254話 羽ばたきたい孔雀 Ⅴ 2
ミシェルはその夜、雨に打たれたこともあって少し熱を上げたが、翌日には下がった。
朝、キッチンのテレビで、皆は真相を知った。船内のニュース番組で、昨日の火事が取り上げられていたのだ。
ニュースでは、事故とされていた。アンジェラがテレピン油をこぼし、そこに火が付いた――本当かどうか。なんとも裏がありそうな説明だったが、アンジェラ以外に怪我人はなく、ララの本邸が全焼しただけだ。
ララ邸のpi=poは、消火活動をしなかった。消防に連絡したのは、ボディガードだ。
ルシヤの事件の折り、pi=poの機能をすべて切ってしまったのが要因だった。pi=poは屋敷内に異常を見つけたり、見知らぬ人間がいると反応してしまう。ルシヤを屋敷に隠すために、pi=poの機能も停止させて、そのままになっていたのだ。
でなければ、消火装置が働いて、火はすぐに消し止められていたはずだった。
隣家へのもらい火はない。あのあたりは高級住宅街で、家同士が離れているし、隣家のpi=poは、きちんと防衛機能を発動した。隣家の草一本、燃えることはなかった。
アンジェラの一部の作品以外は、貴重品も外部の金庫だ。不幸中の幸いといったところだろうか。
午後もだいぶ過ぎたころ、シグルスから電話があった。今から、中央区の別邸に来られないか、と。
めずらしく、クラウドとアズラエルはついてこようとしなかった。
ミシェルとルナだけが呼ばれて、ララの本邸に向かった。
「昨日は、見苦しいところをお見せしました」
シグルスも憔悴していたが、ララもだ。肘掛椅子に座り込み、窓のほうを向いたまま。いつものテンションの高さはない。
ララは、背を向けたまま、ルナたちのほうに向かって手招きをした。
シグルスを見ると、「行ってやってください」という顔をしたので、ふたりはララに近寄った。
「ララさん……」
「“アンジェラ・D・ヒース”は、今日で店仕舞いだ」
「えっ……」
ララは、やんわりと笑みを浮かべていた。無理なものではないが、切なげな笑みだった。
「ミシェル、欲しい絵はないか? 作品は? もう少ししたら、あの子は、伝説になっちまう。商品の値段は爆上がりするだろう。今のうちだったら、欲しいのをあげるよ。なにかないかい?」
まさか、そんなことのために、呼んだのか?
ミシェルはルナと顔を見合わせた。
「遠慮なくお言い。そうでないと、もうあの子の作品は、あんたの手には入らなくなる。あたしが、アンジーをそれだけの芸術家に育て上げたし、これからもそうするつもりだ。あの子の美術館をつくって、それから……」
ララはふと、遠い目をした。
「ルナにも迷惑をかけたよ……でももうあの子は、あんたを煩わせることは二度とないだろう。それは約束する」
ララは深く嘆息して、外を見つめた。
「あの……」
ルナもミシェルも、言葉を失っていた。
シグルスが、お茶の用意を終えて、ふたりを呼んだ。今度はララが、「行っといで」とでもいうように手を振り、ふたりを解放した。
「アンジーは助かりましたが、記憶を失ってしまったんです」
ソファに座るよう勧めた。ふたりの目の前には、豪華なアフタヌーンティーセットがあったが、とても手を付ける気にはならなかった。
「記憶を……?」
「ええ。私や、ララさまのことも忘れています。でも、全部の記憶を失ったのではなく、ララさまに拾われる前に戻っているんです」
――アンジェラは、今朝、目を覚ました。
病室のベッドに座ったまま、あまりにも無垢な顔できょろきょろ周囲を見回し、「……ママはどこ?」と看護師に聞いたそうだ。
様子がおかしかったので、自分の名が言えるか聞くと、こう名乗った。
「……ヨールカ・ビスロッチェ・ミケリアドハラド・メラギ・パジャトゥー・ラ」
そして、言った。
「石を、ちょうだい」
「アンジェラという名は、覚えていませんでした。もちろん私の名も、ララさまの名も――顔も」
ララは、肘掛椅子に座ったまま、微動だにせず、何も言わなかった。
「自分が稀代の芸術家だということも。――私が、夫だったということも」
シグルスの薄い笑みが、わずかに崩れた気がした。
「……悲しんでくださるのですか」
ルナとミシェルの目に、うっすらと涙がにじんだのを見て、シグルスが、はっきりと驚いた顔をした。
「あなた方には、迷惑しかかけていない気がしますが」
「ララさん、どうして、あたしに、あの絵をくれたんですか?」
ミシェルが聞くと、ララはすこし振り返った。
あの絵とは、ミシェルが「アンジー」と名付けた、あの絵だ。
真っ赤な絵の具。それだけで、塗りたくられた。
「あたしが、もう少し早く、あの絵に気づいてたら……」
ミシェルが、ルナから受け取ったあの日、すぐにその場で開けていたら。もっと早く、ララに、あの絵を返していたら。
ララはミシェルに、気づいてほしかったのでは?
