255話 ギフト 1
ルナとミシェルは、ララ邸から帰ってきたあと、なんだか抜け殻みたいになっていた。めずらしく、彼女たちは何もせず、部屋に行き、ベッドに転がった。
レオナがひどく心配していたが、「そっとしておいてあげて」というクラウドのひとことで、部屋に突進するのをやめた。
夕食時になって、ふたりはやっと起きてきた。
ミシェルは自分の部屋からマイグラスを持ってきていた。それは、彼女がリリザで買った、アンジェラのペアグラスだ。記念日や、とっておきの日に使おうと思って買ったものだった。
「おお、いいグラスだね!」
レオナは褒めたが、ミシェルは「うん、いいグラスだよね」と微笑んだだけだった。
ミシェルは、丁寧にアイリッシュビールを注ぎ、今日は、ルナとふたりで乾杯した。
「いいの? ミシェル。これ、しまっておかなくて」
「え?」
「もう、アンジェラさんのグラスは、手に入らなくなるかもしれないんでしょ?」
ミシェルはグラスを見つめたが、「いいの」と言ってビールをごくごく飲んだ。
「しまっておくばかりだったら、思い出が残らないじゃん」
めのまえのテーブルには、いつもよりちょっぴり豪華な夕食。今日はアズラエルとバーガスがつくった、それはそれはお酒が進みそうな一品ばかりだ。
最高のグラスで飲んだら、もっと最高だ。
まるでアンジーの冥福でも祈るように――まるで、このあとのことを予想でもしたかのように――ふたりは、グラスにビールを注いだ。
ふたりがアンジェラの死を知るのは、何十年もたってからのことになる。
しかし、もう二度と、アンジェラの新しい作品は見られない。
そのことは、ミシェルにとって、彼女の死となんら変わらないのだった。
翌日、大量の荷物が届いた。
ルナとミシェル宛に届いたものばかりで、ふたりは二日酔いの頭を抱えながら――主にミシェルが――開けた。
アンジェラの作品だった。
リリザの別荘から見た海を描いた絵、グラスが五種類。ペアグラスが一脚。花器が三本。リリザの女神をかたどった置き物がひとつ、パール・ネックレス、指輪、ピアス――。
たしかに、なにかいらないかと聞かれたが、それには何も答えずに、お菓子だけをもらって帰ってきた。
ルナとミシェルは顔を見合わせた。
「気をつかわなくてよかったのに」
「引っ越しのときにもう、たくさんもらったよ」
「ララさんは、アンジーの作品を手元に置いておきたくないのかなあ」
「……そういうわけじゃ、ないと思う、けど」
ルナとミシェルは、ウサ耳とネコ耳をピコピコさせあったが、結論は出なかった。どちらにしろ、返して欲しいとはララは思わないだろう。
メッセージカードには、「お礼はいらない。しばらく忙しいから、連絡はいらないよ。ほとぼりが冷めたらあたしのほうから会いに行く」と書かれていた。
「やっぱりだね」
「うん」
いつもだったら、こんなにアンジェラの作品をもらったなら、二回くらい卒倒していても不思議はないと思うのだが、今日は、切なさがこみあげてくるばかりのミシェルだった。
リビングで開けていたら、ギャラリーが集まってくること!
「こりゃあ素敵だね! リビングのサイドボードに飾る?」
「庭の花を飾ろうか。いい花瓶だ」
「もっと庭に、花を植えようよ」
「絵は、ここに飾るか?」
まったく、やかましくて、感傷にも浸れない。
けれど、この出来事は、のちに重要な品物を手に入れることにつながる――まるでアンジーからの「ギフト」だと、ルナとミシェルは勝手に思ったのだった。
「は?」
「――うん。すまない。そういう顔をするだろうなとは思っていた」
ムスタファは、苦笑いで頭をかいた。
アズラエルは、久々にムスタファ邸に呼びだされたと思ったら、「アンジーの作品があるなら買わせてほしい」と顔を見るなり言われたのだ。
ミシェルとルナがララのお気に入りになったことは、どこからか聞いたのか。もしかしたら、ララからなにかもらっているかもしれないと思ったのだろうか――だが、ムスタファも、アンジェラの作品はかなり持っているはずだった。今さら買い取るほどのことだろうか。
「知らないのか。アンジェラは、もう新しい作品をつくることはないよ」
アズラエルは、その言葉に目を見張った。
「先だっての火事見舞いのときに聞いた。アンジェラは長期療養だそうだ。どこに行くかも聞いていない。ただ、おそらくもう、絵を描くことも、社交界に顔を出すこともないと」
「宇宙船は……」
「退院次第、降りる予定だそうだ」
「そうですか……」
すでに過去のことではあるが、さんざん騒動を起こしてくれた相手に何の感情もわかないかと思ったら、そういうわけでもないらしい。これでも、一時は関係のあった女だ。クラウドやルナの妙な気遣いは鬱陶しいが、恨みは残っていない。愛情は無論だが。
感情に名をつけるとすれば、憐憫に近いものだろうか?
