34話 ルナ Ⅲ
ルナは、表紙を閉じた。
「いやあ、留守にしていてすまんね」
店主がもどってきた。
「おや、ルナちゃんか。きのうは悪かったね」
「ううん」
ルナはすかさず本を突き出した。
「これをください!」
悲劇の女性アランに、少年空挺団の少年、アンドレア――。
おにいちゃんは、空挺師団にいたのだろうか。
そして、バブロスカ革命。
この本は、第三次バブロスカ革命の本。
第三次と言うことは、一と二もあったということだ。
ルナは本を抱え、足早に、椿の宿までもどった。
(おにいちゃん)
ルナは、自分の両親のことをまるで知らないことに、唐突に気づいた。
ルナはL77で生まれ、L77で育った。それはたしかだ。
ルナには十一歳年上のお兄ちゃんがいたそうだ。いたそうだ、というのは、ルナはそのおにいちゃんとやらを見たことがないからだ。写真ですらも。
事故でなくなった、というのはリンファンの母、つまりおばあちゃんから聞いた。
そういえば、親戚らしい人々も、近くには住んでいなかった。
ルナの母の両親、祖母や祖父はまだ健在だったが、生まれてこの方、三回ほどしかあったことがない。ルナの両親にもきょうだいはいるそうだが、そちらも会ったことがない。叔父叔母、むろん、いとことやらにも。
ルナは、L74に住むリンファンの父母には会ったことはあるが、父ドローレスのほうの家族には会ったことがない。父の実家がどこにあるのかも知らなかった。
そしておそらく、母リンファンの実家も、L74でないことだけは、わかっていた。
滅多に会えないともなれば、おじいちゃんおばあちゃんはルナに優しかったし、何でも買ってくれた。ルナは母方の祖父母が大好きだったし、両親と祖父母の仲が悪いわけでもなさそうだったのに、なぜ三回ほどしか会った記憶がないのだろう。
祖父母はL74の田舎でちいさな定食屋をやっている。彼らは忙しいから、というのが母の言い訳だったが、それでも、ルナたちが来ればいつも歓迎してくれた。
それなのに、なぜだったのだろう。
よく考えれば、家族はあまりにあいまいなところが多かった。
一度だけ、兄のことを母リンファンに尋ねたら、彼女は号泣した。
それ以降、ルナは兄のことをだれにも聞けずにいた。事故で死んだと言うけれど、きっと、母のキズは治っていないんだ、と思ったら聞けなかった。
父親にも聞けなかった。
両親の結婚式の写真もない。ルナが生まれるまえに、L77に引っ越してきたというのは知っていたが、その前にどこにいたのかは分からない。
そういう話を、極力、両親は避けているような気がした。
父ドローレスは、大きなデパートで服飾の部署の部長で、ふつうのサラリーマンだ。ルナとは似ていない。プラチナブロンドで、背が高く、授業参観に一回きてくれたときは、かっこいいと女子のあいだで評判になったことがある。無口なほうだが、ルナには優しくて、甘いほうだと思う。
亡くなったというお兄ちゃんは、父親に似ていたという。だからルナは、見たことがないお兄ちゃんを、父の顔で想像していた。
ルナは、母リンファンに似ているとよく言われた。母もふつうの母である。近所のお弁当屋さんでパートをしている。ケーキが好きで、「また太っちゃった」が口グセのわりに、いつも食べすぎる、ふつうのおばさんだ。
どこからどうみても平々凡々の両親だった。
(傭兵、だったなんて)
――でも、両親は、すごく「普通」にこだわるところがあった。
目立つのを、ものすごく嫌った。今から思えば、それは目立たないように、平凡に見えるように、という気持ちの表れだったのか。L77の生活に馴染めるよう、懸命に努力しているような。
ルナが、今回地球に行きたいと言ったとき、母がすごく気にしていたことがある。そのときは深く考えなかった。両親はもともと、とても過保護だったから。
「だって、その宇宙船って、いろんなところからいろんなひとが乗ってくるんでしょう?
