254話 羽ばたきたい孔雀 Ⅴ 3
「本当に、いいのかい?」
ここからは、余談だ。
ルナもミシェルも知らない――何十年もあとに、一冊の本を読んで知る、アンジェラの物語の結末。
「不自由はさせません。裕福に暮らせるだけの資金は送ります。あの別荘はあなたの名義にしておきましたから、ずっと住んでくださってけっこうです。定期的に、アンジーの様子を知らせてください。窓口は私になります。――それとも、ご迷惑ですか?」
「ああ、いや、そうじゃなくてさ」
あの火事があってから、ひとつきもすぎたころ。
リリザのグランポート港、エアポート内のカフェで、男二人が対峙していた。窓際の席はシグルスで、向かいはジルドだ。
「よく、ララが手放したよな」
「離婚の手続きも済ませました。もしそちらが結婚したければ、アンジーの同意を得れば、してもいい」
「肝心なとこを答えてくれねえのは相変わらずだな」
ジルドは身体全体で、ちょっとした怒りを表現した。
「俺としちゃ、アンジーといられれば、それでいいよ。金も断りたいとこだが、アンジーを不自由させたくねえんだろ、あんたらは。いいよ。受け取る」
「アンジーは、あなたが知っていたころの彼女じゃない。それでも?」
「あんたが、アイツの何を知ってたっていうんだ?」
ジルドが皮肉な笑みで返した。
「俺が一番、アンジーの近くにいた。そう思うぜ? アズラエルでもねえし、ダイでも、テリーでもない」
ジルドはいくつか名を挙げて、ぜんぶ否定した。
「あんたでもない。ずっと、俺が一緒にいるよ」
ハンシックの事件後、ジルドがあのとき、すべての責任を負って、地球行き宇宙船を降ろされた。搭乗資格も永久はく奪だ。だが、リリザで悠々自適の生活を送れるだけの手切れ金はララからもらったし、その金で、リリザの田舎町で小さなバーを開き、それなりに楽しくやっていた。
そこへ、いきなりこの話だ。記憶を失ったアンジェラを引き取れという。
まったく迷惑ではなかった。むしろ、喜んだくらいだ。
ジルドはアンジェラを愛していた。それだけは自信をもって言える。アンジーの取り巻きの中で、一番彼女を愛していた。
寂しいあの子を、愛していた。
黒服の女が、ひとりの女性を連れて席にやってきた。その姿を見て、ジルドは目を見開いた。
「記憶を失ったって、本当みたいだな」
「幼児退行の気配もある」
アンジェラが着ていたのは、今までの彼女なら絶対に選ばないような、小花柄の地味なワンピースだった。ヒールなどまったくない、ぺたんこのオープントゥの黒い靴。化粧もまったくしていない。
けれど、とても美しかった。
あの、目が覚めるような、真っ青な髪はそのまま――。
「ヨールカ、……だったっけ」
ジルドが、手を差し出した。
「俺、ジルド。これから、あんたと暮らすんだ。よろしくな」
アンジェラは――ヨールカは、おずおずと、手を握った。その態度も、今までのアンジーとは雲泥の差だ。
「ジルド」
ヨールカは、なにかをたしかめるような顔をした。シグルスは、それをしばらく見ていたが、まるで他人を相手にするように、ヨールカにはなにも話しかけず、立った。
「それでは。なにかあったら、私の携帯へ」
「おう」
ヨールカに言葉もかけず、黒服とともに、シグルスは去った。
ララもいない。顔すら見せない。ついてもこない。あれほど大切にしていたのに。
これが、役立たずになった芸術家の末路か。
ジルドはいっそうアンジェラが不憫になって、思わず抱きしめた。ヨールカは嫌がらず、ジルドの背に腕を回した。人懐こさは、そのままだ。
「俺が大切にするから、一緒に生きような」
「うん。あんた、あったかいねえ」
俺が一生、寂しい思いはさせない。
ジルドとヨールカの生活は、とてもおだやかなものだったと思う。
与えられた住居は、ララがアンジェラといっしょにリリザに滞在するときにつかっていた、海沿いの別荘だ。
そこには、ミケリアドハラドの大地をつくっている土が、固く敷き詰められたベランダがある。正方形の舞台のようで、とても広く、柵はない。
