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キヴォトス  作者: ととこなつ
第六部 ~羽ばたきたい孔雀篇~
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254話 羽ばたきたい孔雀 Ⅴ 2


 ミシェルはその夜、雨に打たれたこともあって少し熱を上げたが、翌日には下がった。


 朝、キッチンのテレビで、皆は真相を知った。船内のニュース番組で、昨日の火事が取り上げられていたのだ。


 ニュースでは、事故とされていた。アンジェラがテレピン油をこぼし、そこに火が付いた――本当かどうか。なんとも裏がありそうな説明だったが、アンジェラ以外に怪我人はなく、ララの本邸が全焼しただけだ。


 ララ邸のpi=poは、消火活動をしなかった。消防に連絡したのは、ボディガードだ。


 ルシヤの事件の折り、pi=poの機能をすべて切ってしまったのが要因だった。pi=poは屋敷内に異常を見つけたり、見知らぬ人間がいると反応してしまう。ルシヤを屋敷に隠すために、pi=poの機能も停止させて、そのままになっていたのだ。


 でなければ、消火装置が働いて、火はすぐに消し止められていたはずだった。


 隣家へのもらい火はない。あのあたりは高級住宅街で、家同士が離れているし、隣家のpi=poは、きちんと防衛機能を発動した。隣家の草一本、燃えることはなかった。


 アンジェラの一部の作品以外は、貴重品も外部の金庫だ。不幸中の幸いといったところだろうか。


 午後もだいぶ過ぎたころ、シグルスから電話があった。今から、中央区の別邸に来られないか、と。


 めずらしく、クラウドとアズラエルはついてこようとしなかった。

 ミシェルとルナだけが呼ばれて、ララの本邸に向かった。


「昨日は、見苦しいところをお見せしました」


 シグルスも憔悴(しょうすい)していたが、ララもだ。肘掛椅子に座り込み、窓のほうを向いたまま。いつものテンションの高さはない。

 ララは、背を向けたまま、ルナたちのほうに向かって手招きをした。

 シグルスを見ると、「行ってやってください」という顔をしたので、ふたりはララに近寄った。


「ララさん……」

「“アンジェラ・D・ヒース”は、今日で店仕舞いだ」

「えっ……」


 ララは、やんわりと笑みを浮かべていた。無理なものではないが、切なげな笑みだった。


「ミシェル、欲しい絵はないか? 作品は? もう少ししたら、あの子は、伝説になっちまう。商品の値段は爆上がりするだろう。今のうちだったら、欲しいのをあげるよ。なにかないかい?」


 まさか、そんなことのために、呼んだのか?

 ミシェルはルナと顔を見合わせた。


「遠慮なくお言い。そうでないと、もうあの子の作品は、あんたの手には入らなくなる。あたしが、アンジーをそれだけの芸術家に育て上げたし、これからもそうするつもりだ。あの子の美術館をつくって、それから……」


 ララはふと、遠い目をした。


「ルナにも迷惑をかけたよ……でももうあの子は、あんたを(わずら)わせることは二度とないだろう。それは約束する」


 ララは深く嘆息して、外を見つめた。


「あの……」


 ルナもミシェルも、言葉を失っていた。

 シグルスが、お茶の用意を終えて、ふたりを呼んだ。今度はララが、「行っといで」とでもいうように手を振り、ふたりを解放した。


「アンジーは助かりましたが、記憶を失ってしまったんです」


 ソファに座るよう勧めた。ふたりの目の前には、豪華なアフタヌーンティーセットがあったが、とても手を付ける気にはならなかった。


「記憶を……?」

「ええ。私や、ララさまのことも忘れています。でも、全部の記憶を失ったのではなく、ララさまに拾われる前に戻っているんです」


 ――アンジェラは、今朝、目を覚ました。

 病室のベッドに座ったまま、あまりにも無垢な顔できょろきょろ周囲を見回し、「……ママはどこ?」と看護師に聞いたそうだ。

 様子がおかしかったので、自分の名が言えるか聞くと、こう名乗った。


「……ヨールカ・ビスロッチェ・ミケリアドハラド・メラギ・パジャトゥー・ラ」

 そして、言った。

「石を、ちょうだい」


「アンジェラという名は、覚えていませんでした。もちろん私の名も、ララさまの名も――顔も」


 ララは、肘掛椅子に座ったまま、微動だにせず、何も言わなかった。


「自分が稀代の芸術家だということも。――私が、夫だったということも」


 シグルスの薄い笑みが、わずかに崩れた気がした。


「……悲しんでくださるのですか」


 ルナとミシェルの目に、うっすらと涙がにじんだのを見て、シグルスが、はっきりと驚いた顔をした。


「あなた方には、迷惑しかかけていない気がしますが」


「ララさん、どうして、あたしに、あの絵をくれたんですか?」


 ミシェルが聞くと、ララはすこし振り返った。

 あの絵とは、ミシェルが「アンジー」と名付けた、あの絵だ。

 真っ赤な絵の具。それだけで、塗りたくられた。


「あたしが、もう少し早く、あの絵に気づいてたら……」


 ミシェルが、ルナから受け取ったあの日、すぐにその場で開けていたら。もっと早く、ララに、あの絵を返していたら。

 ララはミシェルに、気づいてほしかったのでは? 