――ララは、アンジェラを手放すのか。
すこし迷ったが、アズラエルは口にした。
「先日、ララさんから、ルナとミシェルにアンジェラの作品が送られてきまして」
「ほう!」
「アンジェラのガラス製品が好きなのは、ミシェルのほうだ。あのふたりがいいって言ったものなら」
「アンジェラがもうつくらないとなれば、彼女の作品は価値が上がる」
ムスタファは、太いためいきを吐いた。
「でも、グラスとか、アクセサリーとか、そんなもんばっかですよ。絵は一枚きりだ」
「グラスのなかに“ブラック・ベイ”はないかね」
「ブラック・ベイ?」
「リリザの夜の港をモチーフにつくったグラスだ。今の相場で三千万。おそらくもっと価値は上がるだろう」
「三千万!?」
「アッハハ! 惜しくなったかね」
アズラエルが頭をかく番だった。
「いや……。あなたにはお世話になってますし。ヘンなとこで欲をかくと、ロクなことにならねえ」
アズラエルは、「ブラック・ベイ」がないことを願ったが、そこはララだった。とんでもない価値のものばかり、厳選して送ってくれたらしい。「ブラック・ベイ」は、一脚だけあったペアグラスだった。
漆黒と群青の境目の色をしていて、透明な部分の隙間から見える気泡――たしかに、夜の港と言われれば。リリザの夜のグランポートは、アズラエルも行ったはずだが、物騒な思い出しかない。
不思議な感傷だった。
男のことしか頭になさそうな女に見えていたものは、こんなに美しい景色だったのか。
「こいつが三千万ねえ……」
「ラスト・ジャパン――その漆塗りのグラスが五千万、ラブ・エンド、そっちの水色が、二千五百万」
「ああ、わかったわかった」
ぜんぶの価値を調べたクラウドの言葉を遮り、アズラエルは言った。
「ルナとミシェルがもらったものだ。勝手にゆずるわけにゃいかねえしな」
「でも、ルナちゃんもミシェルも、欲しいものがあればあげるって言っていたよ」
「なんだと?」
「まぁ、花器は、この家で使うとしても、ふたりともピアスは開けていないし、ネックレスと指輪も、しまいこまれるんじゃないか。ふたりとも、あまりアクセサリーはつけるほうじゃないし」
「ブラック・ベイか。こいつをもらえるかな?」
「多分、いいっていうと思うよ」
クラウドの言葉は、希望的観測ではなかった。ルナもミシェルも、ふたりそろって「いいよ」と言った。
アズラエルは、さっそくムスタファに、「ブラック・ベイ」を持って行った。送られてきたときとまったく同じように包み直して。
ムスタファは大いに喜んで、その場で小切手を切ろうとしたが、アズラエルは断った。
「金は要らねえ。もともとこれはもらったものだし、あなたにはずいぶん世話になった」
グリーン・ガーデンに宿泊させてくれたことも大きい。あれがなかったら、ハンシックでの事件は解決していなかったかもしれない。
「じゃあ、これをやろう」
ムスタファは、自分がつけていた腕時計を外して、アズラエルに渡した。
「それは、盤面にイアラ鉱石というものが使われていてね……知っているかい」
「――知ってます」
アズラエルは目を瞬かせた。これは、セルゲイが父のエルドリウスから譲り受けたものと同じで、グレンが欲しがっていた時計だ。
だが、そうそう買えるものではなかった。金だけの問題ではない。なにせ、職人の手づくりで、世界でたった五本しか生産されておらず、ほとんど幻だ。
金に糸目をつけずに探しているグレンが、いまだ手に入れられていない。
「当時、五千万デルはしたものだ。貴重だよ。ま、グラスの価値は、おそらくそれを超えるだろうが」