なんだか危ないじゃない。――ほら、軍事惑星からもくるんでしょう? 軍人なんて、怖いじゃない、ねえ?」
父親はむすっとしたまま、「ちょっと考えさせてくれ」と言った。
ルナは、この反応は当然のこととして受け止めていた。過保護な両親のことだ。地球行きも反対されるだろうなとは踏んでいた。
ふたりを説得してくれたのは、ツキヨおばあちゃんだった。ツキヨおばあちゃんは地球行き宇宙船のことにくわしく、ふたりの質問にはなんでも答えた。
宇宙船が、L5系以上に警備に厳しく、危ないことは起こらない。軍事惑星出身者とルナたちの住む区画は離れていて、よほどのことがなければ会うことはない。ルナたちが住む区画は、ルナたちと同い年くらいの人たちで固められる。
すぐ帰ることもできる。しかも、役員がちゃんと一緒に来て、自宅まで送ってくれる。
それに納得して、最終的に両親は承諾してくれたのだ。
出発する日になったら案外あっさりしたもので、「いってらっしゃい」だけで送ってくれた。
一応まめにメールは送っていた。返事もろくになかったけれど。
「元気だったらいいのよ」と。
あんまりあっさりしすぎていて、拍子抜けしたのは覚えている。
(パパは)
ルナはふと思った。
(パパが食べ物に困ったのって、軍事惑星から逃げてくるときだったのだろうか)
ルナはもう一度来るといったアンジェリカを待ったが、アンジェリカもアントニオも、訪れなかった。
アンジェリカとの約束では、もう一泊していくことになっている。最終日の宿泊費はアンジェリカが出してくれたので、帰るわけにもいかず、ルナはそのまま読書と決め込んだ。
半日かけてバブロスカの本をすっかり読みきってしまったあと、最終的に「ムキャー!」と絶叫して、バッグの中にしまいこんだ。
ルナは気分転換に、散歩に出かけた。
(アズは、あたしのパパとママが傭兵だって知ったら、びっくりするかな)
そもそも、こんな話をしたところで、信じてくれるだろうか。
自分自身も、まだ半信半疑なのに――。
ルナはマフラーに首を埋めたまま、もふもふと口を動かし、盛大なくしゃみをした。
そして携帯電話を見た。
ミシェルやレイチェルからは毎日のようにメールがくるが、アズラエルからは電話もメールもなかった。
(アズ……)
その夜の夢は、時の館からはじまるものではなかった。
めのまえに、ドアもなかった。
ルナは、アパートの廊下にいた。
(あれ? ここは)
……L18の、アズラエルたちが住んでいた、赤いアンティークのアパートだ。
廊下はひどく静まり返っている。妙に錆びついた感じがするのはなぜだろう。
それもそのはず――アパートには、だれも住んでいなかった。どの部屋にも、どこにも、だれもいない。ドアが開けっぱなしで、ゴミが廊下に散乱していた。ぬるい風が吹き抜けていき、カラッポのビール缶が音を立てて転がっていく。
ルナは、ひとつのドアのまえで止まった。
十五号室。アズラエルの家族が住んでいた部屋だ。
「もう、だれも住んでいないね」
声がした。来た方を見ると、セルゲイがいた。スーツ姿だ。まるで、先日見た夢のプラネタリウムからワープしてきたみたいだった。
「さびれているけど、そのうちここにはアダムさんたちが入る。アダム・ファミリーの正式なアジトとして、つかわれるんだ」
セルゲイは、なにもかもを分かっているような言い方をした。
「開けてみよう」
十五号室のドアを開けると、そこは覚えのある部屋だった。だが、アズラエルたちの部屋ではない。
海が見える位置に建てられた高級マンションの七階。カアン、カアン、と工事の音が聞こえる。
「なつかしいでしょ」
セルゲイが微笑んだ。
――そうだ。
ここは、ルナが“ルーシー”だったころに建てた物件。地球行き宇宙船の――K19区。ガソリンスタンドの裏のマンション。
当時、あまりに多忙で、どこにも逃げ場のなかった彼女の、ジェットコースターのような生を駆け抜けたルーシーの、たったひとつの安らぎの場所だった。
“ルーシー”は、ルナの前世のひとつだ。
セルゲイは、ドアを閉めた。
「ルナ、あたらしい生がはじまったんだよ」
「――え?」
「ルナ?」
懐かしい声がした。セルゲイに手を引かれ、ルナは歩いてくる男を見て、声をあげかけた。
……アズ!