遠浅の海に張り出していて、ベランダから海に降りられるのだ。浅瀬は大人のくるぶしより上くらいの水量で、危険はない。
遠くまで、光を反射する透明な水色。絶景だ。
ミケリアドハラドの土でできたベランダは、ララがアンジェラのためにつくったものだった。けれど、彼女がその大地に絵を描くことは、今まで、一度もなかった。
「石を、ちょうだい」
シグルスから話を聞いていたジルドは、ミケリアドハラドの色彩石を渡した。たくさんの色の石が、無造作にバケツに積み込まれている。ヨールカはそれをひっくり返し、両手に持って、絵を描き始めた。
ヨールカは、飽きずに、ずっとそうして描いていた。
そんな日が、幾日続いただろう。
「これは、ジルド」
ヨールカは、緑の石で、森を描き始めた。
明るい森なの。キラキラ木漏れ日が差してくるの。とてもあったかいの。優しくて、安心するの。ここにいると、寂しくない。
次は、灰色の石を取り出した。
「これが、アズラエル」
固くて怖くて、触れたら切れるナイフみたい。アズラエルってだれだっけ。でも、そんな奴なの。ガンガンに固くて、動かないし、形も変わらないし、ぜったいあたしを寄せ付けやしないんだけど。でも。触ってみたく、なっちゃうの。
最後は、まるで、このキャンバスみたいな白い石だ。
「これは、シグルス」
シグルスって、だれだっけ。きっと、この大地みたいにどこまでも続いていて、果てがなくって、どこまで描いても色が塗れないやつ。ぜんぶ塗れないやつ。
でも、なくならない。大地は、なくならない。いつも、そこにある。
ヨールカは、顔を上げた。
海だ。
この海を知っている。――なんだっけ。
この、海は。
「ララだ!」
ヨールカは、海に降りた。ぱしゃん、と水を弾かせて。
そして、駆け出した。まっすぐ。どこまでも。
真っ赤なワンピースを着て。どこまでも、どこまでもまっすぐに。
空と海の境界。
果てってどこだろう。走るよ。どこまでもまっすぐに。
ねえ見てララ! 綺麗なワンピースでしょう!
「……ヨールカ?」
ジルドがすこし目を離した隙に、ヨールカはいなくなっていた。
あわててベランダに出る。広い大地に、柵はなく、すぐ海に降りられるようになっている。絵は描きかけだ。
「ヨールカ! ヨールカ!!」
砂浜にも姿はない。ジルドは焦って周辺を探し、それから屋敷中を探した。
息を荒げてベランダに戻った彼は、ついに警察を呼んだ。
午前中から、警察もジルドも懸命に探したが、夜になっても、ヨールカは、見つからなかった。
街にもいない。周辺では見当たらない。警察は、気の毒そうに言った。
「もしかしたら、海に入られたのでは……」
遠浅の海は、どこまでも浅い。けれど、ずいぶん向こうまで行くと急に深くなる。沖に出てしまえば、終わりだった。
ジルドは、暗闇の海に、バシャバシャと音を立てて駆け込み、叫んだ。
「ヨールカ! ヨールカぁ! ヨールカ!!」
「お気の毒ですが……」
ジルドは、溢れる涙をぬぐうこともせず、浅瀬に座り込んだ。
「アンジー……」
ヨールカの死は、数日後、シグルス経由でララに伝えられた。
元妻が死んだというのに、シグルスの受け答えは、相変わらず氷のようだった。けれど、ジルドに対する仕送りと、別荘の権利は、取り上げられることはなかった。
ジルドは、別荘内に小さな墓を建てたあと、ここで、ヨールカを待つことに決めた。もしかしたら、ひょっこり帰ってくるかもしれない。
だって彼女は、相当気まぐれな女だった。
ジルド・S・デボンは、晩年書いた、たった一冊の本で、作家呼ばわりされることになる。しかもベストセラーだ。奇しくも、地球行き宇宙船内に創設された、アンジェラ記念館の竣工式と同時に発売された。
フィクションにすら思えるほどの、波乱万丈なアンジェラの生涯を追った伝記が。
「ヨールカ」が最後に描いた、ベランダの絵が表紙だった。
「アンジェラ」が最後に描いた「ジルド」、「アズラエル」、「シグルス」、「アンジー」は、記念館の初日にお披露目された。
――そこに、「ララ」はない。
ジルドの言葉を借りるなら、アンジーの人生が、「ララ」だった。




