255話 ギフト 3
「――二億までなら、出せるんだが」
「どうか、あきらめてくださいませ」
あまり物に執着のないグレンが、ここまで粘るのも珍しい。ルナとミシェルが、目だけでうなずきあって、口を開きかけたとき――クラウドが割って入った。
「じゃあ、アンジーの花器、“マーメイド”と引き換えでどうです?」
「“マーメイド”……」
急に、支配人の声色が変わった。
「この店の花器も、素晴らしい芸術品がそろってる。そこにアンジーの“マーメイド”が加わるってわけだ。見劣りはしないと思うけどね。もう二度と作られることのない、幻の作品だ」
「いやはや、さすがルナ様のご友人ですな! マーメイドをお持ちとは……」
支配人は、白髭をさすった。
「少々、お待ちください」
「えっ!?」
支配人は別室に移動し、だれかに電話をかけ始めた。きっとタツキが相手だろう。電話を終えてもどってくると、支配人は満面の笑みで、「お譲りいたします」といった。
二億出すといわれてもうなずかなかった支配人が、こうも簡単に。
グレンは、クラウドと支配人を二度見したが、幻聴ではない。
支配人はたしかに、「譲る」といった。
「明日、保証書と一緒に、現品を持込みさせていただきます」
「そうですか。では、その折りに……」
クラウドと支配人の間で、取引は終了した。互いのサインが紙片に踊ったのを見届けて、クラウドはグレンの肩を叩きながら、ウィンクをした。
「おい、クラウド、マーメイドって……」
「花器の中にあっただろ。人魚が三人、輪を描いて泳いでいるやつ」
「あ、ああ……」
「あれは非売品だ。ララの持ち物だった。展示会に出したきりのやつで、当時から欲しがっていた連中の間で価格交渉が行われていた。当時の相場で三億デル」
「三億!?」
ルナのウサ耳は跳ねて飛んでどこかへいった。
「この先、アンジーの幻の作品ともなれば、どれだけの価値がつくことか。……専門家じゃない俺の予想だって、その時計の値段は超えることが分かる」
ルナはやっぱり口を開けたが、セルゲイがルナを席に置き、開いた口にシュウマイを放り込んでやった。程よく冷めたそれを、ルナはむしゃむしゃと食べた。
「シュウマイはからしをつけてください」
「ハイハイ」
「……いや、まぁ、なんだ。助かったよ……」
グレンは自ら、クラウドの杯に紹興酒を注いでやった。
「礼はどうすればいい?」
「花器をララからもらったのはルナちゃんとミシェルだ。礼ならそっちへ」
クラウドは器用にウィンクを決めて、グレンと乾杯した。グレンがふたりのほうを見ると、ミシェルとルナは同時に親指を立てた。交換を許す、の意味だろうか。
グレンはふたりに、存分にお返しをすることにした。
それからは、豪勢な中華料理を皆で満喫した。
手づくりギョウザが、こんな豪華な会食にチェンジしてしまった。シャンパオのおまかせメニューでもギョウザが出てきたが、やはりどこかへいったウサ耳が帰ってきてぴょこたんするほどの美味しさだった。
なにやらたいせつな話があったかもしれないのだが、ルナは、ピエトとミシェルと、食べたことのない食材や料理に、いちいち耳を跳ねさせたりしていただけで、あまり小難しい話には参加させてもらえなかった。自分もあまりする気はなかった。
初めて食べた北京ダックが、とっても美味しかったせいだ。
そして、胡麻団子と杏仁豆腐と桃饅頭のデザートも、しっかり食べたせいだ。
ネイシャとピエトが目をこすり始めたころ、解散になった。
今回はさすがに無料ではなかったが、グレンがまとめて支払ってくれた――どうやら、時計のお礼らしい。
最初はペリドットと話していたものの、途中からバカ話しかしなくなってきたナキジンは、「こういう集まりならまた呼んでくれ」と上機嫌の千鳥足で帰っていった。
「また、いらしてくださいませ」
支配人自ら、見送りに出てきた。ルナは最後まで、「タキおじちゃんにどうかよろしく」というあいさつをしようか迷っていたが、知り合いだとバレるのはまずいので、「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」としか、言えなかった。
そんなに長い間いた気はしないのに、帰れば深夜を過ぎていた。
ピエトとネイシャを寝かしつけ、ルナとミシェルは、ふたりだけで、ベランダに出た。
昨日もらったアンジーのグラスに、それぞれ好きなお酒を注いで。
今日は、ふたりとも、シャンパオではまったくお酒を飲まなかった。お茶がとても美味しかったので、そればかり飲んでいたのだ。
風が少し吹いていて、寒い。秋を感じさせる風だ。