アズラエルの目は、白イアラに釘付けだった。――不思議な石だ。
「本当にいいんですか」
「かまわんよ。その値段の腕時計は、いくつか持っているんだ」
ムスタファは、鷹揚に微笑んだ。
「ありがたく、いただきます」
つけているのをみたら、グレンに羨ましがられるだろうなと思っていたが、ヤツは早々に食いついてきた。
「おい、その時計、どこで手に入れた」
「どこでもいいだろ」
いっしょに暮らしているからと言って、仲がいいわけではない。アズラエルとグレンは相変わらずだった。
「いくら傭兵が荒稼ぎしてるからって、簡単に手に入るシロモノじゃねえはずだ――」
「もらったんだよ」
アズラエルはしかたなく言った。
「だれに」
「ムスタファ」
グレンは盛大に舌打ちした。持っているのを知っていたなら、俺が買ったのにという舌打ちだった。アズラエルは釘を刺しておいた。
「売らねえぞ」
「おまえからなんて、買わねえよ」
もともと、アズラエルは、時計に興味がある方ではない。これがイアラ鉱石でなかったら、ここまで欲しいものではなかった。グレンはどうか知らないが。
アズラエルはイアラ鉱石が気に入って、自分のコンバットナイフの装飾についている石を、白イアラに付け替えたくらいだ。
たっかい原石を購入して、船内の宝石職人に頼んで磨いてもらい、ナイフの装飾につけてもらった。
アズラエルはルナを目で探した。この時計を自慢してやろうと思ったのだ。ルナも白イアラは好きだし、たしか、ネックレスを持っていたはず。
ルナは、リビングのソファに、ぽて、と座っていた。ミシェルも一緒だ。またカオスな会話でもしているのだろうか。
あるいは、アンジェラの話か。だとしたら近づくべきではない。
そう思っていたら電話が鳴った。アズラエルの携帯電話ではなく、ルナのものだった。
「はい。もしもし」
ルナは五秒ほど遅れて電話に出た。
「ペリドットさん? どうしたの? ――うん。入ってきていいよ」
屋敷の玄関にでもいるのだろうか。ルナがぽてぽてと玄関に向かいかけると、ペリドットの姿はリビングに現れた。
「うわあ」
ミシェルの悲鳴も、無理もない。
「おまえ、玄関から入って来いよ」
「ああ、すまん。こっちのが楽で」
ルナは気の毒なことに、玄関扉を開けて「ペリドットさーん?」とマヌケな声を上げている。それにしても、pi=poは気づくのが遅かった。
『部屋に、不審者がいます』
遅れても、駆けつけたのはちこたんだけだった。この屋敷の防犯はどうなっている。
「ルナ」
玄関の外にいるはずの不審者に、部屋のなかから声をかけられれば、口ぐらい開けるだろう。
哀れにもほどがあるのは、ルナの顔だった。なんてマヌケ面だ。
「ちょうどよいお店?」
「ああ」
ソファには、ルナと不法侵入者、ミシェルとアズラエルが座った。ちこたんがペリドットを見張っていて、離れない。
pi=poのかわりにコーヒーでも淹れて来ようとしたルナを止め、ペリドットは「すぐすむ」といった。
「おまえは知っているはずなんだ。俺たちが会合を開くのに、ちょうどいい場所をな」
「会合?」
「おまえ、夢を見なかったのか?」
ルナはようやく、ペリドットが「お茶会」のことを言っているのだと気づいた。かつて、ルナはガルダ砂漠の夢を見たあと、森のなかで、たくさんの動物たちがお茶会をしている夢を見た。
「ゆめはみたよ。でも、ZOOカードの世界のことは、あたしいまいち分からないよ」
「ちがう。夢のなかの場所じゃない」
ペリドットは首を振った。
「この宇宙船のなかだ」
「えっ?」