気づいていたら、今日みたいなことは、防げただろうか。
シグルスは、あの絵を見て、アンジーに「危うさ」を感じたのだ。昨日の出来事は、予測されていたことなのではないのか。
「予測なんて、だれもできませんでしたよ」
それは、シグルスが否定した。
真っ先に屋敷の外へ避難したメイドは、火事に至った一部始終を、ララとシグルスに話した。
アンジェラが、屋敷の壁中に石で絵を描いていたこと。家具や絨毯を外へ放り投げ、狂気を帯びていたこと。カーテンに火をつけたときに叫んだ言葉――。
『今日はお祭りなの! 火のお祭り!』
「朝までは、普通だったんです」
シグルスはおとついの夜、彼女と夜を過ごした。そのときは、いつも通りだった。
「ミシェルのせいじゃないって、昨日言ったはずだよ」
ララも、深いため息とともに、言葉を落とした。
「あたしがあの絵をあんたにプレゼントしたのは、――気づいてほしかったからじゃない。あれが、アンジーの“最高傑作”だったからだ」
ララも分かっていた。あの絵は、アンジーの究極の作品だった。
そしておそらくは、最後の作品かもしれなかった。
だから、ミシェルにあげたかった。
「でも、アンジーは、あたしを鏡だって」
ミシェルはなおも言いつのった。
「アンジーは、あたしっていう鏡を見て、自分を見たんじゃないのかな。自分の命を。魂を。だから、あんな、」
「ねえ、ミシェル」
ララは言った。
「だとしても。だとしても――これはきっと、あの子には、必要な機会だった」
「アンジーは、今まで、“赤”を描いたことが、一度もなかったんですよ」
シグルスは、冷めた紅茶を取り換えながら、言った。
「あの子が、ララさまと出会ったときに描いていたのは、空でした。初めてララさまに連れられて、海を見てからは、ずっと彼女が表現するモチーフは、海になった」
それは、ミシェルもルナも、知っていることだ。
アンジェラが描くものはいつも海、空、水――本人の髪色のように、美しい青ばかり。
「アンジーは、海を、いつも“ララ”だと言った」
ララは、変な唸り声を出した。一度身震いし、火もついていない煙管をテーブルに置いた。
「アンジーが描いてきたものは、すべてララさまだった。火はおそらく、彼女の故郷の祭りであり、原点です」
シグルスは、奇妙な笑みを浮かべた。表現しようのない。
「走馬灯みたいだと、私は言ったんです。火を描き、鋼を、土を、緑を表現した――海しか見ていなかった彼女が、いきなり、自分の人生を彩ってきたものを描き出す――」
「ああ! もうだめだめ。湿っぽいのはなし!!」
ララが立ち上がって、ズカズカふたりのほうへやってきた。
「こんな空気じゃ、美味いもんも食えねえだろうよ! シグルス、お土産に包んでやって。おうちでお食べ。今日はあたしもなにかと忙しいしさ」
「ララさん、」
「アンジーは、幸いにも、死んじゃいないんだよ!」
ララは今日、まだアンジェラの前に姿を見せていない。そして、おそらくは、もう会うことはない。
――ララは、もう、アンジェラには、会わない。
「なんとか時間をつくって、方々に謝りに行かなきゃならんし、屋敷の後始末も――まったく、面倒ばかりかけてくれたよあの子は!」
「ララさん!」
ミシェルは声を張り上げていた。
「アンジーは、あなたの“アンジェ”だった?」
シグルスが止めるようなそぶりを見せたが、遅かった。ララは一度シグルスを睨みつけ、それから言った。
「恋も愛情も、あたしには分からんさ」
でもララは、ヨールカを愛した。気に入ればだれでも抱くララが、アンジェラは抱かなかった。自分が認めたモデルや芸術家、ことごとくと寝たララが。アンジーは特別だったからだ。何が起ころうとも見捨てなかった。たとえ共倒れになったとしても。
築き上げてきた実績を、崩壊させる引き金になるところだったとしても。
「アンジーに男を教えたのはシグルスだし、段取りをつけたのはあたしだ」
「……後悔してらっしゃるんです?」
シグルスが聞いた。ララは笑い飛ばした。
「後悔してるさ! あんないい女に手を出さなかったことをさ!」
「アンジーは……」
ララさんの、恋の相手だった?
聞こうとしたミシェルの唇を、ララがそっと奪った。人差し指で。
「それ以上は、なしだ。ミシェル」
ララは微笑んだ。美しい笑みだった。
「そんなもんは分からないのさ。あたしだってきっと死んでからしか分からない。これから先、現れるかもしれないし、現れないかもしれない」
ミシェルもルナも、床に、一粒の雨が落ちたのを見た。
どこから落ちたのかは知れない。だって、ララはすぐに背を向けていたから。
このあたしに、これほどの傷をつけて去っていく女なんて、そうそういてたまるもんかい――。




