280話 バラ色の蝶々 Ⅰ 1
地球行き宇宙船のカレンダーが、十二月になった。
ルナは、窓の外にしんしんと降る雪を見つめながら、自室で日記帳と向き合っていた。
雪が積もった翌朝、ピエトとネイシャは大はしゃぎでテラスに庭にと駆けまわり――雪まみれで屋敷内に駆け込んできて、レオナにお尻をぴしゃりとやられていた。
その様子を思い出して、もふもふ笑ったウサギは、暖かい床にぺしゃりと座り込み、膝掛けをかけて、ちいさなテーブルに置いた日記帳に、もくもくと書き記す作業をつづけた。
ルナはすっかりイシュメルと分割され、カオスのダブルパンチから、安定のシングルカオスにもどっていた。
十月は、「地獄の審判」で、まるまる一ヶ月、ルナは眠っていたわけで――。
しかし、一ヶ月寝ていたのだと言われても、実感はわかない。ところどころ記憶はあるが、ほとんど覚えていないのだ。
眠りっぱなしの上、ほとんど記憶がないルナとは違って、ミシェルには、あのひとつきはほとんどトラウマだ。彼女は、一ヶ月のあいだ、真砂名神社に行かなかった。
あのときのことをどうしても思い出してしまうと言って。
そんなミシェルが、今日は久々に、絵を描きに行くと言ってでかけていった。
帰ってこないところを見ると、大丈夫だったのだろうか。
ルナは日記帳に向き直った。
ロビンを直接救ったのはイシュメルだが、ノワが現れて、手助けをしていったことを、クラウドから聞いた。
あのLUNA NOVAが、前世のひとつだったとは。
こちらもあまり、実感はないが。
(お酒をいっぱい飲みました)
ほぼ、「中のひと」のせいだが、あれほどお酒が美味しいと思ったことはなかった。
少し前、アンソニーとノワの話をしたことから始まって、ノワの名前がついたワインを飲んだり、ララに、ノワの絵をもらったりした。あれは、ノワが現れることを示唆していたのだろうか。
ララからもらった絵は、ただの月のない星空。大広間に飾られている。
あれは、ノワの姿が描かれているわけではなかったので、ルナは教科書に載っていた、ノワの絵を思い浮かべた。
肩に、大きな黒いタカを乗せているのが特徴の、旅人姿の大柄な男で、横を向いている上に、フードを被っているので、顔は分からない。
(あの黒いタカは、エーリヒだった)
エーリヒをなつかしいと思った理由が判明した。ルナが「ノワ」だった時代、一生をともにした兄弟で、パートナーだったのだ。
(ノワって、けっこう、いいかげんなひとだって、ミシェルがゆってたけど)
自分の前世なのに、ルナだけが、ノワのことを知らない、見ていない。
イシュメルは、このあいだ、しばらく一緒にいたので、どんな人物かすこしは分かったが――。
(のわは、どんなひとだろう?)
ルナはしばらくアホ面で宙を見つめ、考えるのをやめた。
それから、「パズル」という新しい占術のこと。
ZOOカードがあれば、「パズル」はつかえるとの話だったが、相変わらず、ルナがつかおうとしても、うんともすんとも言わなかった。
それでもルナが役に立ったことはある。ノワ目線で見た夢の話を書き留めた。だれも知らない、「第一次バブロスカ革命」のリアルタイム記事だった。
エーリヒとクラウドの目の色が変わったのは言うまでもない。
それから、イシュメルの前世もやっと思い出して、書き記すことができた。
ルナが寝ているあいだに、あまりにもいろいろなことが起こって、いろいろ判明して、いろいろなひとがいなくなってしまった。
カザマがイシュメルを目覚めさせるためにL03に行ってしまったので、ルナたちの担当役員は、ヴィアンカになっている。
ロビンがこっそり降船したことは、アズラエルやクラウド、バーガスも知らなかった。ルナたちが家に帰ってそのことを告げると、みんな驚いていたからだ。
アズラエルは、だいたい予想していたのか、「そうか」と言っただけだったが、バーガスは、「あの野郎、俺たちにも言わずに」としばらく怒っていた。レオナは、「それより、任務からロビンが外れるのは痛手だねえ」と言った。
それぞれ文句はあったものの、メフラー商社の面々は、メフラー親父がいいといったなら反対する理由もないと、あっさりその事実を受け入れた。
十一月は、十月とは対照的に、ずいぶん楽しい日々を過ごした。
