったある日、ロナウド家から、名誉ある話が持ち込まれた。
ロナウド家の後押しで、将校にならないかという話だった。将校となれば、アンが望む活動を、もっと大勢の協力者を得て、することができる。
傭兵の身で、将校となったものはかつていない。
アンがその先駆者となるのだという説得によって――驚くべきことに、彼女の軍入りを後押しするのは、少数ではなかったのだ――しかし、アンは、断った。
(中略)
アンは辞退したが、彼女を将校に押す申請があったということは、すぐドーソンの耳にも入った。
アンは、将校にもファンが多い有名歌手であった。彼女が軍部に入れば、傭兵の発言権が強くなる恐れがある――傭兵差別主義者にとっては、到底許されることではなかった。
アンは、「第三次バブロスカ革命のユリオンの近親者」という、まるで見当違いの罪で逮捕された。
アンは傭兵である。貴族軍人であるユリオンとは何の関わりもない。だが、彼女は極秘裏に逮捕され、銃殺された。
あっという間のできごとだった。
アンの銃殺刑に、軍事惑星群は騒然とした。一部で抗議の暴動も起きたが、すぐに鎮圧された。――
ルナは、ここまで一気に読みきって、深くため息をついた。
大広間のリビングで、ルナはアンのアルバムをかけながら、「バブロスカ ~エリックへの追悼にかえて~」の、アンドレア事件の部分だけを読んでいた。
空挺師団の事件に多くページを割いているのにくらべ、アンドレア事件は、ほんの数ページだった。
(アンドレアさんは、ドーナツが好きだったのです……)
アンがつくった揚げたてのドーナツが、子どもたちは大好きで、揚げたそばから食べてしまう。
殺伐とした本文の中で、唯一、幸せを感じさせるエピソードだった。
「この本には、ラ・ヴィ・アン・ローズのその後が、書かれてない……」
アンが銃殺刑になって、アンの傭兵グループのメンバーはどうなったのだろうか。いっしょにつかまってしまったのだろうか。子どもたちは、どうなったのだろう。
“愛すべきわたしの子どもたち。今日もいっしょにドーナツを揚げるの”
「虹色ドーナツ」という曲の歌詞だ。
ルナが読んでいるあいだ、アルバムは二回リピートされた。「アイアン・ハート」と「バラ色の蝶々」以外は、哀愁漂うメロディで、アンドレアの波乱万丈な人生にぴったりだった。
「虹色ドーナツ」も、歌詞はほのぼのとしているのに、曲調はさみしい。
(あれ?)
ルナは気づいた。本を読み返す。アンが子どもたちを引き取りはじめたのは、歌手活動をやめてからで、――つまり、傭兵グループをつくってからだ。
「虹色ドーナツ」を歌っていたころは、歌詞のもとになるエピソードは現実化していない。
(これは、アンの夢だったのかな……)
L55に行けなくなってしまったアンの、もうひとつの夢。
(でも、この夢は、実現できたんだ)
ドーナツのエピソードは、一時期、アンの屋敷にいたことがある傭兵の証言だ。アンがつくってくれたドーナツが美味しかったのだと。仲間と奪い合うようにして食べたそれが美味しくて、幸せで、忘れられないと。
アンに、実子はいない。そもそも、彼女はだれとも結婚していない。将校や傭兵、あらゆる政界の大物とも恋をしながら、彼女はついに、結婚することはなかった。
「ラ・ヴィ・アン・ローズ」にも、パートナーはいたらしいが、結婚はしていなかった。
(ルーシー)
ルナはなぜか、ルーシーを思い出した。ルーシーも生涯、実の子を持つことはできなかった。だから、ビアードを実子のように愛したのだ。
(ルーシーは、子どもが欲しかっただろうか)
パーヴェルとの子を? アイザックとアロンゾはともかくとしても、パーヴェルとの子を望みはしなかったのだろうか。
それとも――いつラグ・ヴァダの武神との対決があるか分からなくて、産めなかったのだろうか。
(……)
ルナはめずらしく真剣な顔で考えたが、自分の前世であるはずなのに、ルーシーの気持ちはさっぱりわからなかった。
「これって、アンの曲じゃないかい?」
「あ、おかえりなさい」
レオナとセシルが、買い物から帰ってきた。大広間に流れている曲に、ふたりはすぐ気づいた。
「やっぱりふたりも知ってるんだ」
ルナが言うと、「もちろん!」とレオナがうなずいた。
「どうしたの、アンの曲なんて――ルナちゃん、好きだった?」
セシルが聞いた。ルナは、
「今日、はじめてアンのことを知ったの。さっき、デレクにCDを借りたよ」
「懐かしいなあ……軍事惑星じゃ、よく流れてたよ」
セシルが、ルナからCDケースを受け取って、熱心に見つめた。
「“虹色ドーナツ”とか、好きだな」