「ルナ」
軍服姿のグレンが、うしろから歩いてきていた。
「グレン」
ルナは名を呼んだ。グレンは優しい笑みを浮かべた。
「おまえのなかでは、もう決まってるんだろ?」
彼は、表情と同じ優しい口調で言った。ルナはグレンを見、それからアズラエルを見――セルゲイを見た。
セルゲイは、つらそうな顔をしていた。
「セルゲイ、終わったはずなんだ」
グレンがしずかに言った。アズラエルは黙って、セルゲイを見ていた。
セルゲイは、ルナの肩を抱いたまま、放そうとしなかった。そして、アズラエルに向かって言った。
「君は、また同じ間違いを犯すつもりか?」
「それはおまえも一緒だ」
アズラエルが苦しげに言った。
「俺たちは同じだ。くりかえしてきた。だが、もう終わった」
ルナを開放しろ。
アズラエルは言った。
「おまえは兄でありながら、俺をルナに焚きつけた。まだ分からないのか、ルナを海に失っても。俺に殺されても、何度も。おまえは間違いを繰り返すのか。ルナを閉じ込め、手元に置いて、苦しめるのか。ルナも、……自分をもだ」
……兄?
……海?
なにを言ってるの。
海なんて、しらない。
「私はただ、ルナを守ろうとしただけだ。妹を、“兄”として――」
セルゲイは、ルナに優しく微笑んだ。
「おまえは、どこかに行きたいの?」
ルナは、分からないように首をかしげた。
「私から、離れたいの?」
そうじゃない。
ルナは思った。でも、どういっていいか、分からない。
離れたいわけじゃなかった。
ただ、――ふたりきりは寂しかっただけだ。
セルゲイは、困り顔で微笑んだが、「そうか」と言った。
「もう大丈夫なんだね、おまえは。アズラエルもグレンも、怖くない。寂しかったのは、私なのかもしれないね。――おまえがいなくなることが、いつでも不安だった」
ルナの手を、セルゲイは離した。
――百三十年前、“アレクセイ”が、“ロメリア”の手を、離したように。
そうして、そのときに、“アシュエル”は、ロメリアを守って死んだ。アズラエルははじめてルナより先に死ぬことができた。アズラエルはもう、ルナをその手にかけることも、死を見つめるだけだということもなくなった。
“グレン”も解放された。
グレンはもはや、父とその一族に縛られることはなくなった。
呪いは、解けたのだ。
「うさちゃん」
導きの子ウサギが、人間の姿をしてルナのめのまえにいた。ルナの道案内をしてきた子ども。いつかまた、出会う子ども。きっとそのうち、出会う子ども。
「いまに、それがわかるよ」
導きの子ウサギは、そう言って微笑んだ。
その声に呼応するように、セルゲイも、ルナの背を押した。
「……行きなさい、ルナ」
ルナは走った。
なぜか、足に羽が生えたように身軽だった。
いや、足ではなくて、ほんとうに羽が生えていたのだった。七色の鳥の羽みたいな耳が付いたウサギ。見たことのない形だ。そんなウサギが、ルナと並走するように駆けていて、いつしかルナを追い越し、かなたに消えていった。
ルナは走った――ウサギの背を追うように。
アパートの廊下を走り、なぜか突きあたりだったはずの壁にあった階段を下る。階段の下は、草原が広がっていた。
大きなお城。その塔のてっぺんから、羽ばたくようにこちらに飛んでくるお姫様。
ルナは受け止めようとしたが、彼女は微笑んで、透明になって消えた。
たくさんの人とすれ違った気がした。
ラクダと一緒に砂漠にたたずむ少年、病弱そうに見える貴婦人、子どもっぽいしぐさのお姫様、不思議な衣装を着た、大柄な男の人――黒いボアのスリッパをはいた、女の子。
草原から、街並みへ。砂漠へ、そしてお城に、大きな館。