新しく担当になった、ヴィアンカに連れて行ってもらったラーメン店は、ミシェルも「マジ通う」と宣言したほどおいしかったし、アズラエルたちともいっしょに行った。
それから、レイチェルたちと旅行に行った。
このお屋敷で、バーベキューの仲間を集めてやったハロウィンパーティーは、本当に楽しかった。
(いい思い出です……)
ルナは日記を書きながら、にへら、と笑った。
ひさしぶりに、今どきの女の子らしい日記をかけたのではないだろうか。
「……」
ルナはウキウキと前のページにもどって――真顔にもどった。
「地獄の審判」の階段のイラストと、みそバターコーンラーメンチャーシュー山盛り(ヴィアンカが、これが美味しいからと勝手に注文した)に、餃子とビール付きで乾杯している三人(ルナ、ミシェル、ヴィアンカ)の写真――が並んでいるのを見て、さっきの言葉を訂正した。
「……これわ、ふつうのおんなのこでない」
ルナはいそいそと、ラーメンの写真を次のページに貼りなおし、「地獄の審判」がある見開きページには、紙を張り直して別のことを書くことにした。
最近は、色鉛筆でイラストなんかも描いて絵日記風にしたりもしているので、今年はあと一ヶ月あるのに、日記帳は残り数ページしかなかった。
ルナは、過剰に胸毛が描きたされた、自作のイシュメルのイラストを見つつ、
(あとで、雑貨屋さんにいってこようかな)
と考えた。
小花柄模様の日記帳は、あとすこしでおしまいだ。
今年は本当にいろいろあったなあ、とルナはアホ面で十分間の停止をはじめ――ぴーん! とうさ耳を立たせ――次の瞬間には、書斎に向かって駆け出していた。
「宇宙船からもらう日記帳かね」
書斎にいたエーリヒに、日記帳を持っていないか尋ねると、エーリヒは自室までもどって探し出してくれた。
エーリヒは最近乗船したばかりなので、もしかしたら日記帳を持っているかもと思ったのだ。ルナの予想は当たりだった。
「そろそろ来年のものが必要なのではないかね。私がもらったのは、今年の日付が入ったものだよ」
「いいのです!」
ルナが言うと、エーリヒは、ワインレッドの革表紙の日記帳をルナにくれた。
「え!? なにこれ――オシャレ!!」
エーリヒから手渡されたそれは、中身こそルナの日記帳と同じだが、装丁はずいぶん豪華だった。
ビニールに包まれている程度だった小花柄の日記帳とは違い、綺麗な包装紙につつまれた箱に入っていて、革の手入れ方法の説明書までついた完璧ぶり。職人がなめした革であり、使い込むほどにすばらしい質感がどうとか――つまり、ずいぶん高級なものだった。
「こういう革を使った手帳が欲しかったのだが」
残念ながら手帳ではなかったとエーリヒは言い、解いた包装紙ごと、ルナに差し出した。
「もらっていいの」
「かまわんよ」
「ありがとう!」
ルナは大喜びで受け取り、自室に戻りかけたが、そのまん丸い背を、エーリヒの声が追った。
「ルナ! ヒマなら、マタドール・カフェでミルクセーキでも飲まんかね!」
「いいよ!」
ちいさくなったルナの叫び声が聞こえた。
「ハロウィンが終わったら、つぎはクリスマスか。せわしないものだな」
マタドール・カフェの店内が、すっかりクリスマス色とサンタとトナカイの群れに変貌しているのを見て、エーリヒは肩をすくめた。
「まさか、またこのあいだのようなバカ騒ぎを?」
エーリヒがはっとしてルナに聞いたが、セルゲイは笑った。
「君もなかなか楽しんでいたじゃないか」
「うん。エーリヒの吸血鬼はほんものぽくて怖かったでした」
「ひどいな」
屋敷にはセルゲイも残っていたので、三人でマタドール・カフェに来た。
先日のハロウィンパーティーで、エーリヒはミシェルによって無理やり吸血鬼化されたが、絵本に出てくるような吸血鬼がそのままできあがってしまい、リアルすぎて大人たちにはからかわれ、ジュリと子どもたちには嫌われた。
「オルティスさんとバーガスさんがフランケンシュタインだったのに……オルティスさん、来れなくて残念でした」
バーガスのフランケンシュタインは、それは見事にフランケンだったが、もうひとりの完璧なフランケンになるはずだったオルティスは、今回は来られなかった。ミシェルはオルティスの分も仮装用の衣装を用意していたのに。
「クリスマスにはこられるかな?」
