268話 地獄の審判 Ⅰ 2
階段側面の坂道を上がろうとすると、再び、「いかづちの試練」がはじまった。耳をふさぎたくなるようなロビンの悲鳴が、大路に響く。
「ちくしょう!」
「アズ!」
反射的にアズラエルが階段に踏み込みかけたが、透明な壁に阻まれているように、先には行けなかった。
「なんだこれは!?」
アズラエルは見えない壁を拳で打ち付けた。アズラエルの拳が当たるところが、虹色の円を描いて輝くが、中には――階段内には一歩も入れない。
「おまえさんは入れん」
「なんだと!?」
「あとで、いろいろ説明しとかにゃならんが、いま階段は、夜の神と太陽の神のテリトリーになっとる。だから、だれも入れんのじゃ」
「……!」
「これは、ロビンに課された試練なんじゃ。ほかの人間は、よほどのことがないと入れん」
「助けることもできねえのか……」
アズラエルが悔しげに壁に拳を打ち付け、「ロビン!」と叫んだ。
その声に答えたのか、ロビンは焦げた右腕を軸にして、ぐぐっと身体を持ち上げた。
「かは……っ、たしかに……アクロバティック・コースだな……」
「おい! 諦めるんじゃねえぞ! なんとかしてやるからな!」
アズラエルの顔つきは、悲壮に満ちている。アズラエルにとっても、この展開は予想外だということを、如実に示していた。
彼らの大ケガは、このいかづちと猛火のせいではなかったのか。
階段を上がり切ってみなければ、詳しいことは聞けないが――今は、聞く余裕もないが、どうやら、これを意図していたのではないらしい。
(なるほど。俺は特別扱いか)
ナキジンが言っていたように、特別難儀なアクロバティック・コースらしい。
「――おい、アズラエル」
ロビンは、枯れた声で言った。
「俺を舐めるなよ――上がれっていうんなら、上がり切ってやるさ」
「――!!」
「……おまえが悪いわけじゃねえ」
この階段に、踏み込んだのは俺だ。
ロビンの言葉に、アズラエルの顔が歪んだ。
「ぜったい、助ける」
「はいはい――期待せずに、待って――」
ロビンの言葉は最後まで聞けなかった。太陽の炎が、ふたたびおそろしい火勢で階段を舐めていった。アズラエルですら、言葉を失う光景だった。
ルナに見せないように、グレンが抱きしめて覆っていたが、アズラエルは文句を言う気にもなれなかった。
黒焦げになったロビンを覆った煤が、風に吹きさらされるようにして消え、中から、傷だらけの身体があらわれる。
「……っぐ」
ロビンのまとう苦しみは、想像を絶しているはずだった。
「待ってろ! なんとかして助けてやる!」
アズラエルは叫び、坂道を駆け上がった。
階段上の真砂名神社まで着くと、砂時計の周囲は人でごった返していた。
「ルナ!」
イシュマールが、ルナを見て仰天した。
「おまえさんは帰んなさい! だいじょうぶだったんか、アレを見て!」
ルナは目にいっぱい涙をためていたが、
「あたしも、あたしのうさこも、なにか、できる、かも、しれないから……っ!」
涙をぬぐいながらルナは言った。
「ほうか、ほうか。――でも、無理はしちゃいかん」
イシュマールは、ルナの顔つきを見て、それ以上は言わなかった。
「砂時計に腕が入らんとは、どういうことじゃ!」
ナキジンが叫んでいる。たしかに、砂時計が皆の腕をことごとく弾いているのだった。
袖をまくり、素手を砂時計にまっすぐに突き出すと、先ほどアズラエルを見えない壁が拒絶したように、円形の虹模様がきらめいて、拳をはじく。
「だれがやってもこんな感じなの」
二十年前、「地獄の審判」があったときに、三年ばかり寿命を分けたという、二十歳くらいの女の子は言った。
「まえは、するって入ったのよ? 砂時計の中に、腕がこう、するーって」
「俺が百十年前に、五年分わけたときも、すっと入った」
三十代後半くらいにしか見えない、体格のいい男性も不思議そうに首をかしげた。
「いったい、どうしたっていうんだ――」
「ぷぎゃっ!!」
皆が寿命塔を見上げていると、間抜けな悲鳴があがった。
「今度はなんじゃ!」
ナキジンが怒鳴る。
「――ルナ?」
アズラエルが、ルナの姿がないことに気付いた。
ルナの悲鳴とともに、その身体が消えた。
「ルナ!?」
グレンも蒼白になった。
「おいルナ! どこだ、どこに行った!」
グレンの悲鳴のような声。
「おい――あそこ!」
「なんだ――ありゃ――」
アズラエルたちは、声に導かれるように、背後を振り返った。
――そこには。
石造りの椅子に座り、どこから出て来たのかわからない鎖に、四方八方から、がんじがらめにされているルナがいた。
「ルナ!」
アズラエルもグレンも、転びそうな勢いで駆け寄った。
「ふぎ……」
「ルナ! おい、だいじょうぶか!?」
「ふぎ……?」
「な、なんじゃ、こりゃあ――」
ナキジンは、空中から現れて、ルナを十重二十重に巻き付けている鎖を見つめた。鎖は通常のものより、ずいぶん太く頑丈で、錆びて赤茶けていた。
イシュマールも、口をぽっかりあけたまま、絶句だ。
ルナは、身体中を鎖でぐるぐる巻きにされているだけでなく、目も、古びた包帯でおおわれている。
「ルナ! なんだこの鎖――解けねえ!」
「くそっ!! ペンチ持ってきてくれ! なんでもいい! こいつを壊せるものを」