夜空は、満点の星。
「何時だっけ。午前一時?」
「うん。あとちょっと」
ふたりは、厚めのカーディガンの胸元を合わせた。木々のざわめきがすこし怖い。昼はそうでもないのに。広すぎる庭は、まるで森のようだった。
「このワインおいしーよ」
「ほんと?」
「うん。1000デルしないやつだけど」
ルナは「リュアン」という背の低い、花びらのようなワイングラスに赤ワイン、ミシェルは「ギフト」というロンググラスに、ハイボールだ。
「あ、あれ」
頭上にゆっくり、星が現れた。
木々の額のなかに、宇宙――そこに、ルナのこぶし大くらいの大きさの星が現れた。進むスピードは、あまりにのんびりで、動いているのも分からないくらい――観察するにはもってこいだ。
「すごい! ほんとに出た」
「うわあ――ほんとだ――綺麗」
この星は、「ギフト」という。
くっきりと、白と鮮やかな青に別れた、マーブルカラーの惑星だった。
「午前一時には、ちょっと早かったね」
「うん。たぶん、一時ころがきっと、一番真ん中に来るんだよ」
ミシェルが持つグラスは、この惑星をモチーフにつくられたものだ。
アンジェラオタクを自称していたミシェルだったが、今回、自分の知らない彼女の作品が、あまりにもあるのに驚いた。アンジェラの最新作は、手に入らなくても追っていたし、図録だって、三冊は持っている。彼女はけっこう精力的に作品をつくってきた。だから、作品の数も相当ある。
でも――。
今回、ララからもらった作品群は、ほとんどが、図録にはないものばかりだった。展示会にも出ていない、一度も表向きに発表されていないものがほとんど。
ララの私物が半分だった。保証書にあった作品の説明が、唯一の情報源だ。
これは、アンジーが星の図鑑を見て、つくったグラス。
「まさか、今日、地球行き宇宙船が通るルートで、観測できるなんて……」
今朝、その情報を見つけたのはミシェルだった。
携帯電話に、地球行き宇宙船のアプリがインストールされているので、その日の区画ごとの天気や、現在地球行き宇宙船が通っている座標、観測できる惑星や衛星、彗星、銀河などが、毎朝通知センターに送られてくるのだ。
いつもはほとんど見ないその通知を開いたのは、本当に偶然だった。
九月二日、午前一時ころ、上空に「ギフト」という大型惑星が観測されます――。
「これ、やっぱり、アンジーからの“ギフト”だったんだ」
ミシェルは言った。夜空に輝く惑星を見つめながら。
ララがくれたものだけれど、アンジーの作品のおかげで、グレンも欲しかった腕時計が手に入ったし、アズラエルも同じ腕時計を手に入れた。
そして、この星のことも。
「アンジーも今、この星を見ているかなあ」
アンジェラは、病院の屋上にいた。
看護師は、シグルスに頼まれて彼女を連れてきた。今夜、「ギフト」という星が現れるから、見せてやってくれと。
アンジェラは忘れてしまった。シグルスも、ララのことも。
自分が、あの惑星をモチーフに、グラスをつくったことも。
でも、夜空は見上げていた。ルナとミシェルと――ララとシグルスと、同じ空を見上げていた。
そして、星の名を覚えていた。
「あれはね、ギフト」
「よく知っているのね、ヨールカさん」
年配の看護師は、柔らかく、微笑んだ。
「石をちょうだい」
「ハイハイ。いいですよ。でも、朝までは駄目ですよ。一時間だけね」
「はぁい」
雨が降れば、この石の色は溶けて消える。明日は雨だったと、天気予報は言っていた。
看護師は特に、絵画などに興味はない。彼女がアンジェラ・D・ヒースという稀代の芸術家であることも、よく知らない。彼女の作品が、高値で取引されることも。
彼女にとってヨールカは、絵を描くことが大好きな、一患者である。
記憶を失って、幼児退行してしまった――。
「石を、ちょうだい」
「ちょっと待ってね」
石が入っているバケツは、けっこう重かった。入り口に置いていたバケツをようやく持ってくると、アンジェラは嬉しそうな顔をした。
「ありがとう」
そして、絵を描きだした。車いすから立って、地面に手をついて。
一瞬だけの、数時間だけの、芸術を。
真っ赤な石を持って。
明日には消える、色を塗る。
「綺麗な色ねえ」
看護師が、目を細めてほめると、アンジェラは微笑んだ。子どものようだった。
ギフトが、天空を過ぎていく。
「あら、星がもうすぐ過ぎますよ。見えなくなっちゃう。ほら、ヨールカさん、お星さまに、さようならをしましょう?」
「うん」
アンジェラは夜空を見上げて、星に手を振った。
「さよなら」
――さよなら、アンジー。