いつのまにか、黒いタカを肩に乗せた男の人が、ルナと並走していた。彼の顔は、フードに隠れて見えない。
彼はルナの前を横切って、どこかへ消えた。
ガソリンスタンドのある田舎町を抜け、絵を描いている美しい女の人の横を通り過ぎた。
新たな街並み。とてもにぎやかだ。
小さなレストランの窓から、少年が手を振っていた。
古い街並みを抜け、煉瓦の道をひた走りに走ると海が見えてきた。
灯台。
――この海。
ルナは知っていた。
目の前の海は、確かに青だった。碧がかった、鮮やかな青。それはグラデーションによって地平線の彼方は群青、間近に打ち寄せる水は濃く深く、下が見えない。たまにこんな荘厳な光景に目を奪われることがある。岩肌に打ち寄せる波は白いしぶきだ。浅い個所では散らばった石が見える。
遊ぶには不向きな海。この海は砂浜がながくつらなる海水浴用の海ではない。周りはわずかな砂浜はあっても岩場ばかり。高低差が激しく、底が見えないほどの深さが間近にある。
弟のような幼い子どもにも、また自分にとっても危険な海だった。美しいばかりではない。
美しいばかりではない。
――ルナ!
アズラエルの声がした。
――頼む、俺が悪かった! 俺が……!
お願いだ、もどってきてくれ!
――姉さん……!!
ルナ!! どうして……!
グレンの声も聞こえた。
俺と結婚するのがそんなに嫌だったのか、そんなにこの弟が良かったのか!?
……そうじゃない。ルナは思った。
この海に飛び込んだのはだれだ。
最初に飛び込んだのは、セルゲイだった。
――-愛してるよ、ルナ。私の妹。
ルナは、海めがけてまっすぐに飛び込んだ。
深い海。息は苦しくなかった、まるで、息ができる宇宙だ。
ルナは、水から上がった。
太陽が上がっていた。
ルナの周りから水が引いていく。
ルナの立っているところは砂浜だった。
季節は移り変わる、時代も移り変わる、過去の出来事。
はるかな昔、前世の出来事。
あれは、地球の海か。
美しいばかりではない、美しいはずだった、本当は美しいはずだった海は。
海は。
ルナのめのまえを、たくさんの海が、よぎっていった。同じ海に見えたが、どれもちがうのだった。
夕焼け色、朝やけ色、台風の海、雪空の海、――常夏の海。
――楽園の島。
ふたりの青年と、頑丈そうな壮年の男が見えた。
船を修理している。
そのうちの、褐色の肌の青年と目が合い、ルナは微笑んだ。
景色は、あっという間に消えた。
緑碧の海、群青の海。
目の前の海は、確かに青だった。碧がかった、鮮やかな青。それはグラデーションによって地平線の彼方は群青、間近に打ち寄せる水は浅く、遠くに地平線が見える、夕日が沈む姿は美しかった。
たまにこんな荘厳な光景に目を奪われることがある。寄せては返す波を、兄や弟、婚約者と何度追ったかしれない。遊ぶには絶好な海。この海は砂浜が長くつらなる海水浴用の海。
――みんなで、よく貝や蟹をつかまえた。
「ルナ、暑いから中に入れ」
グレンの声がした。
「ルナ。そっち行っちゃ危ないよ」
セルゲイの声がした。
アズラエルがそっと、白い貝殻を手にのせてくれる。
「暑いから、皆のところにもどろう、……姉さん」
――暑い、夏だ。
台風が来る、あつい、夏。
――ねえ。みんなで、地球の海にかえろ?
ルナは、目覚めた。
涙が、つぎからつぎへとあふれてくるのだった。
(あれは)
地球行き宇宙船に乗ってから見続けているあの夢は、前世の夢だったのだ。
ルナと、アズラエルと、グレンと、セルゲイを取り巻く悲しい宿命。
太古から続く、四人の、輪廻転生の物語。
――はじまりの、物語は。
はじまりは、地球だった。




