274話 羽ばたきたい椋鳥 Ⅱ 3
九庵が悲痛な顔で階段を降りきったそのとき、エミリは同じ顔で、ついに覚悟をした。
そして、まっすぐに、階段に走っていく。
それを止めたのはミシェルだった。両手を広げて、エミリの行く先を塞いだ。
「どいて、ミシェル!」
「ダメ!」
エミリはミシェルを跳ね除けて先へ行こうとしたが、今度はアズラエルに二の腕をつかみ締められて、止められた。
「ダメだ。――おまえはダメだ」
アズラエルは断固として言った。
「おまえがバーガスと同じような目に遭えば、ロビンはもっと自分を責める」
「――!」
「ロビンは、必死で上がろうとしてる。決意を鈍らせるな」
「……!!」
エミリは、泣き崩れた。
ロビンは、這い上がろうとしている。すべての力をつかって、這い上がろうとしている。
すでに、百八段ある階段の、八十段目を超えた。
もう力は尽きているはずだった。不死鳥の手助けがなければ。
ロビンの頭にあるのは、もはや、階段を上がることだけだ。
また、椋鳥たちが飛び立つ。
階段は、真っ黒な死がいで埋もれていった。
「あんた、――あんた、しっかりおし」
ケヴィンは、重いまぶたを開けた。
身体がひどく重い。息は熱いし、頭がひどく痛かった。
「死ななくてよかったよ。あんなところで雪に埋もれているのを見たときは、どうなることかと」
ケヴィンの顔を覗き込んでいるのは、見知らぬ顔だった。その中に、ひとりだけ知っている顔があった。マクタバの祖母だ。
「お――おれ」
ケヴィンが寝かされているのは、宿泊所として提供されたゲルだった。
「イシュメル様の石室のまえで、遭難しかけたんだよ! まるで雪だるまだった」
「このひとたちが、連れてきてくれたんだよ」
「あ、ありがとう、ございます」
ケヴィンは、見知らぬ二人の若者に礼を言った。彼らがケヴィンを発見し、ここまで運んでくれたのか。
ケヴィンはどうやら、イシュメルの石室の前で泣き伏し、そのまま気絶してしまったらしい。
「ずっと眠っていたけど、ようやく目が覚めたね。でもまだ熱があるから、寝ておいで」
マクタバの祖母の言葉にうなずき――はっと、ケヴィンは、枕もとの腕時計を見た。
「あ――あと一日――」
ケヴィンは蒼白になった。地球行き宇宙船内の時間に合わせた時計が、あと一日しかないと告げている。
ケヴィンが寝ている間に、リミットを迎えていた。
(おれは――なんて、バカなんだ!)
またもやあふれてきそうになった涙を必死で抑え、枯れた喉で、「マクタバさんの――その、パズルのほうはどうなんでしょうか!?」と聞いた。
マクタバの祖母は、ケヴィンに白湯を差し出し、言った。
「リカバリっていうのはねえ、わたしもくわしいことは分からないんだが、滅多にあるものじゃないらしいんだよ。だから、マクタバははじめてさね」
「――!」
「だいぶ手こずっているようだね。リハビリってやつは、一時間かそこらで済むんだが」
ケヴィンは、飛び起きて、ありったけ、自分の服を着こんだ。
「あんた! そんな体で外へ出ちゃダメだ!」
老婆は止めたが、ケヴィンは猛吹雪の中を外へ出た。ゲルの外は、横殴りに吹き付ける吹雪で何も見えなかった。ホワイトアウトだ。三十センチ以上も積もった雪が、ケヴィンの足を一気に膝上まで隠した。
(イシュメルさま――)
カーダマーヴァを埋め尽くす深い雪は、まるで積もり積もったイシュメルの後悔のようだ。
ケヴィンは、慣れない雪道を、一歩、一歩と進んだ。頭が割れそうに痛み、視界も揺らいで倒れそうだったが、行かねばならなかった。
イシュメルの、石室へ。
目を開けていられないほどの猛吹雪に、数歩も進めなかった。あっというまに、自分がどこにいるか、分からなくなった。ケヴィンが立ち尽くしたとき、ふっと向かい風が止んだ。