 気づいていたら、今日みたいなことは、防げただろうか。

 シグルスは、あの絵を見て、アンジーに「危うさ」を感じたのだ。昨日の出来事は、予測されていたことなのではないのか。


「予測なんて、だれもできませんでしたよ」


 それは、シグルスが否定した。

 真っ先に屋敷の外へ避難したメイドは、火事に至った一部始終を、ララとシグルスに話した。


 アンジェラが、屋敷の壁中に石で絵を描いていたこと。家具や絨毯を外へ放り投げ、狂気を帯びていたこと。カーテンに火をつけたときに叫んだ言葉――。


『今日はお祭りなの! 火のお祭り!』

 

「朝までは、普通だったんです」


 シグルスはおとついの夜、彼女と夜を過ごした。そのときは、いつも通りだった。


「ミシェルのせいじゃないって、昨日言ったはずだよ」

 ララも、深いため息とともに、言葉を落とした。

「あたしがあの絵をあんたにプレゼントしたのは、――気づいてほしかったからじゃない。あれが、アンジーの“最高傑作”だったからだ」


 ララも分かっていた。あの絵は、アンジーの究極の作品だった。

 そしておそらくは、最後の作品かもしれなかった。

 だから、ミシェルにあげたかった。


「でも、アンジーは、あたしを鏡だって」

 ミシェルはなおも言いつのった。

「アンジーは、あたしっていう鏡を見て、自分を見たんじゃないのかな。自分の命を。魂を。だから、あんな、」


「ねえ、ミシェル」

 ララは言った。

「だとしても。だとしても――これはきっと、あの子には、必要な機会だった」


「アンジーは、今まで、“赤”を描いたことが、一度もなかったんですよ」

 シグルスは、冷めた紅茶を取り換えながら、言った。

「あの子が、ララさまと出会ったときに描いていたのは、空でした。初めてララさまに連れられて、海を見てからは、ずっと彼女が表現するモチーフは、海になった」


 それは、ミシェルもルナも、知っていることだ。

 アンジェラが描くものはいつも海、空、水――本人の髪色のように、美しい青ばかり。


「アンジーは、海を、いつも“ララ”だと言った」


 ララは、変な唸り声を出した。一度身震いし、火もついていない煙管をテーブルに置いた。


「アンジーが描いてきたものは、すべてララさまだった。火はおそらく、彼女の故郷の祭りであり、原点です」


 シグルスは、奇妙な笑みを浮かべた。表現しようのない。


「走馬灯みたいだと、私は言ったんです。火を描き、鋼を、土を、緑を表現した――海しか見ていなかった彼女が、いきなり、自分の人生を彩ってきたものを描き出す――」


「ああ! もうだめだめ。湿っぽいのはなし!!」


 ララが立ち上がって、ズカズカふたりのほうへやってきた。


「こんな空気じゃ、美味いもんも食えねえだろうよ! シグルス、お土産に包んでやって。おうちでお食べ。今日はあたしもなにかと忙しいしさ」

「ララさん、」

「アンジーは、幸いにも、死んじゃいないんだよ!」


 ララは今日、まだアンジェラの前に姿を見せていない。そして、おそらくは、もう会うことはない。

 ――ララは、もう、アンジェラには、会わない。


「なんとか時間をつくって、方々に謝りに行かなきゃならんし、屋敷の後始末も――まったく、面倒ばかりかけてくれたよあの子は!」


「ララさん!」

 ミシェルは声を張り上げていた。

「アンジーは、あなたの“アンジェ”だった?」


 シグルスが止めるようなそぶりを見せたが、遅かった。ララは一度シグルスを睨みつけ、それから言った。


「恋も愛情も、あたしには分からんさ」


 でもララは、ヨールカを愛した。気に入ればだれでも抱くララが、アンジェラは抱かなかった。自分が認めたモデルや芸術家、ことごとくと寝たララが。アンジーは特別だったからだ。何が起ころうとも見捨てなかった。たとえ共倒れになったとしても。


 築き上げてきた実績を、崩壊させる引き金になるところだったとしても。


「アンジーに男を教えたのはシグルスだし、段取りをつけたのはあたしだ」

「……後悔してらっしゃるんです?」

 シグルスが聞いた。ララは笑い飛ばした。

「後悔してるさ! あんないい女に手を出さなかったことをさ!」


「アンジーは……」

 ララさんの、恋の相手だった?


 聞こうとしたミシェルの唇を、ララがそっと奪った。人差し指で。


「それ以上は、なしだ。ミシェル」

 ララは微笑んだ。美しい笑みだった。

「そんなもんは分からないのさ。あたしだってきっと死んでからしか分からない。これから先、現れるかもしれないし、現れないかもしれない」


 ミシェルもルナも、床に、一粒の雨が落ちたのを見た。


 どこから落ちたのかは知れない。だって、ララはすぐに背を向けていたから。


 このあたしに、これほどの傷をつけて去っていく女なんて、そうそういてたまるもんかい――。




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