アズラエルとグレンが、鎖をほどいてルナを救出しようとするが、空中から現れた鎖は、ビンと張られたまま、まるで動かないのだった。たわみもしない。
「ルナ! だいじょうぶか? 苦しくは――」
「う、うん――くるしくない――」
ルナはやっと言った。
いきなり、だれかに引っ張られたかと思ったら、ルナは椅子に座っていたのだった。
目も、布のようなもので覆われている。まったく見えないと言っていい。だが、ひとの声は聞こえる。
なにかが身体に巻き付いて、椅子の上からは動けないが、締めつけられているわけでもないし、苦しさはない。
(つめたい? ――つめたくて、寒いような気もする)
ルナはなんだか、ちいさな光の差し込む、石でできた部屋にいるような気がした。
ずっとずっと、長い間、そこで座っていたような――。
「あじゅ? あじゅもグレンもそこにいる?」
「あ、ああ! いるぞ、ここに!」
ふたりは叫んだ。
「ここ――どこ? あたし、石のお部屋にいる?」
「石の部屋?」
イシュマールが怪訝な顔で言った。
「おじーちゃんもいる? あれ? あたし、どこにいるの?」
「おまえさんは、今、真砂名神社のまえにおるよ」
イシュマールが言い、アズラエルが、膝に置かれたルナの手をにぎった。自分がそばにいることを確認させるように。
「おまえは、階段のほうを真正面に向いて、石の椅子に座ってる――分かるか?」
「う、うん」
ルナは、返事をした。
「ルナ、待ってろよ――この鎖は、すぐ外して、」
「ペンチ持ってきました! あと、ナタがあったから持ってきてみた!」
「悪いな!」
商店街の若い男が、店からナタと工具箱を持ってきた。鎖はなにもない空間から伸びているため、途中からぶったぎるより方法はない。それをグレンが受け取ったところで、先ほどからあたりに漂う、焦げくさい匂いとは対照的な――むせ返るような桃の香りがあたりにたちこめた。
「“無駄よ――この鎖はそんなものでは解けないわ”」
ルナの口から、透きとおるような声がした。――アズラエルもグレンも、それがだれの声か、すぐに分かった。
「“ルナのリカバリと、ロビンのリカバリを同時にします”」
「――リカバリ?」
クラウドが思わず口にしたが、ルナの口から、それに対する答えは出てこなかった。
「“クラウド、アンジェに、パズルの用意を、と言って。それから、ミヒャエルをお呼びなさいな。さあ、行って。――ルナは大丈夫よ”」
皆は、固まったまま、にわかに動けなかったが、イシュマールが、「ナキジン! ミヒャエルを呼んでくれ!」と叫んだので、我に返った。
「クラウド、月の女神がいうたとおりに。それから、アズラエルかグレン、一応、ルナのZOOカードを持ってきたってくれ。――ああそうじゃ、ついでにペリドットとアントニオにも連絡じゃ!」
「あいよっ!!」
ナキジンが一番に飛び出して行った。フサノスケがあとを追う。
「待っとれよ! ルナちゃん!」
(パズル?)
クラウドはルナを見つめたが、すでにルナは、意識を失っているようだった。
(アンジェも、パズルをつかえるのか?)
「パズル」という占術は、新聞にあったように、マクタバという少女が生み出した、新しい占術ではなかったのか?
「ルナ」
アズラエルがルナの頬に触れたが、ずいぶんつめたかった。ルナは意識を失うように眠っていた。ちいさな吐息がこぼれるのが分かったので、アズラエルもグレンも、ほっと胸を撫でおろした。
「イシュマール、ルナを頼むぞ」
「ああ、分かっておる」
「クラウド、ミシェルは俺が家に連れて帰る。アンジェリカのほうは頼んだぞ」
「すまないグレン、頼む」
アズラエルとグレンが、階段脇の坂道を降りていく。
クラウドも、一度ルナのほうを振り返り、「ルナちゃん、行ってくるよ」と声をかけたあと、坂道を降りようとしたが――。
「“プロメテウスの涙は、どれだけ大勢の涙があれば、止むのかしらね? それとも、たったひとりの、後悔の涙なのかしら”」
再び、ルナの口から、言葉が飛び出した。クラウドは、その言葉を今朝、ルナの日記帳で読んだばかりだった。
(プロメテウス――)
眠っているはずのルナの頬から、ひとすじの涙がこぼれた。
(どういう意味なんだ?)
イシュマールとクラウドは顔を見合わせたが、階段のほうのすさまじい雷鳴に、顔を引きつらせた。
砂時計に腕が入らないということは、長寿の者たちから寿命を分け与えてもらうことができない。――となると、現時点では、ロビンには、三十日しか残されていないのだ。
しかし、月の女神が出てきて指示したということは、ほかに方法があるということなのかもしれない。ルナのこの状態は、なにか意味があるのだろう。
(ロビンとルナの“リカバリ”を同時にする?)
「イシュマール、リカバリってなんだろう?」
「わしも分からんわい……」
クラウドが階下に降りると、ロビンが、三段目に手をかけようとしていた。彼はクラウドの姿に気付き、血まみれの顔でにやりと笑った。
「――なにが一日一段だ」
今日中に、上がり切ってやる。
そう言ったロビンの顔は壮絶というべきものだった。クラウドは息をのんだ。ロビンはもう、クラウドを見てはいなかった。震える手を上にのばして、這いずり上がろうとしている。
クラウドは、振り返らずに、シャイン・システムに向かって走った。