ルナは聞いたが、セルゲイは言った。
「クリスマスなんて、もっと来られないんじゃないかな? 店は稼ぎどきだよ」
今年は、グレンがクリスマス中に、ラガーのバイトを入れた。最近、グレンはルシアンの警備員バイトに加え、ラガーにも手伝いに行くことが多くなった。
ラガーの店長は、昼夜関係なく店を開けているし、子どもができたために、ますます手が足りなくなった。さすがにバイトのひとりも入れねば、やっていけなくなったのだ。
ヴィアンカも、カザマがもどるための数ヶ月とはいえ、現場に復帰してしまったので、ラガーの店長が、赤ん坊を背負いながら店に出ていることもある。
顔なじみは、そんな姿を茶化していくのが日課となっていた。
セルゲイは思い出したように、
「クリスマスか……そういえば、クリスマス前後は」
「E353に到着するよ、っと。お待たせしました」
デレクが、カフェ・ラテと、ショコラを運んできた。
「そう、E353に到着だ」
エーリヒも、手帳がわりの携帯をチェックしながら言った。
「E353です」
ルナは大好きなショコラを受け取ってご満悦だ。オレンジピールと生クリーム、少しのリキュールと香辛料が入った、マタドール・カフェの特製ショコラである。
ルナがオススメしたので、エーリヒも同じものを。セルゲイは、甘くないカフェ・ラテである。
エーリヒは、とてつもなく甘いショコラを満足げにすすり、「この冬は、こいつだな」と、冬季間お世話になる飲み物をさだめた。
「そういえば」
エーリヒは言った。
「任務とはいえ、アズラエルのご両親がE353に到着するのだ。ルナもあいさつに行くのだろう?」
ルナは「もふっ!」とへんな声を出して噎せた。
「……そうなのです」
ルナは、微妙に緊張していた。アズラエルは、「俺の親はだいじょうぶだ。問題は、どう考えてもおまえの親だろ」と、自分のほうに関してはなんの心配もしていないようだったが、ルナは心配しないわけにはいかなかった。
(いよいよ――アズのご両親にごあいさつです!)
ルナが、もふ、とショコラのカップに口をつけたまま停止したところで、店内の音楽が、切り替わった。
いつもは、店で流れている曲の変わり目など気にしていないが、流れはじめた曲がルナの知っている曲だったので、うさ耳が立ったのだ。
「あれ? これ、アイアン・ハート?」
昔、L系惑星群全土で流行った歌。ヒットチャートの一位を何ヶ月も独占し、いたるところでこの曲はかかっていた。
曲調も歌詞も単純な恋の歌だが、ルナも口ずさめるほど、メジャーな曲だった。
“あなたの鉄の心臓をとろかすのは、わたしだけ”
ルナのうさ耳が立ったのは、歌手の声が、聞き覚えのない声だったからだ。
「ミンシィじゃないよ? なんか、声が違う?」
声も違えば、曲調も違っていた。ルナが知っているのは、ミンシィという歌手が歌った、リズム&ブルースと呼ばれる曲のジャンルで、いま流れているのは、シャンソンに近かった。
声も、ミンシィの、透明で清涼感のある声より、ぐっと低音で、色っぽい。
ふだんマタドール・カフェで流れている、ボサノヴァやジャズに交じって流れていても、あまり違和感のない曲調だ。
「だれか、カバーしたのかな」
「アイアン・ハート」をカバーしている歌手は山ほどいる。ミンシィは音楽番組にもネットにも姿が出ないので、バーチャル・アイドルというウワサだった。現に、「アイアン・ハート」一曲きりで、そのあとはなにも出さず、姿を消してしまった。
「これは元祖だよ、ルナ。アンの声だ」
「え?」
「あ、そっか、ルナちゃんは、アンを知らないんだ」
「セルゲイ、君がアンを知っていることのほうが、私は驚きなのだが」
「私は、一応、青春時代を軍事惑星群で過ごしているんだけど……」
「だって、アンは君の時代にはもういないだろう」
「君だってそうだろ? 軍事惑星群で生活していて、アンを知らないっていうのは、かなりのモグリなんじゃないかな……昔のひとではあったけど、私の同級生にも、ファンはたくさんいたよ」
「そうかね」
ふたりの話によると、軍事惑星群でアンを知らない奴はよほどのモグリで、逆に軍事惑星群以外のひとでアンを知っているのは、よほどシャンソンやジャズ好きの人間でなければいないだろうという話だった。