「こんな雪、経験したことないでしょ」
ゲルにいた若者が、ケヴィンの前に立って、風よけになってくれていた。
「イシュメル様の石室に行くんだよね?」
もうひとりが、ケヴィンの後ろにいた。
「う――うん」
「俺が足跡をつけたところを進んできて」
まえの男の子が、ケヴィンに大判のストールをかぶせて言った。
「俺たち、エポスとビブリオテカっていうんだ」
「俺がエポスで、弟がビブリオテカ」
ケヴィンは目を見張った。前にいる兄がエポスで、うしろにいる弟がビブリオテカ。
「俺たちも、イシュメル様には出てきてほしい。だから、協力させて」
石室は、すっかり雪で埋まっていると思っていた。
だが、石室はすっかり雪が寄せられて、たくさんのひとが集まっていた。カーダマーヴァの若者たちが勢ぞろいで、石室の前の雪をせっせとどかしていた。
「君が、イシュメル様の石室のまえで倒れていたのを見て、みんなが立ち上がったんだ」
「え?」
「よそから来た人が、凍え死にしそうになるほど、祈りを捧げているっていうのに、俺たちときたら――って」
ケヴィンは詰まってしまった。特に祈りをささげたわけではなかった。ケヴィンはただ、悲しみをぶつけてしまっただけだった。
「おお! エポス殿!」
雪かき隊を指示していた、ひげもじゃの壮年男が寄ってきた。よく見れば、若者だけではない。壮年の者も多くいた。
「どうだ、お具合は」
ケヴィンは、エポスが自分の名であったことを思い出した。
「なんとか……」
「なんとか、じゃないよ。まだ高い熱がある。俺たちも頑張るから、無茶しないで」
もうひとりのエポスが言った。
「だいぶ雪をよけたよ!」
石室の階段下から、声がした。階段は、すっかり雪がなくなっていた。
「よし、じゃあ、みんなで力を合わせて、扉を開けるぞ!」
石室の取っ手に、ロープを巻き付け、みんなで引っ張ることにした。
「お、おれもやる」
ケヴィンも参加した。
「せーので、引くぞ!」
「せーの!!」
大きな石の扉は、若者が数十人集まってロープを引いても、びくともしない。
それでもケヴィンたちは、一生懸命ロープを引き続けた。
「せーの! イシュメルさま! 出てきてください!」
「よいしょ! 俺たちは、あなたとともに過ごしたいんです!」
「せーのっ! イシュメル様―っ!」
吹雪の中、ぽつり、ぽつりと人が集まってきた。
地球行き宇宙船でも、最後の一日を迎えていた。
あれだけいた椋鳥たちは、もはや真砂名神社の屋根を覆うだけに減っていた。
寿命塔が、「1」をカウントしたときから、だれも紅葉庵に引っ込まなくなった。
エミリとミシェルは、坂道を上がり、拝殿まえの寿命塔に寄り添い、ロビンを待った。
もう、いかづちの音に怯えることも、太陽の火がロビンを焼き尽くすことからも、目をそらしはしなかった。
ロビンは、目を凝らせば、肩が呼吸に動いているのが分かるが、さっきから動かない。
鬼たちも、じっと様子を伺っているだけだ。
ルナの桃の香りは、ますます強くなっている。
クラウドは、周囲が急に明るくなった気がした。
目の錯覚ではない。
一瞬走った強い閃光に、紅葉庵で居眠りをしていたナキジンも、ルナのそばにいたエーリヒも、目覚めた。
「これは」
階段と拝殿に、宇宙から銀白色の光が降りている。それらはルナとロビンの位置だけ、目がチカチカするようなまばゆさだった。
「ロビン・D・ヴァスカビル、ルナ・D・バーントシェント、“リカバリ”完了。――“リハビリ”開始」
拝殿にいるエーリヒたちは、むせかえるように強くなった桃の香りとともに、ルナの声を聞いた。




